4 警邏開始
ある晴れた日。自然の中にある動きではなく魚が天に昇るかのような動きで赤色の煙が、遅れて青色に黄色、緑や紫の煙が青空の中を駆け上っていく。そして日輪に迫った煙達は耳に残留する爆発音と共に、遠くまで見える大きな花を咲かせて空へと薄れ消えた。魔術協会謹製の新型連絡弾「花火」。日中では勿論、夜間でも目視が可能な特殊な煙材を用いており、従来の水準を遥かに超えた到達高度と遅延爆発による爆発音、そして爆発によって放射状に煙が広がるこの三点により、従来品よりも遥かに連絡の伝達精度及び伝達距離は向上した。従来品と使い分ければ、大いに活用出来そうな発明品である。
「しかも、あれに忌避剤を入れたのを使えば獣除けにもなるんだってさ」
「民間への流用を最初から既に考えてる、と。用意周到と言うべきですかね」
空を二人揃って見上げていたエリスとフレドリックは、魔術協会の発明品に純粋な驚きを、その展望に些かの呆れを交えつつ呟いた。ともあれ、魔術協会の用意していた一番手は何事もなく終わった。
魔術学協同推進研究会――魔術学会、開催である。
魔術学協同推進研究会――通称「魔術学会」は、全三日、各日二部構成の全六部に分けれられての催しとなっている。初日が論文等の学術的分野が色濃く、二日目が軍事や特殊な業種に関わる研究発表、最終日の三日目が民間利用を想定した物や汎用性の高い研究の発表である。そこから、初日は魔術に携わっている者が、二日目は騎士や技術者や特殊な商人、三日目が領地を治める貴族や平民ながらに経済力や影響力を持つ者が多いだろうという推測が成り立つ。現実には魔術協会を支援している貴族は初日から来る事が多いし、三日目の発表だけを見に来る技術者も存在する。それでも、この魔術学会は初日より二日目、二日目より三日目と、魔術学会にやって来る人数は増える傾向にある――つまり、初日は一番「マシ」という事なのだが、
「これは、中々にキツイ……」
思わずそう漏らしてしまう程度には、エリスは全身に疲労を感じていた。魔術学会が始まってまだ四時間。それだけの間に迷子の捜索、商店での客との揉め事、文化や立場の相違による衝突、魔術協会を熱烈に批判する古典伝統派の暴動の制圧――他にも大小合わせて五十に迫る事件数をこの短時間で発生し、その解決に奔走していた。しかも、これが王都全体の数ではなく、飽くまでエリスとフレドリックが担当している区画だけでの数というのだから驚きを通り越して絶望を感じる。最も、絶望を感じても手足を止めはしない。騎士としてこの場にいる以上、この程度の物量如きで屈するエリスでは無い――独り言が漏れてしまう未熟さこそ残っているが、それでも彼は今出来る「全て」を用いてこの修羅場を乗り越えんとしていた。
そんな気炎立ち上る後輩に待ったを掛けたのは、今日のエリスの相棒、二人一組の片割れであり先輩騎士のフレドリックだった。今しがた古典伝統派の暴動を制圧し、それを警察隊に引き渡したばかりだというのに、息を一度吐くだけで心身を切り替え、目も眩む雑踏に潜って警邏へと戻ろうとする後輩の肩に手を乗せる。否、渾身の力で掴み、押し留めたという方が正しいか。やる気溢れる後輩の気概を挫くのは心苦しいが、フレドリックとしても引けないものがある。――魔術学会が始まる前日、ラルフに言われた言葉を彼は思い出していた。
『気を付けろ。今のエリスはエリスじゃない。エリスなんだが、何かが違う。そう、なんつーか人として大事なもんが無くなってやがる。何かは分からんが……とにかく、今のエリスはまともじゃない』
確かにと、彼は昨日のラルフの言葉に頷く。これは――今のエリスは普通では無い。本人は自覚している様に見えないが、これはやる気などと生易しい言葉では説明出来ない程の働きであり、変化だ。昨年も、その前も魔術学会の警邏を経験し、それ故に覚悟と立ち回り方を事前に準備出来ていたフレドリックとは異なり、エリスの覚悟は想像の範疇であり、立ち回り方も何も、今回が初体験のエリスは不慣れも良い所の筈である。
にも関わらず、この熟練を匂わせる警戒の仕方は何か。今自らの肩に置かれた手に反応し、フレドリックの方へと振り返っているこの瞬間も彼の視線は抜け目なく雑踏を観察している。その精度の高さは、これまでの四時間で既に実証済みだ。今日、エリスとフレドリックの二人が解決した揉め事や事件の過半数はエリスが発見した所から始まっている。この手の分野に精通しているフレドリックだからこそ、エリスの手腕に戸惑いを隠せない。一朝一夕に身に付く技術ではないと分かっている。それこそ幾年と掛け、生き方の根っこへと染み付かせる様な訓練が必要となる領域だ。こんな少年に、ましてやこれまでフレドリックが見て来たエリスという少年には不可能な筈である。
フレドリックは戸惑いを被り慣れた仮面で覆い、周囲の警戒とフレドリックへの疑問の目を向けるエリスへと話しかける。
「エリス、休憩だよ。かれこれ四時間は休憩無しで動いているからね。学会は長丁場なんだから、適度に休憩を挟まないと」
「……? 自分なら大丈夫ですよ?」
フレドリックの言葉に、エリスは首を傾げる。出て来た言葉は、フレドリックが自分を気遣ってのものだろうという的外れな答えだった。だが敢えて、フレドリックはエリスの言葉を否定しない。今の少年には、気遣いという答えを否定したとしても真意が伝わる気がしなかったからだ。
「効率の問題だよ。疲れた体で動いても効率が悪い。それに、今日みたいな日は疲れを自覚し辛いからね。早め早めの休息は鉄則であり、定石だからさ」
情や抽象的な文句ではなく、理の側面から少年を鎮める。エリスはしばし悩んだ後、静かに頷いてフレドリックに従った。その表情から察するに、全面同意でこそ無いが納得までは出来ている様子である。エリスが周囲への警戒を幾らか緩めたのをフレドリックは感じ取った――次の瞬間。エリスが雑踏へと駆け出した。遅れて、遠くに爆炎が上がるのを見る。
「――っ、エリス!」
咄嗟に呼び止めるも、エリスの背中は既に人々の影へと消えている。更に、爆炎による恐怖が人々へと浸透してしまい、道行く人々が逃げ場を求めて恐慌状態に陥っている。
刹那の逡巡。エリスを追うか、爆炎に混乱している目の前の人々に対応するか。数秒という日常であれば取るに足らず、非常時の今には値千金の時間を消費して、フレドリックは群衆の誘導を選択した。
――遠くでまた、爆炎が上がる。
現場は小さな地獄と化していた。
燃え盛る炎、断続的に聞こえる爆発音。壁が消し跳び、天井に大穴の空いた家屋。怪我に呻く声、燃え盛る炎へと手を伸ばし泣き叫ぶ女。気休め程度の桶一杯の水を死に物狂いで火に掛け続ける青年。それでも消えず、更に勢いを増す火の手。
地獄を目の当たりにして、エリスが目の前の光景に絶望する事は一瞬すら無かった。毎夜見続けている英雄の夢が、非日常や地獄に対面した際の戸惑いや恐怖を麻痺させていた。代わりとばかりに思い浮かぶのは、夢の中に住まう先達が遺してきた経験の数々だ。
エリスはまず、情報を手に入れる事にした。勇み足に飛び込むのは良いが、それだけでは何を助けるべきかも分からずになってしまう。――何を助けるのかを定める。その為に、エリスは己の耳に自己強化を施した。
眼前の業火を無視して、エリスは自分の内面へと没入する。内面で自分の姿を創る必要はない。それは既に用意されている。行うべきは魔力の路の形成と魔力の伝達、その工程のみ。路を創り、魔力を送り、世界の音が格段に増えたのを実感する。すかさず、エリスは周囲の音に耳を傾けた。
「ああ、駄目だ消えねえ。消えねえ!」バチバチと、木が燃える音がする。「痛え、痛ぇえええよぉおお!」壁が崩れた音と、その穴から入り込んで来た空気に喝采を上げる業火。「ああ、あの子が、あの子がまだ中に!」「駄目です、奥さん。もう手遅れです!」石畳に爪を立てる音が聞こえる。炎の音、絶望の声、痛苦の呻きに――炎の中で微かに聞こえた、小さな泣き声。
瞬間、エリスは大地を蹴った。手を背中に回し自己満足を抜く。後ろから静止の声が聞こえるが無視する。そこに消えゆく命があるのだ。不条理に飲み込まれそうな者が居るのだ。ならば、エリスは行かなくてはならない。それが義務であり、使命であり、何より自身の存在理由であるが為に。――騎士として、その一念を胸に燃やす。目の前の火を超える大火が、エリスの手足に力を与える。
「はぁああああっ!」
一閃。若き騎士が、絶望を斬り裂いた。
通行人の誘導と鎮静を終えたフレドリックが現場に着くと、そこには信じられない光景があった。灰と炭になった家屋、火傷の上に包帯を巻く怪我人。道に人垣を作る野次馬。一見すると当たり前に見える光景だが、そこにあったのはフレドリックの予想を遥かに下回る被害の小ささであった。燃えた家屋は一件のみ。死者は零。怪我人こそいるものの、命に別状は無い。一個人として、この絶望の中の救いに安堵を漏らすと共に、都合の良過ぎる現実を前にフレドリックの内面に巣食う厳しい現実感が警戒を露わにする。
駆け付けつつある警察隊に自らの身分を説明し、遠巻きに火災現場の様子を観察する。灰と炭の山。数十分前まではあった筈の当たり前は火の中で消え失せ、残っているのは凄惨たる絶望の跡のみ。その中に、フレドリックは違和感のある痕跡を発見した。倒壊した柱。黒く焼け焦げ所々白くなっているそれは、中程から綺麗に折れており、家の内側へとその身体を横たえていた。見渡すと他の全ての柱も同様に折れ、内へと倒れている。そして奇妙な事に、そのどれもが共通して不思議な断面をしているのだ。家の外から内に向けて三分の二程が鋭利な断面となっており、残りは力ずくでへし折ったようなささくれた荒々しい断面となっている。これらからフレドリックが想起したのは、樹木を切り倒す時の手法の一つ――倒したい方向の逆側から斧を振り始め、あと少しという所で斧を止める。そして、残りは蹴り倒すなり、紐を掛けて引くなりをして木の重みを利用して折ってしまうというやり方だ。この手法を取れば、確かに一律に柱を内向きに倒す事も可能だ。そして、この手法を取った者の狙いは現状の被害の小ささを見れば理解出来る。
「内側に柱を倒し、周囲へ倒れるのを防いだのか」
火災において恐ろしく、そして手に負えないのは、隣接する建築物への延焼である。燃えた建築物は更に隣へ、そこから更に――となってしまえば、もはや被害は広がる一方である。故に、重要なのは延焼の防止だ。火を消せるならそれが最善だが、延焼を防ぐのは次善手となり得る。それを踏まえてから改めて火災現場を見れば、随所に延焼を防ぐ対策が打たれているのに気付く。とても、若輩の少年が成したとは思えない。
この奇跡的な被害の立役者の手腕に賞賛と驚愕を覚えながら、フレドリックは火災現場を出る。そして辺りを見渡して、立役者もとい蛮勇の少年を探そうとして――すいっと、死角からエリスが現れた。心臓に悪い登場の仕方に僅かに肩を跳ねさせながら、フレドリックは先輩の威厳として平静と義憤を纏う。
「エリス、まずはご苦労様。それで、何か言うことはないかい?」
「……? フレドリックさんもご苦労様でした?」
てんで理解していない後輩に、先輩は青筋を浮かべる事で応える。普段は温厚で寛容なフレドリックとは言え、この後輩の奔放と自己犠牲を足し合わせた様な態度には怒りを覚えた。
エリスの変化に対する困惑、恐怖、警戒は勿論ある。だがそれ以上に、自らを軽視して、自らを切り詰めて動き続ける少年の姿に、フレドリックは胸を痛めていた。それは第三班のみならず、彼を知る全員に共通する感情で、彼だけが理解出来ていない他者への思いやり――愛情である。
「良い? 君は僕の後輩で、今の君と僕は二人一組だ。役割分担をするにしても、行動を共にするとしても。まずは自分が何をするのかを告げる。状況や行動を相互に共有する。誰かと一緒に動く時の基本だよ?」
「はい。申し訳ございませんでした。次からは、予め何をするのかを告げてから行動に移ります」
エリスの返答に、フレドリックは一抹の不安を覚える。何となくだが、齟齬が発生している様に思えたのだ。このかつてより更に頑なになった少年と自分の間に、小さな所で理解がずれている気がしてならない。
「あのね、エリス。宣言するだけじゃなくて、ちゃんと指示を――」
しかし、またしてもフレドリックの言葉は遅かった。遠く、雑踏の向こうで悲鳴が上がる。それを聞いたエリスは、教えられた通りの行動を取る。
「行ってきます」
それだけだった。たった六文字の言葉を置いて、エリスは雑踏に飛び込んで行く。
「いやいや、お出かけの挨拶じゃないんだから」
追い掛ける事すら忘れて、フレドリックは思わずツッコんだ。
――斯くして、魔術学会初日。彼らが担当していた十二時間の警邏は、紆余曲折の末に休憩無しで終わりを迎えた。