1 夢現の日常
遠い誰かが剣を振る。
風を超え、音すら切り裂く神速の剣。片腕がないという戦士としては致命的な短所は、今この瞬間に短所ではなくなった。十三の時にして切り飛ばされた片腕。それを補い、取り戻し、超える為の半生だった。死の間際になってやっと、彼は渇望していた境地へと至ったのだ。
敵が――数え切れないほどの敵が迫る。見渡す限りの軍勢。天地を震わす咆哮。肌は粟立ち、汗が頬を伝う。それでも、彼の胸に逃亡の二文字は無い。この背には愛するものがある。逃亡はあり得ない。敗北は許されない。例え残された片腕すら失おうとも、この胸に宿る鼓動がある限り、必ずや勝利を掴み取る。
「さぁ、来い! 今ここに至った我が神剣、不退転の刃に斬られたくば!」
神速の剣、不退転の英雄――彼の最期はここに彩られる。
――差し込んだ朝日が瞼に差し込み、エリスは夢の世界から帰って来た。頭に纏わりつく眠気と、身体の強張りを背伸び一つで鎮める。ベッドから身を出し、窓の方へ。外は快晴で湿気も少なく、比較的過ごしやすい一日が期待出来そうである。
ふと、窓に映る顔を見る。白い髪、白い肌に大人へなり切れていない顔。見慣れた筈の自分の顔に、エリスは一瞬自分のものではないかの様な不安を抱いた。
エトッフの一件から二月が経過した。
既にエリス達第三班の面々は、王都の騎士団の拠点へと帰って来ている。今のヴァレニウス邸はエトッフの住民達へと一時的な居住地として開放されており、傷も粗方癒えた時点で第三班が何時までもミカエラの厚意に甘え続ける訳にもいかなかったのだ。実の所、一番怪我の深かったミーナはもう少し安静にしておきたかった所だったが、ミーナはその弱音を仮面の奥に押し殺した。
そして凡そ一週間前からミーナを始めとした全班員の傷も癒え、第三班の活動は再開している。人手不足が常とも言える王都防衛騎士団においては、一刻も早い活動再開は急務であり、第三班は早々に多忙な毎日を送っている。
そんな中エリスはというと、ある変化に戸惑っていた。いや、疲弊や困憊と言った方が正しいかもしれない。
――夢を見る。一日も欠かす事無く、エトッフの一件が終結を迎えて今日に至るまで。毎晩毎晩、夢を見ている。
この文面だけで見ると大したことの無い様に見えるが、エリス本人としては切実な悩みである。ただの夢ならば問題無い。見る夢の内容が問題なのだ。
エリスが毎夜見る夢の内容――それは自分ではない誰かの生涯だ。しかも、只人の生涯ではない。人の規格を打ち破り、難行を成し遂げて来た「英雄」。その中でも武に優れ、武によって難関を打ち果して来た者達の軌跡をエリスは追体験している。常人には不可能な奇跡を成し遂げて来た彼らの生涯。無論、そこには得た物と、失った物がある。エリスはそれを毎晩見続けている。彼らの喜びが苦しみが、エリスの中に延々と注ぎ込まれる。拒絶は許されない。エリスに夢の選択権は無く、夢の世界に訪れさえすれば例外なく英雄の軌跡が彼を待っている。飽くまで「人の例外」の領域へと至っていないエリスの精神には、毎夜注ぎ込まれるものは毒でしかない。経験が、自己の定義が、人格が――その全てが希釈されていく。残るのは純粋で強固な想いだけ。エトッフ以降、胸の内から湧き出る「騎士足らん」とする強迫観念にも近しい想念と、未だ何とか保っているエリスとしての残骸が今の少年を構成している全てだ。――その過程で、自分がエトッフで起きた大半の事を忘れている事も、自らの価値観が大きく変質していっている事も気付いていない。どれだけ重要な事でも、彼自身の認識から零れてしまえばそれは無い事と同じになってしまうのだから。
「おはよう、エリス。今日も早いね」
「おはよう。セシリアの方がもっと早いけどね」
毎朝の目覚めの気分が悪いものになってしばらく経って、エリスには起床から朝食までの間に自己鍛錬を行う日課が生まれた。体を動かせば余計な思考は浮かび辛くなるという逃避としての側面と、夢の中の英雄達に触発されて灯った熱を冷ます為という二側面を抱えたこの日課も、ある意味では件の夢によって生じた変化の一つである。この変化を通じて、エリスはセシリアが彼の想像以上に早起きである事を知った。
エリスが起きるのは大体日の出と同じ時間だが、セシリアはそれよりも更に早く、日の出の二時間程前から起きている。何でも、医療及び治療に関連する仕事は全てセシリア一人で担当しているらしく、一日に山ほどやって来る書類の対応や備品の管理・補充を行う為には日の出より先に動き出す必要があるらしいのだ。それに加え、日中は第三班の一員として活動を行い、帰ってきたらその日無くなった分の在庫の補充と発注。更には、遠征任務からの帰りの際は溜まりに溜まった書類との戦いも待っている始末である。睡眠時間は毎日四時間を切り、毎朝の書類作業と在庫管理、日中の肉体労働に毎晩には朝の作業に加えて消費量に合わせた発注作業。代わりはおらず、休みは無く。不在の間ですら業務は溜まり続ける驚異のセシリア依存体制。しかも、それをやっているのが幼気な少女。初めて聞いた時には驚きは勿論、尊敬すら超えて、畏敬すら覚えた程である。間違いなく、エリスには無理である。恐らく、夢の中の英雄達ですら諸手を挙げて降参を訴えるだろう。
――エリスは過去に一度、手伝いを申し出た事がある。その時の彼女の返答は、
「ううん。いいよ、いいよ。皆頑張ってるんだし、私もこれくらいしないと」
なんと手遅れな仕事中毒か。ダメな男に尽くしてしまう系の片鱗も垣間見える。将来が心配な少女である。
とは言え、何も彼女は使命感に燃えてただ一人での重労働に勤しんでいる訳では無い。現実問題として、彼女以外では彼女の担当している作業を行えないというのも事実なのだ。騎士団の大半は応急処置こそ行えても、高度な治療等は行えない。それこそ、医学薬学の知識ともなれば門外漢も良い所である。しかもそこに魔術の分野も加わるのだから、現状の酷過ぎる有様もある意味自然なものなのだろう。――自然だからと言って当然と受け入れなくてはならない訳では無いのだが、セシリアがそれを当然と受け入れている節がある事こそが問題と言えよう。
働き者のセシリアと別れ、エリスは稽古場の一つに辿り着く。壁に掛けられた木剣を一つ取り、人を模して幾つかの腕を生やしている木柱と向かいあう。背はエリスより頭二つ程高い木柱。伸びた無数の腕が、懐を遠いものとしている。木剣を軽く握っては脱力を繰り返す。手の内の感触を数度確かめ、床を軽く弾む様に蹴りながら感覚を合わせていく。想起するのは夢の中の英雄。起きるその寸前まで見ていた、神速の剣を持つあの背中を脳裏に浮かべる。
彼は片腕を失っていた。その腕力は本来あったであろう半分以下となり、攻防の選択肢は健常の者に比べて著しく減じていた。苦悩の末、彼が求めた答えは攻防の両立ではなく、攻撃の最速化だった。体幹の切り返し、手首から腕への操作、足捌きの妙。それらで以って攻撃によって必ず生じる、一瞬の停滞を無へと帰す。つまりは、彼は手を引くという動作を無くした。
「――っ!」
形態としてはミーナの剣技に近い。但しミーナの場合、彼にはない腕がある。ミーナが用いるのは高速での斬撃の往復。初撃を二撃目への溜めとし、同時に本来生じる間隙を零に等しくしている。身体自体を相手を軸に往復させる尋常ならざる切り返し。
だが、彼にはミーナと違い片腕が無い。それはつまり、力の向きの転換を全て、片腕で完結させなくてはならない事を意味する。全身の力を切り返すミーナの動きは彼では出来ない。全身の力を支え向きを変えるには、もう一つの腕が必要となる。故に、彼は方向と距離を限定した。一振りにて二閃。初撃で敵の構えを崩し、敵に当たった反作用と初撃と同時に行われた高速の踏み込みによって生じる幾許かの腰のゆとりを用い、有り得る筈の無い二撃目を成立させる。
剣は戻らず、刃は前に進むのみ。しかして、その威力は渾身の二つ。それが彼の――。
「駄目か……」
だがしかし、ここに居るのは彼の英雄ではなく、飽くまでエリス。彼が生涯を費やして至った神剣はそう易くない。そしてそれを踏まえて、少年の前にある一振りにて生み出された二つの斬撃の跡は如何なる訳か。
もう一度と、エリスは木剣を構え直す。全身の脱力、そして集中。木柱だけを視界に捉え、他を排斥する。木剣を握り直し、足の親指が地面を掴む。
――踏み込もうと思った瞬間、身体の中で何かが切り替わった。自動反応――今まで散々苦しんできた件の現象が、原因も理由も分からないままに何時の間にかエリスの制御下へと収まっていた。
自らの意思に沿って自動反応が働く。肉体の動きを見えざる何かが補助し、その動きは凡人のものから達人の領域へ。一切の無駄なく踏み込むその姿は、まるで一本の矢が如し。――剣を振る。一振りで二閃の神剣。殆ど一つの音が稽古場の空間に響く。即ちそれは、二閃の速度が風を超えて音に迫った証拠、絶技の証明である。それでも、エリスは苦々しく歯噛みする。
違う。あの英雄の剣はこんなものでは無い。自らの肉体が成した絶技が、彼の英雄に数段劣っているとエリスは深く痛感した。足りないのだ。あの英雄にはあって、エリスには無い何かがあるのだ。それが何なのかは分かっていないが、確かに何かが足りていないのだとエリスは確信する。この苦悩も、エリスが夢を見始めてから日々苛まれているものの一つである。――足りない何かさえ見つけられたなら、自分は「騎士」に至れる気がする。根拠の無い想いを原動力に、エリスはもう一度と木剣を構える。懲りずに諦めずに、何かに縋り突き動かされる様に仮想敵へと向かい合う。
見えない壁に爪を突き立てる音が、稽古場に響き渡っていた。