3 重責と興奮
明くる日の朝。英雄の夢にうなされ、早起きのセシリアと朝の挨拶を交わし、自主鍛錬を熟し、朝食の準備を手伝い、他の騎士達から少しばかり遅れて自らの朝食を摂る。
いつも通りの朝の風景。しかし、エリスにはいつもと違う予定がこの後に控えていた。朝食を食べ終え、皿洗いもそこそこにエリスは食堂を後にする。向かう先は第一会議室と呼ばれる部屋だ――ちなみに、この王都防衛騎士団の拠点に会議室は一つしか存在しない。後から追加するつもりで第一とこそ名付けたが、ラルフが各班に連絡を行い、各班でそれぞれ任務にあたる形になったが故に多人数で集う会議室は無用の長物となってしまったという経緯が存在する。今日、不遇の会議室が使われるのは、本来の使用用途に則ってである。つまり、王都防衛騎士団の大半の人間を召集する必要があったからだ。
一度も使ったことが無いとは言え、エリスは騎士団に入った当初は掃除を始めとした雑用が担当だった。その頃に会議室の清掃や備品の点検を行った事もある。会議室とは名ばかりの、集会場の様な部屋だったと記憶している。手前に広い板間、奥に板間から少し高くなっている舞台がある造りの一室。拭き掃除が辛かったのは、未だにエリスの記憶に深く根付いている。
苦い記憶を思い出しつつ、エリスは会議室に辿り着いた。そっと扉に手を掛け、静かに開ける。
そこに居たのは人、人、人。食堂の光景から騎士の人数の概数を分かっていたつもりだったが、少々数が足りなかったと言えよう。一つの部屋に、人間がわらわらと詰まっている。身動き出来ない程ではないものの、息苦しさは感じる程度の密集度だ。遠くの壇上でも、人が行き交っているのが見える。エリスは人の波に押されつつ、自分の所属する第三班が集まっている場所を探し始めた。
「エリスー、こっちこっち」
ふと、背後から聞き慣れた少女の声を聞いた。声を頼りに方向転換し、そちらを目指す。程なくして、エリスは声の下に辿り着いた。そこには既に声を掛けてくれたセシリア、エディ、フレドリック、イライアスが集まっていた。第三班でここに居ないのは班長であるミーナだけである。
「ミーナさんは?」
「私達の分の資料を貰いに行ってくれてるよ……って、ほら。丁度帰って来た」
セシリアが指差す方を見ると、紙の束を抱えたミーナがこちらに歩いて来ている。人の波に囚われずにすいすいと移動する姿は――こんな些事で褒めるのもどうかとエリス自身思うが――流石と言えよう。
「はい、エリスの分」
ミーナから資料を受け取り、エリスは手元の紙に視線を落とす。四枚を一綴りとした資料。一枚目には、でかでかと「魔術学協同推進研究会の警備について」の題字がある。その下には目次が続いており、本文は一枚目の裏からの様である。先に内容に目を通しておこうとエリスは紙を捲り――本文に目を通すより先に壇上のラルフが声を上げた。
「えー、クソ忙しい中集まってくれてありがとう。ラルフだ。堅っ苦しい挨拶も、長々と話すのも面倒臭いからな。必要な事だけサラサラって話す。聞きたい事がある奴は後で自分の班長に聞くよーに」
雑な口調に相反する、刺す様な鋭い覇気の声と共に、ここに「魔術学会警邏会議」は開幕した。空間に満ちていた騒めきが収まる。如何に砕けた態度で振舞っていようと、普段の彼が頼り無さ気に見えようと、彼は「団長」だ。その地位に相応しいだけの「迫力」を備えている。そんな彼が純粋な緊張感を声に乗せれば、彼の意思は瞬く間に伝染し、この場の全員に彼と同じだけの緊張感を抱かせるに至る。エリスもまた例に漏れず、手元の資料から視線を上げて背を真っ直ぐに伸ばした。
「はい、ありがとう。凄く静かで喋りやすいぜ」
感謝を一言。張り詰めた空気を適度に緩めた上で、ラルフは纏う覇気を更に濃くする。
「さて。今年も一年に一度の魔術学会の時期がやって来た。学会の詳細は資料に乗せてるから後で見て貰うとして、重要なのは学会の開催に合わせて王国周辺の国々からの来賓や王国内の貴族、有識者の方々が集まるっつう点だ。今年で五度目の学会だが、毎年毎年、昨年度以上の数の貴賓が来てる。それに伴い、俺達も例年通り学会開催中、王都全域の警邏を執り行う。警戒に当たるのは俺達だけじゃあない。俺達以外の『全』騎士団、警察隊、魔術協会の連中も警戒活動には参加する」
「全」騎士団。つまりはエリスの所属する「王都防衛騎士団」。ミカエラ・ヴァレニウスを長とした「王国東部防衛騎士団」。そしてそれに対となる「王国西部防衛騎士団」に、王城の守護を担う「王城防衛騎士団」と王族の守護を任された「近衛騎士団」の主要五騎士団がこの催しの警戒に当たるという事である。常日頃の彼らの態度こそ癪に障るが、その実力はエリスとて知っているつもりである。更にはそこに警察隊、魔術協会を加えた厚すぎる布陣。慢心とは言わずとも、心の隅にゆとりが生まれる――それを見抜いたかのか、ラルフは強く戒める。
「――安心なんてするな。彼らに何か危機が及べば、それだけで王国が揺らぐ重大問題だと心得ろ。外交、研究、流通、支援――どこの誰が怪我をしても論外だと考えろ。全騎士団が警戒に参加するとは言え、東部と西部は貴賓の護衛が主だ。王城の連中は晩餐会の警備が担当で、近衛は……言うまでもないだろ。魔術協会は自分達の開く学会に掛かりっきりで、精々が自分達の会場を警備する程度だ。警察隊は……本来ならあいつらも王都の警邏を行う所だが、俺達騎士団側を魔術協会が自分達の領域に入れたがらない以上、消去法で会場とその周辺区画の警戒は警察隊の領分になる。つまり、今言った他の場所、王都の大半を俺達で、俺達だけで警戒する必要がある」
ラルフの言葉に、今年が魔術学会の開催に合わせた警邏に初参加のエリスは青褪めた。ラルフの言う他の場所とは、言うなれば殆ど王都全域に等しい。今まで任務で赴いたブレポスやセルディール、エトッフなど比べ物にもならない。それらを比較基準とするなら、広さは優に十倍以上、労力はそれの更に倍を超えるだろう。道の複雑さ、建築物の密集度、人の数に、交通量――どれを取っても、桁違いだ。王都を歩いた経験なら、エリスにも多々ある。任務の経験だって、昨日の少年泥棒の件を含めた十数件を熟して来た。だが、今回は今までのどの経験とも違う。何せ、目的が定まっていない。犯人が居ない。場所が分からない。後手にならざるを得ない状況で、被害が発生する前に解決する。しかも、広大な王都で。無理難題――この人数を踏まえた上で、エリスには不可能な話に思えた。
だが同時に、胸の内から抉る様な訴えが競り上がる。無理難題――それがどうした、と。守るべき者がいる。守るべき国がある。ならば、それら全てを成し遂げるのは当然だろう。道理を乗り越え、不可能の壁を打破しなくては誰も守れぬなら――乗り越えるだけだ、打ち破るのみだ。それら叶わずして、何が「騎士」なものか。今この手の中には「力」がある。かつての先達の背を見ているだけの自分とは違う。今は戦える、敵を倒せる、誰かを守れる。守られる側では無い。守る側なのだ。それを証明する舞台だと、エリスの内で声無き声が訴えている。知らず知らずの内に、エリスの両手は固く握られていた。
「良いか、俺達がこの国を守る。怯えるな。俺達が怯えて誰が守る? 安心するな。安心は即ち慢心だ。俺達の安心なんて、全てが終わるまで取っておけ。代わりに、俺達の背中に居る全員に安心を配ってやれ。――各人、己が責務を果たそうぜ!」
「「「「「「応!!!」」」」」
会議室に響いた熱の籠った声。気が付けば、そこにエリスの声も混じっていた。