0 報告書
4章開始です。
しばらく鈍亀の更新かと思いますが、気長にお待ち下さい。
「エトッフとその周辺地域で発生した『魔蝿』事件の顛末とその後」
担当者:エドワード・クァンタム
此度の事件は魔術協会によるエトッフの地域閉鎖から全て始まった。
不当にして不適切な地域閉鎖は王国国民に決して少なくない悪影響をもたらし、また、半ば強行する形で申請、そして承認された今回の地域閉鎖は魔術協会、並びに改革派の官僚達による王国の平和を乱しかねない越権行為と紙一重である。我々、伝統派官僚及び王国騎士団の面々には、彼らの強行に対し調査を行い、ついては彼らには荷が重い案件であった場合には即刻、現地での解決を求めるものとした。
しかしながら、王国騎士団の大半の組織は王国の安全と安寧の為に重役を担っており、容易く常の職務を脱する事が出来ない。そこで唯一、その時点で責務に対する騎士に余裕があり、かつ、日常から王国の国土を行き交う遠地派遣に適した騎士団である「王都防衛騎士団」に今回の対応を要請した。王都防衛騎士団の団長であるラルフ・S・クラヴォスはこれを快く受託。彼は王都防衛騎士団の第三班より班員を一名と、王国東部防衛騎士団の騎士団長であるミカエラ・ヴァレニウスの三名で以ってエトッフへ向かった。尚、ミカエラ・ヴァレニウスの同行は彼女の善意であり、騎士団長としての任務及び伝統派官僚からの要請では無い事をここに明記しておく。
エトッフに到着後、調査員である三人の騎士は魔術協会会長、ルーカス・エルドレッドと接触。その後の調査を経て、魔術協会が何らかの重大な事実を隠蔽している事を確信。ラルフ・S・クラヴォスは同行していた第三班の騎士を偵察に用い、現場での証拠を取り押さえた。そして、調査員達は驚愕の事実を知る。
なんと、かのハキーム戦争における負の遺産、「魔蝿」がエトッフにて発見されたと魔術協会は言うのだ。魔蝿は生息個体の全てを大戦時にて根絶されている。これは、当時の魔術協会の調査によって行われ、その報告書には当時王位であられたブルシャ8世陛下の判も押されている。そして現在、魔蝿は卵すら存在していない――否、いなかった筈である。つまり、魔蝿の存在がエトッフにある事が意味するのは、過去の魔術協会の調査の不完全さである。魔術協会の一連の行動は、過去の失態を無かった事にしょうという隠蔽行為に他ならず、王国全土をハキーム戦争以降最大の恐怖に陥れかねない愚行であり悪行であった。
結果として、調査員三人の手によりエトッフの魔蝿の殺滅に成功したが、エトッフは死者百十二名、負傷者五十二名もの甚大な被害を被った。これにより、エトッフの地域形態の維持は困難となった。近日中に、エトッフに住まう国民の周辺地域、もしくは王都への移住計画が必要である。既に移住先の住居の建築について動き始めているものの、エトッフからの移住者は三十人を超え、容易に受け入れられる人数ではない。現状、調査員として同行していたミカエラ・ヴァレニウスがその邸宅を開放しており、移住者の居住問題は一時的には解決している。また、移住者への衣食住の問題に対する協力をミカエラ・ヴァレニウスから申し出ており、彼女との協力体制の構築と作業の早期開始が急務である。
最後に、此度の事件は魔術協会の隠蔽によって引き起こされた大罪である事を再度、ここに記しておきたい。
「ふん、なんとも若いことだ」
報告書を机に投げ捨て、男は天を仰いで顔を覆った。何となく、手を顔を洗う様に動かす。長年の政務によって染みついた巌の凹凸のような顔中の皺が、凝り固まっていた筋肉が、滞っていた血流が、その全てが解れていく様な錯覚を覚える。――錯覚だ。これだけの行為で老化による皺はともかく、眉間の皺と目の下の隈はなくならない。そう易々とは消えてくれない重責が宿っている。
顔を覆っていた手をだらりと下げ、天井を見つめたまま彼は頭を動かし始める。
エトッフでの一連の事件。閲覧権利による情報の格差を抜きにすれば概ね、彼の部下が寄越した報告書通りの顛末である。客観目線を意識しておきながら、所々義憤が滲み出ている点を除けば、合格点ギリギリか少し下程度の出来ではあった。試しにと作らせた男からすれば嬉しい誤算である。――もっとも、情報格差によって生じている内容の齟齬を思えば、彼の表情に喜色が宿る訳もないのだが。
エトッフでの事件による責任を、魔術協会が真面に負う事はまず無い。
第一に、現在の勢力差だ。官僚以下の人間、更には王国騎士団の人間は知らない事だが、現状の勢力比率は伝統派を一とするなら、改革派が十にも及ぶ圧倒的な偏りを見せている。公には拮抗している風を装っているが、人的資源・資金力・外交力、果てには国王との密接度すらその差は明らかだ。国王は明らかに改革派を優遇している。政策や法案に対する認可の割合がそれを示しているだろう。
第二に、市井の感情だ。確かに、「魔蝿」は恐ろしい代物だ。それが無防備な王国に魔の手を伸ばしたなら、対応如何では王国の滅亡も有り得るほどの禁忌である。だがしかし、魔蝿は禁忌であるが故に、大衆には広く知られていない。ハキーム戦争が終了した際、国民による王国への、延いては国王への忠誠度は低下の一途を辿っていた。そこに魔蝿等の負の遺産の話を持ち出してしまえば、戦争によって溜まり続けていた国民の不満や怒りが爆発することも考えられた。戦争によって弱っている王国には、国民の反逆は十二分に致命傷である。故に、ハキーム戦争における負の遺産は例外なく箝口令が敷かれ、政治に関係している者や直接負の遺産と相対した者等、一部の人間のみが知っている脅威となった。報告書を作成した彼の部下にしても、つい先日魔蝿に対する情報閲覧権が下りて来たばかりであった。彼が義憤を覚えたのはそれも原因だろうが、大半の国民はその義憤すら抱けないのである。
そして最後に、王国の魔術――魔術協会に対する依存度の高さである。
魔術協会は画期的な発明で王国の生活、兵器、戦術、医療、鍛冶等々様々な水準を押し上げてきた。もし今ここで、そんな彼らの力が失われたならば――間違いない、王国の成長はここで止まる。そう伝統派の官僚である男をして断言出来てしまう程に、今の王国は魔術協会に支えられているのだ。心臓に病があるからと言って、心臓を取り出してしまえば待つのは死のみである。ならば、病があっても心臓はそのままにしておき、外部から緩やかに改善を求めようとするのは当然の流れだろう。魔術協会にしても同じである。
男は天井に向けていた顔を元に戻し、机に放り投げた報告書をもう一度手に取る。そして最後まで読み終わってから、若い義憤に答えられぬ老骨に少しばかりの怒りを覚えた。