6 異変前兆
結局、エリスはセシリアから薬を貰えなかった。互いに平行線のままで話は進み、背後に聞こえるセシリアの声を振り切る形でエリスが退室しての強制終了。エリスとしては不本意な別れ方だったが、警邏が予定として控えていては仕方が無い。和解は魔術学会の後になるだろう――セシリアが何故、あれ程までに怒っているのかを理解出来ないエリスには、そんな能天気な結論が限界だった。
さて、セシリアの居る――というかセシリアしか居ない――医療看護室を離れ、エリスが次に向かうのは、先日エリスが使われたのを始めて見た第一会議室である。現在第一会議室は臨時の本部として機能している。魔術学会期間中の王都全域の情報をここに収束し、警邏の担当を交代する際に情報共有を行えるようにしているのだ。交代の時間までは幾許の猶予があるエリスであったが、先んじて本部に向かうのにもちゃんとした理由がある。
――情報は鮮度も命だが、量も重要である。如何に最新で重要な情報とは言え、それだけでは判断出来ない事柄など山ほどにある。情報の変遷を知らなくては全体の経緯を理解し辛いだろう。複数の視点を持たなくては情報の多面性を読み取れないだろう。様々な情報を持ち、それらを下地に最新の情報を取り入れる事で初めて、情報から真に迫る推測が可能となる。エリスは無知だ。日々の経験、夜の読書、毎夜見ている英雄の夢。それらから意欲的に知識を得ようとしているとは言え、それでも記憶喪失の遅れは大きい。故に、エリスにとってはどんな情報も値千金となる。知っていない所から始めざるを得ない自分が、知っている所から始められるのだ。ならばこそ、多少の先行待機など苦でもない。寧ろ楽であり、益であろう。
第一会議室に到着したエリスは、中で作業している人間の邪魔にならぬようこっそりと入室する。中は声と情報、それに人が行き交う特殊な空間となっていた。会議室の中央には長机を六つ合わせた物の上に、今回の為に用意したのであろう巨大な王都の地図が鎮座している。地図の上には小さな色付きの石が置かれており、赤、黄、青の順に発生した事件の危険度が示されている仕組みだ。解決されたものは石が取り払われ、入口から向かって左の壁の掲示板に解決済みの事件として概要が張り出される。そして、未解決の事件は逆側に張り出されている。――地図を中心に左に解決済み、右に未解決の掲示板がある間取りで、その奥に情報を整理している人員が居る形だ。
エリスの本来の予定としては、解決済みの掲示板を先に見て、それから現状発生している事件を知るつもりだったのだが、エリスの視線は地図上のある地点に縫い付けられた。
「赤色の、三角錐?」
王都全域を示すこの地図の上には、石に色が塗られた物が幾つも点在しているのは先に述べた通りだが、それぞれの形にも意味が存在している。平たい丸の石ならば「人」が関わる事件。殺人・強盗・路地裏の喧嘩に至るまでがこれに含まれる。四角い石ならば「物」にまつわる事件。建築物の損壊・展示品の破損・道路の混雑の類はこれに当たる。そして、三角錐。これは火急の事件や問題として取り上げられてこそいないが、何か怪しさや不気味さを現場の者が感じ取った際に置かれる、仲間内への警鐘である。赤色の三角錐――色における段階分けが度合いの高い方から赤・黄・青の三段階である事を考えれば、これは随分ときな臭いと言えるだろう。エリスは仲間が知らせんとしている情報を見に行こうと掲示板へ足を向け――ぽんぽんと肩を叩かれて後ろを振り向いた。
「? なんです……うぎゅ」
振り向いた先にあったのは、ぴんと伸びた人差し指だった。無防備なエリスの頬に指が突き刺さる。指はぐりぐりと頬にねじ込まれ、その度にエリスの表情筋は意に反した動きを強要される。
「むぎゅ、うぎゅむぐ」
しばし人差し指はエリスの頬を蹂躙すると、満足したのか脈絡も無く離れる。指の向こうに、満面の笑みが見えた。被害者としては悔しいが、良い笑顔と認めるのも吝かではない輝きぶりである。精一杯の抗議を込めて、エリスはその笑顔の持ち主の名を口にする。
「……お久しぶりですね。レイ・アルトイェットさん」
「わざわざフルネームで呼ぶ? ハッ、高々この程度の悪戯でその対応。騎士様の狭量さが伺えるわね」
満面の笑みを嘲笑へと変えながら、彼女は胸を張ってエリスを見下す。
――レイ・アルトイェット。ぴんと伸びた背筋。室内にも関わらず麦藁帽を被り、その奥で勝気な性格が見え隠れする目つきを見せる彼女は、ブレポスでの魔蝿の騒動における渦中に居た一人であり、二十代前半という若さながらに魔術協会における内部部署、「魔術学会」の一つである火の学会の学師に上り詰めた自称、天才魔術師である。――尚、ここで言う「魔術学会」とは、現在王都にて開催中の魔術学会と意味が異なる。前者は魔術協会の内側だけの組織、集合体であり、内部の人間が寄り集まっているというのが正確である。一方、後者は魔術協会を主軸とした上で、外部の支援団体や貴族も枠組みに含まれる。双方、魔術なる一学問を研究する上での組織であり、本質的には似通っているからこそややこしい。名付けの時期だとか、運営や企画が異なるからだとか理由はあるのだが、エリスとしても非常に面倒臭い名前を付けてくれたなと関係各位に恨み節を念じる所である。
さて、そんな彼女はエリスを一通り見下し終えると、周囲を見渡して何かを――誰かを探し始めた。
「誰かを尋ねに来たんですか?」
「ん、まぁね」
警備や護衛等、学会期間中は共同戦線を張っている魔術協会とは言え、基本的には敵対組織。日頃の対応や、今現在の警備の兼ね合いからも分かる通り、騎士団と魔術協会は互いに不倶戴天の敵と言っても過言ではあるまい。そんな中、魔術協会の人間である彼女の来訪は些か不自然に映る。
親切と探りを兼ねて、エリスはレイへと案内を申し出た。
「良ければ案内しますけど……」
「そ。じゃあ、あんたの所の頭までお願い」
「頭?」
あんたの所の頭――それに該当するのは、王都防衛騎士団の団長であるラルフのみである。彼女の振舞いからは察せられなかったいきなりの要求に、エリスは僅かばかりの沈黙と停滞に陥る。それを警戒していると受け取ったのか、レイは自らの目的を明かしてここに来た理由の正当性を主張した。
「――王都の中で魔獣が出たわ。あんたらにとっても、他人事じゃないでしょう」
その並々ならぬ不穏な言葉に、エリスは目を見開いた。