幕間 晩酌
普段の喧騒は既に無く、夜闇は我が謳歌とばかりに世界を包んでいる。灯りが落ち、誰もが夢の中の時頃。山の様に書類が散らかっているその部屋だけは光と酒の匂いに満ちていた。
「で、どうよ? あいつの調子は」
グラスを相手に傾けて男が訊ねる。相手が返答を考えている間に、男は机の端にちょこんと置かれた皿に手を伸ばす。皿には幾つかのつまみが盛られていた。男は少し考えた末に、一口サイズの燻製チーズを口に放り込んだ。
口に入れた途端、チーズの濃厚な味わいが舌に纏わり付く。口一杯にその味わいが広がると、魅入られたようにグラスに注がれた赤い液体への渇望が湧き上がるのは必然だ。衝動のままにグラスをぐいっと仰いで口の中をワインで満たす。チーズのしつこい味が程良く薄れて、解れる――舌の上で賞賛の嵐だ。
「そうね。うん、頑張ってると思う。練武場の整備は細かい所に気配りしてやってくれてるし、食堂の用務員からは下拵えが早いって評判だし、掃除は隈なく綺麗にしてくれるし」
積み重なった書類の山の一つに腰掛けている女が答える。女の手にも男と同様にグラスがあるが、そこに注がれているのはただのジュースだ。女は下戸なのだ。
「そうかい、そりゃ重畳。最近廊下が綺麗なのはエリスの頑張りかね。……今度はここの整理も頼もうかな」
返事もそこそこに男は次なるつまみを食さんとする。しばしの逡巡の後に選んだのは、これまた燻製された肉だった。燻製に燻製、動物性に動物性。ダブりが激しいが、男の今日の気分はこう言った味だったのだ。
少々大振りの燻製肉を適当な所で噛み千切る。硬い肉が唾液に湿り、歯に擦り潰されて柔らかくなっていく。それに伴って広がるのは刺激的な肉の味だ。がつんと来る味は期待通り。香辛料が脂のしつこさを抑え、肉本来の旨みを引き出す。これはこれで良いのだが、やはり濃い味、それも香辛料ありきだと喉が渇く。男はたまらずグラスに口を付けた。赤い肉、紅い葡萄酒。二つが合わさって昇り詰めていく。頬が緩んで、思わず次の一口が欲しくなった。
「――って訳」
「ん、ああ。なるほどなぁ。まさか婆さんが拳法の使い手だったとはな」
「そんな話してない」
適当に生返事をして会話をおざなりにしていたからか。女は頬をぷくぅと膨らまして不服そうな表情だ。男は女を放って置き過ぎたと自省し、つまみから意識を外した。
「すまん。ちゃんと聞いて無かった。で、どういう話なんだ?」
「どうせちゃんと聞かない癖に」
思いの外怒っていたのか、女はぷいっと視線を横に向けてグラスを呷った。それが酒ならさぞ絵になっただろうが、中身は如何せんジュースである。女が既に少女とは呼べない年齢にある事もあって、その姿は一層幼稚に映る。
「今度はちゃんと聞くって」
宥める姿はこの部屋の幼稚さを加速する一方だ。男は道化じみた、おままごとみたいな空気を感じつつも、少なくとも今だけは真剣に女に謝る。自分で呼びつけておいてずいぶんだったと、本当に反省しているのだ。
「はぁ……」
女は溜息を吐いて、それから男の方へと身体の向きを戻した。どうやらお許しを得られたらしい。男は小さく安堵の息を吐いた。
「いや、さっき話していたのはあの子の話。随分と頑張ってくれてるのは確かだけど、その分疲れも溜まってるみたい。二足の草鞋みたいなもんだから」
「そう、だな。それは俺も考えてた。とは言え、まだ書類が揃って無かったからな。あいつの扱いがどっちつかずの宙ぶらりんだったのは事実だろう」
男はそう言いながら机の引き出しを開けた。中から取り出したのは一枚の紙だ。
「『揃って無かった』。つまり、今はもうある訳?」
「明日にでも届くさ。差し当たって、お前達にはちょっとした遠足に行って来て貰おうと思う」
女に取り出した紙を渡す。女はしばし紙に記された内容に目を通すと、眉間を押さえて首を振った。
「遠足ってより出張じゃない?」
「引率は頼む」
男の言葉に女は何か言い返そうとして、寸での所で口を噤んだ。代わりとばかりにグラスの中身を一気に飲み干す。
「おかわり」
「はいはい」
空になったグラスを男の方に突き出す。下戸じゃ無かったらご所望は俺の飲んでるやつと同じだっただろうな――そんな益体も無い事を考えながら、男は女の「焼けジュース」に付き合う事にしたのだった。