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エリスが居る場所  作者: 改革開花
4章 学会
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5 それでも前へ

 深夜。王都防衛騎士団の宿舎のとある一室に、少年の苦悶の声が満ちていた。部屋の主はエリス。彼は日中の働きを終え、束の間の休息となる筈の夢の中で日中以上の苦しみに晒されていた。毎夜見る「英雄の夢」。人の身を超え、偉業を成し遂げた彼らの生涯を、エリスは眠りにつく度に見ている。常人には毒とすらなる彼らの軌跡。しかし、今日の夢は何時にも増して酷かった。

 苦悶の声は、朝日が昇るまで途絶えない。




 骨が、内臓が、脳漿が、眼球が、歯が、肉が、肉が、肉が。

 血が、目の前にあった。黒と赤のコントラスト。じっとりと纏わりつく脂と血の感触と、鼻腔を侵す死の臭い。両手に残る消えない不快感に耐えられず、地面を乱暴に殴った。それでも、人の血肉の感触は消えやしない。汚れた両の拳に、幾ら拭っても消えないシミが見えた。


「ぐぅ、うぅ、っぁああああああああああああああ!」


 男は吠える。

 何の為に戦ってきたのか。何の為に生きてきたのか。今ここに居る理由、目の前に転がる死体、両手に残る罪過。それら全てが男には分からない。胸に溜まる泥の様な憤りを天に向けて吐き出す。返って来る声は無い。当たり前だ、ここには男以外、死体しかないのだから。


「ぐぁああああ、ああぁあああああ、ぐあぁあああああ!」


 何に憤っているのか。何が許せないのか。それすら、男は分からなくなっていく。それでも、この憤激は消えず更に募るばかり。憤怒のままに、男は拳を振り下ろす。何度も、何度も、何度も。

 幾度、幾星霜大地を殴ろうとも、男の拳は砕けなかった。




 夢から覚めたエリスは、喉を競り上がる吐き気を堪えて厠に飛び込んだ。不浄を垂れ流す穴を前に、エリスは口を開いて不快感を追い出した。胃液がエリスの口から吐き出される。寝起き直後という事もあり、出て来るのは胃液ばかり。それでも吐かずにはいられないと、エリスは胃液の限りを全て吐き尽くす。


「ぐ、うぉぇ」


 胸が焼ける。胃液の通った口腔がヒリヒリと痛むのを感じた。胃液を全て出し終えたエリスは、荒く乱れた呼吸を整えてから、処理をして厠を後にする。今日の自己鍛錬はとても出来そうになかった。悪夢によって削られた精神、先日の無茶(・・)によって痛んでいる肉体。そのどちらもが、僅かでも休息を得たいと叫んでいる。素直にその声に従おうと決めたエリスは、ふと今の時刻を思い出す。警邏の担当時間まではまだ余裕がある。ならばと、エリスは彼女の下へ向かった。




「ん? おはようぉ、エリス」


 そこに居た彼女を表現するなら、「老婆の気配を纏った少女」とでも言うべきだろうか。ボサボサの金髪、濁っている翠眼。覇気を感じない声に、緩慢とした動き。相手から声を掛けなければ、部屋を間違えたかと入室をやり直しそうになった程に見違えている。


「セ、セシリア? 大丈夫?」


 大丈夫では無い事位百も承知だが、それ以外に掛ける言葉をエリスは知らなかった。「休んだら?」とはセシリアと同等の働きを出来ないエリスが無責任に言う訳にもいかず、彼が掛けられる言葉と言えば無力に等しい気遣いの一言程度である。そして、そんな言葉を掛けられたなら、セシリアが応える言葉も決まっている。


「うん、大丈夫だよ。それで、エリスは何の用なの?」


 気丈に振る舞うセシリアを前に、エリスはしばしの逡巡の末に自らの用件を伝える。自分が力になれない以上、早々に立ち去るのが最大の助力であると判断したが故である。


「いや、ちょっと昨日ので疲れたのかしんどくてさ。疲労回復の薬と、胃薬が欲しいかなって」

「うーん……」


 エリスの注文に、セシリアの目に光が戻った。翠の丸い瞳の中に、鋭い光と熱意が宿るのが見える。セシリアはしばし腕を組んで考え込むと、彼女はベッドをぽんぽんと片手で叩き、空いた手でエリスを手招きして誘った。


「エリス、ちょっと診るからこっちに来て」

「え?」


 薬だけ貰って早々に帰るつもりであったエリスは、間抜けな声で動揺を示す。淫らな妄想に耽っていた訳では無い。彼女の想像外の要求が、今のエリスには少々不都合だったからだ。その態度にセシリアは目を細め、確信を深くする。


「エリス。何か無茶をしてるのはもう分かってるの。お願いだから、こっちに来て」

「……分かったよ」


 不承不承、エリスはセシリアの下へ歩く。エリスがベッドに横たわると、セシリアが両手を翳した。青い光が彼女の両手に灯る。光は緩やかに渦巻き、ゆっくりとエリスの身体へと染み渡っていく。身体中に清涼な水が流れるような涼やかな感触と、奥の底の熱が僅かに強くなる不思議な高揚感が沸き上がる。セシリアは青い光をそのままに、エリスへと鋭い視線を向ける。明らかに、怒りを孕んでいる目だった。


「エリス、何をしたの」


 問い質す様な、責め立てる様な声。エリスは視線を逸らし、沈黙を選択する。


「エリス、何をしたの」


 繰り返される。先程よりも更に語気の強い、怒りの声。エリスは視線を戻し、答えを返した。


「何も。昨日ちょっと警邏に張り切り過ぎただけで――」

「嘘。エリス。何を、したの」


 セシリアの目に宿る気迫が、一層強まる。遂にエリスは観念し、本当の事を語る事にした。


「自動反応ってあったでしょ? ブレポスでセシリアに言ってたやつ」

「うん。身体が勝手に動く……あの性質でしょ?」

「そう。それがある程度制御……まぁ、制御出来るようになったから、それを使ってただけ」


 沈黙の帳が落ちる。息苦しい静けさが破られたのは、青い光が収束し、セシリアによる処置が全て終わった時だった。


「私、今凄い怒ってる。もんの凄い怒ってる。でも先に、言わなきゃいけない事を言うね。――エリス、その自動反応の制御。今すぐ止めなさい」

「出来ない」


 考えるより先に、脳がセシリアの言葉を認識するより先に。エリスの口は拒否の言葉を紡いでいた。無意識の内に出て来たその言葉は、それだけに少年の本心である事を如実に語っていた。エリスの拒否には取り合わず、セシリアは診断の結果だけを淡々と告げる。


「まず、全体的に肉体がボロボロになってる。筋肉、神経、骨に靭帯、内臓も。全部が許容範囲を大幅に超えてた。このまま行けば、最終的には歩けなくなる可能性すら有り得る」

「……」

「次に、エリスの生命力が減少してる。多分だけど、その自動反応の制御って魔力じゃなくて生命力を消費してるんじゃないかな。生命力はつまり、命そのもの。生命力が減ってるっていうのは、死にそうになってるって事と同じ。それをちゃんと、分かってる? 気付いてた?」

「……」

「もう一回、言うね。エリス、自動反応の制御を――無茶をするのをもうやめて」

「出来ない」


 セシリアの切実な訴えに、それでもエリスの答えは変わらない。

 正確に自身の状態を認識していなくとも、自らを蝕む毒であるとは理解していた。それも、自らを確実に死に近付ける猛毒の類であると。だが、エリスは選んだのだ。この力があれば「騎士」に近付けると奥底で叫ぶ意志に突き動かされ、少年は猛毒を飲み干す覚悟を決めたのだ。今更、分かり切った忠告に臆して揺らぐエリスでは無い。

 対して、セシリアには悲痛な訴えを投げ掛ける事しか出来ない。仲間とは言え、秘密の共有者とは言え、「記憶喪失」という貴重な経験を互いに持つ理解者とは言え、それでも彼女は他人である。エリスにとって彼女も窮地にあれば守るべき者であり、セシリアは少年の滲み出る悲痛な覚悟に胸を痛めるばかりである。


「セシリア。君がヴァレニウス邸であの外道魔術師を捕まえる為に無茶をしたように。僕も、どこかに居る誰かを助ける為に自分の出来る事を『全て』しているだけだ。もしその代償として死んだとしても、誰かを助けられるならそれで良い」

  

 どうしてそこまで自分を追い詰めるのか。何故、自分を大事にしないのか。セシリアの叫びはエリスに届かない。セシリアは違う(・・)。彼女の場合、過去の罪過と自己愛を上回る他者愛の為に「奉仕」に傾いているだけであり、エリスの自己愛を持たないままでの「自己犠牲・滅私奉公」とは大いに異なる。だから、客観視すれば非常に近しく、事実在り方としては似通っている二人と言えど、互いの価値観を理解するには至らない。セシリアは人として正常なままに狂っているのであり、エリスは人として欠落した故に狂っているのだから。

 互いは交わらず、最も近しいが故に最も理解から遠のいていく。



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