35
―――身体―駆――。
―――傷――――――、痛―――、壊―ゆく――を――酷使――。――――魔蝿、――命―奪――――。――――――――空白――、―殺―――――僅か―――に――。――――一歩、―――割る。――音―、魔蝿―――脅威――――。―――――が少女―ら――――向こ―と―る。―い、遅過ぎ―。―――少年―姿―不気味―複眼―捉――――先―、――は魔蝿の懐―潜り――だ。
虚空――し、――の――ら――言葉が紡が――。
「虚実彩る樹枝」
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―。
エリスは全てを差し出した。
自分を自分足らしめる全てを売り払った。肉体も、精神も、記憶も、感情も――大事だった名前すら何もかも。少年の奥底に埋め込まれた者は質の悪い詐欺師の様に、少年を追い詰めに追い詰めて全てを奪い去った。
だから。
ここに居るのは「エリス」では無い。
「ふぅ……。再現度には難ありだが、案外何とかなるものだ。それに、この身体――この機能の使い勝手も思いの外良い。良い買い物だったかな?」
ぶん、とその影は右手にあった物を振った。付着していた体液が坑道の壁に飛び、点線模様に土の色を汚す。
それは長く、鋭く、無骨であり、質素な造りで――何処までも命を殺す事だけを考えられた、一本の槍だった。穂先には黒い刃。影の様に暗く、闇の様に暗い何物をも呑み込む黒。柄は見るからに木製で、表面には螺旋状の溝がある。刃と柄には一切の継ぎ目が無く、薄くぼやける様に、黒から木の色へと移っていた。柄尻にも金具の類は見つからない。柄よりも少し膨らんだ瘤状になっているだけである――つまり、この槍は穂先から柄尻までに一切の留め具が無い、一繋ぎの造りとなっているのだ。
その槍は今、穂先から柄尻までをどろりとした体液で染めている。そして持ち主である影もまた、頭から体液をどっぷりと被っている。臭いは鼻の曲がる悪臭そのもので、正常な感性の持ち主であれば一刻も早く洗い流したいと考える酷さだ。だが、影は臭いには無頓着に足元へと視線を向けていた。
そこには、爪程の大きさの種が一つ落ちている。その種が体液の源であり、少女を、少年を苦しめた魔蝿だと信じる者は、実際に一部始終を目の当たりにした者以外には居ない――否、目の当たりにして尚難しいだろう。現に、坑道の端で震えながら全てを見ていた少女ですら、あの恐怖の巨体が一粒の種となる光景を受け入れる事が出来なかったのだから。恐怖の根源が消え去って尚、腰が抜け、尻が地面から離れず、全身が震えているのがその証拠だ。信じられず、理解出来ず。故に、真っ当な少女は恐怖の残り香に怯える――違うのだ。そうでは無い。少女が怯え、恐れているのは魔蝿が種となるまでの光景を理解出来ていないから、では無い。少女はただ、眼前に居る影に、魔蝿を倒してくれた恩人とでも呼ぶべき存在に震えているのだ。本当なら、ここは感謝を述べるべきだ。消え去った死の恐怖に安堵を示すべきだ。だが、少女の胸に広がるのは、魔蝿を前にした時以上の更なる死の予感。捕食者を捕食する、食物連鎖において魔蝿の上を行き、少女よりも数段上の位階に居る存在。少女にとって、目の前の影はそうとしか思えなかった。
その影は人の形をしている。人語を話している。暗闇の中とは言え、背丈から推察される年は少女からそう離れてはいないだろう。そして何より、状況的に目の前の存在は少女を魔蝿から助ける為に戦い、勝利した者の筈だ。だから、告げるべきは、抱くべきは感謝だけ――なのに、少女の口は頑なに閉じられている。それは正しく、捕食者の目を逃れる為に気配を殺す被食者の姿。可笑しいと、間違っていると理性は訴えかけているのに、それを本能が塗り潰す。
ふと、影が少女の方を向いた。
「――――ッ!」
悲鳴が出なかったのは奇跡と言って良い。たまたま、少女の肺に余分な空気が少なく、出そうにも大声が出ない状態だった。故に、固く閉じられた口から洩れたのは僅かな息。
「ああ、そう言えば、こんなのもあったんだった。すっかり忘れていた。いやはや、少々浮かれ過ぎだったかな?」
――この影は、この少年の姿をした存在は「エリス」では無い。
今の少年の器に満ちているのは白色の存在。純粋な好奇心。無邪気な悪意、善意の下の嗜虐。そんな元の持ち主からはかけ離れた精神に、この肉体は支配されている。その肉が少年のモノであろうと、その所在は、所有権は少年だった彼には無い。全てが全て、自分勝手な白色によって剥奪されている。
だから、瀕死の状態から駆け出した原動力――助けようとした存在すら、「これ」にとってはどうでも良い物だった。
「どうしようか?」
誰に向けたかも分からない、短い問い掛け。それだけで少女の身体は総毛立ち、視界は涙に歪み、喉は干上がるあまり血の味すら感じた。少女には分かった、分かってしまった。これが発した問い掛け、その真意は、目の前に転がる物を壊すか否かについての、自らに向けた問い掛けだったのだ。少女にではなく、自らに向けた問い。ならば、そこに踏み込んでも意味が無い。仮に踏み込んだとしても、それが引き金となって少女を屠る選択を選ぶかもしれない。だから、少女に出来るのは祈る事だけ。目の前の存在の慈悲を、寛容を只管に願うだけ。敬虔な祈りだけを胸に、少女は双眸を伏せた。
「……証人、証言者としては使い道がある、か。うん、そうしよう」
影は独り結論付けるとしゃがみ込み、少女の顔の高さに自分の顔を持って来る。そして、少女の髪を乱雑に掴むと、無理矢理に少女の目を自らの目と合わせた。――その際に漏れた小さな呻きなど、勿論の事無視される。
「ねぇ」
「は、はい!」
反感を、苛立ちを、不快感を、煩わしさを感じさせてはならないと。少女は短く、影の声に応じた。恐怖は隠せず一音目を言い損ねたが、影は少女の返答の簡潔さに満足した様であり、特に気にした様子は無い。僅かな安堵が少女の胸に広がり、それ以上の緊張が全身を包む。
「君にはこれからこの坑道を出て貰う。出なければ死ぬんだから、死に物狂いで出て貰う。坑道の出口に辿り着いて外に出れたなら、君はまず出せるだけの大声で助けを呼びなさい。大声で、喉を壊す勢いで、だ。そして、駆け付けた人間に今さっき見た全てを、仔細に話しなさい。魔蝿の事も、私の事も、全てだ。……その後は自由にしていい。生きるも死ぬもご自由に」
身勝手な計画を話しながら、影は持っていた槍で地面を叩く。叩く穂先には、魔蝿だった種があった。種は槍に振れると僅かに輝き、見る間に体積を膨張させる。そして、気が付けば魔蝿だった種は、手のひら大の鼠に変貌していた。灰色の体毛に、ひょろりと伸びる尻尾。くるりとした目に、鼻先から伸びる複数のひげ。自らの動きを確認する様に、くるりと円を描いて一周。そして、確認を終えた鼠は、影の方を仰いだ状態でぴたりと動きを止める。
鼠に違いない。違いないのだが、植物――しかも種だったモノが動物に変わる異様な光景に、少女は魔蝿が種に変わった過去すら忘れ、目を見開いて静かに驚愕を示した。
「出口はこれが教える。君はこれの後を追うだけでいい。分かったかい? 分かったね。ならば早く行きなさい」
投げ捨てる様に掴んでいた髪の毛を放し、影は少女を解放する。少女は投げられた際の痛みに一瞬身体を強張らせるも、視界の端で鼠が闇の中に消えていこうとしているのを知るや否や、痛みも恐怖も忘れて一心不乱に鼠を追い掛けて行った。少女にとって鼠は最後の希望だった。暗闇の坑道から、不気味な影の前から逃げられる、唯一にして最後の道標だったのだ。
後に残ったのは、少年の肉体を使う純白だけである。
「さぁ、思ったより進みは良いが――良過ぎる余りに準備が間に合っていないが、計画が破綻してしまう程では無い。……さて、どうするか。こうして『出てきてしまった』のは良いが、このままでは折角の立ち位置を捨てる事になる。捨てるには惜しい……が、ただで戻るのはそれ以上に愚策だな。何せこうして出て来るのも無料じゃない。大枚叩いたからには何かを残すべきだ」
独り言が坑道に響く。
「ふむ、悩ましい。こっちへの楔を打っておくか、それともこの身体を少しでも進めておくか。いや、待て。現在の所有者の確認も必須、か。……やる事が多くて嫌にな――」
びゅうんと、一周回って間の抜けた音を立てて、坑道の闇を何かが貫いた。
二条の輝き。それは輝き落ちる流れ星の様に暗闇を駆ける。その正体は人の爪だ。二つの爪が、音をも置き去りにして大気を駆け抜けているのだ。余りの速さに大気と爪に莫大な摩擦が生じ、熱と輝きを得た流星は、辺りに無作為な衝撃をばら撒きながら影の脳天を目指す。
――そもそも、人の爪が何故に音速をも超えて飛翔しているのかなどのつまらない議論を脇に置いたとして、爪と言えど、これは立派な死の具現である。高が爪、されど爪。摩擦熱で燃え尽きる事無く突き進む二条の流星は、人一人を殺して余りある暴力である。
故に、その影は難なく二つの爪を叩き落した。槍をぶんと振るい、一つの軌跡で同時に二条の流星を壁と地面に弾く。驚く事では無い。この純白の影が、ただの人間である訳が無いのだから。
静寂が満ちる。影は叩き落した爪へ視線を落とした。常人では目の前に居る人間の表情すら分からない暗闇の中、自己強化によって受光量等を引き上げている影の両目は、爪の細部に至るまでの視認を可能にしている。
爪、人の爪。そこには無数の文字と、何らかの紋様が刻まれていた。それを影は無意識の思考で解読しようとして――そこに秘められた罠に気付く。だが、もう遅い。この罠は、術式に目を向けた時点で手遅れだ。
「くっ! これ、は」
ぐらりと影の身体が傾き、自重を両足が支えきれずに崩れる。地面に倒れ、頭部から血を流す影は、しかしその顔に笑みを張り付けていた。
「そうか、そうか! 君か、君だな! 嬉しい様な悲しい様な、何とも言えない感じだ――っ」
人は何かを見た時に、それが明確に形にはなっていなくとも反射的に様々な情報を脳から引き出す。例えば、赤色を見た時。炎、林檎、血液、夕暮れ、羞恥、情熱等々。無意識の内に、様々な情報が連想の形式で浮かび上がる。その中から人は極々一部を掬い取り、それら選ばれた情報が人の思考の中に組み込まれる事になるのだ。これら、言うなれば思考と思考の狭間に居る情報の欠片は、人の選択に無自覚でありながら大きく影響を及ぼす。
この魔術は、この働きに介入する一種の洗脳魔術である。術式全体が無数の精神誘導の魔術で構成されており、それを一瞥でもしてしまえば手遅れだ。無数の精神誘導が被術者の無意識化の情報選択に介入し、術者が設定した特定の流れを作り出す。介入する時間自体は極めて短時間で良い。一度生じた流れは他の流れを呑み込み、放置していても被術者は術者の望んだ方へと意識・思考を誘導されるからだ。そうして、被術者は本来なら選ばない筈の選択を強制される。
良く知っている。何せ、教えたのは他ならぬ影自身なのだから。
影の意識が遠のく。ここでは無い、どこか遠く遠く、別の世界へと引っ張られる。爪に刻まれた魔術によって、この世界にしがみ付いていた力が剥がされる。抗えはしない。影が思い描く相手が術式を組んだのなら、こちらの技量も想定した上での仕業だろう。影だけを狙い澄ました、専用の洗脳魔術。無防備に喰らった不用心も相まり、残された時間は本当に少ない。だから、影は短く告げた。
「また来るよ。ばいばい」
友人との別れの様な気軽さで、影はこの世界から出て行った。