33 魔戦⑤
少女がこの場にやって来たのは、ただの偶然だった。
目が覚めると魔蝿の住処に居た少女は、聡明にも自らの運命を悟り、順当に抗わんとした。岩と岩の隙間に自らの身を隠し、恐怖に震える時間。すぐそばで聞こえる音を無視して、少女は生存本能の訴えるままに生きようとしていた。
ふと、気配が遠のいた。魔蝿が休息に就く事は何度かあったが、完全に気配が遠のいたのは初めてだった。岩の間からゆっくりと出て、そこに恐怖の根源が居ない事を知るや否や、迷路が如き坑道の道へと歩き出した。ただただ、逃げる為に。数歩先すら見えぬ暗闇の恐怖に幼き体は臆し、けれどそれ以上の死の恐怖が背中を押し続ける。
しばらく歩いていると、遠くで何かが起きた。耳が一時的に聞こえなくなる程の爆音、思わず尻もちを搗く程の振動。少女の心が限界を迎えた。狂乱に陥った少女は、ただ我武者羅に走り出した。悪夢から逃げる様に足を動かし、絶望を否定する様に手を振る。転んで、起き上がって、走って、また転んで。全身に擦り傷を作って、口一杯に血の味が広がり、それでも少女は走った。
走って、走って走って。
――絶望の前に戻って来てしまった。
死の微睡みの中で、小さな悲鳴を聞いた。
その声が子供であっても大人であっても老人であっても、男であっても女であってもその一切合切が無関係だ。すぐそばに窮地に陥っている人が居て、そこに助けを求めるか弱い人が居る。それさえ分かれば、後は関係ない。前後関係無く、自分の怪我など思考の外。その声を聞いたからには、エリスは立ち上がらなくてはならない。
何故なら、それが騎士だから。
――「エリス」という名前には、「騎士」という言葉が付き纏う。エリスとは騎士となるべきモノであり、騎士でないエリスはエリスでは無い。エリスでないなら――自分は、ただの無名の少年に戻る。あの暗闇に、あの孤独に戻る。それは、今の自分を殺す事に等しい。言うなれば、迂遠な自殺だ。
故に、エリスと名乗るからには騎士でなくてはならない。今のエリスに騎士の肩書きが相応しくなくとも、見合っただけの力を持っていなくても、それでも騎士でなくてはならない。エリスである為には、誰かを守り続ける存在でなくてはならない。そこに善意や良心などの正義の心は全く無い。あるのは魂の咆哮。死にたくない、消えたくないと叫び散らす、矮小な自らの悲鳴だ。
――人とは何かを愛する者を指す。
善であれ悪であれ、美であれ醜であれ。人は何かを愛さなくては生きていけない。ならば、エリスが愛するものは何か。決まっている。「エリス」である自分自身だ。無名の少年になど執着も無い。無名の少年になど、成りたくも無い。ならばこそ、エリスは「エリス」である事に執着する。自分が自分である為に誰かを守る。自分を愛する為に他人を守る。自分への愛の為に他人を愛する。
醜悪な自己愛。
歪んだ自己定義。
壊れた自意識。
それでも、エリスは今。この世の誰よりも、エリスが掲げる「騎士」となる。
「――ぅ」
小さな呻き。全身から抜け落ちた力を搔き集める。命を燃やし、精神すら薪とくべて、魂すら原動力と為す。生まれたのは、身体の内を満たし尽くす魔力。生命力を変換し、エリスの訴えのままに生じた魔力は具体的な指向性を欠いた、けれど無色からは程遠いそこにあるだけの代物だ。――それを、意を汲み取って受け取るモノがある。
「ぅ、ぅうう、ううぅうう」
身体の中心、奥底から、温かい何かが全身に広がる。それをエリスは知っている。失くしたと思っていた。薄情にも諦めていた。でも、愛し子は違った。親の内で寄り添い、支えてくれていたのだ。身体の隅まで「自己満足」の力が広がる。何故か身体に一体化していた愛剣は、欠損部位の自動修復という性質をエリスの肉体全身へと適用していた。――身体が直っていく。元とは似て非なる何かが傷を埋め、骨の罅を繋ぎ、筋肉と神経に十全な働きを取り戻させる。
「ぅううああああああああ!」
走り出す。
地を蹴り、只管に駆ける。目指すは魔蝿、救うは悲鳴の主――魔蝿の向こう側に、小さな影を見つけた。彼我の距離は遠く、伸ばす腕は届かない。魔蝿は既に少女の目の前まで迫っており、エリスは今し方走り出したばかりだ。間に合わない――そんな現実を認めてなるものか。
少女の死は、「騎士」としての死と同じだ。そして、「騎士」として死ねば、「エリス」もまた死ぬ。だから、全力を尽くせ。死んでも助けろ。限界を超えての駆動を果たせ――。
魂の悲鳴に、彼の宿業が応える。一歩、地面を踏み砕く。前に進む力と共に、足先から付け根までが砕けた音を聞く。二歩、痛みを置き去りにして更に先へ。視界が赤く割れた。三歩、致死量の痛みに、足が地面に縫い付けられた光景を幻視する。幻を振り払って、限界の遥か向こうへ。自動反応――エリスの意志と向かう先を同じくした件の働きが、エリスの肉体を魔蝿の下へ運んだ。精神は身体から離れていない。自らの思うままに動き、その動作の細部に至るまでを見知らぬ何かに補助されている感覚だ。奇妙ではあるが、それらは全て些事。遂に魔蝿の足元に至ったエリスは、今この瞬間に全てを賭けており、疑問も痛みも、後遺症も、死すらも後回しの問題だった。
見上げる。黒光りした体表。坑道の闇に溶け込む外骨格は、見るからに堅牢な硬度を誇っている。対し、エリスの両手には武器も何も無い。あるのはこの身だけである。頭を少女に向け、意識からエリスを外し、背中を晒すその姿は無防備極まりない。それでも――。自動反応を司っているのだろう、未知の何かがこのままでは勝てないぞと警鐘を鳴らす。
卓越した技術の数々、脳が課す枷の向こう側の身体機能。それらを用い、エリスという一個体の可能性を最大まで引き出すのが自動反応の真価である。だが、エリスの肉体は所詮少年程度の成熟度合いであり、仮に成長し切っていたとしても人間である事までは変えられない。大型の獣に叡智と武器を用いる事で相対出来ようとも、純粋な膂力で人が勝る事の無い様に。人にとっての災厄の権化なる魔獣と、高が少年であり人間のエリスでは、彼我の戦力には途轍もない壁が存在する。武器も無く、時間も無く、罠も無く、策も無い。あるのは自身の肉体と、自動反応が齎す出自不明の技術群程度である。
絶望の未来を先延ばしにする事は容易い。
魔蝿の前に飛び込み、挑発でもすれば、倒した筈の怨敵の復活に魔蝿の頭は憤怒の色に染まり直すだろう。標的は少女からエリスに移り、それで少女の差し迫った危機は遠くなる。だが、そこまでだ。エリスに魔蝿を打倒する手段が無い以上、遠からずエリスは先刻をなぞる様に倒れ、少女が再び窮地に立たされるだけである。また、それ以前に魔蝿が挑発に乗らない場合や、戦闘の余波で少女が死ぬ場合も考えられる。
どちらにせよ、魔蝿がエリスを意識していない今以上の好機は二度とやって来ない。倒すなら今だ。倒すのは今だ。この瞬間だけが活路、ならばこの瞬間に全てを費やせ。
何をすれば倒せる。この身、この業以外に何がある。
――今、この場に限り、戦いにおける言い訳の常套句と化している、自らの肉体と精神の乖離の問題は用を為さない。理由は分かっていないが、自動反応がエリスの精神を肉体から追い出していないからだ。選択の決定権はエリスにあり、その決定を補助する形で自動反応は働いているに過ぎない。故に、責任は全てエリスにある。
考えろ、探せ、見つけろ。
自らの意志の下に動くこの異常事態だが、自動反応の見せる技に翳りは無い。選択こそエリスであれど、肉体を極限まで酷使し、器の限界に至らせる自動反応の特色自体はいつも通りだ。そして、限界まで引き出してもまだ勝利が届かぬなら、求めるべきは更なる力――それも既に十全の働きを見せる自動反応にでは無く、それとは異なる新たな枠組みだ。限界を突き破り、極限の技巧を一歩先に進ませる。必要なのは今の自分を超えた自分と、必殺を支える武器だ。
その両方に至る道を、エリスは知っている。
自己強化――自己概念を利用した、自身の強化。ラルフやミカエラの圧倒的な武力の要因が一つに、セシリアはこの初歩的な魔術を挙げていた。もしここに、ラルフやミカエラ程の身体能力を有する肉体を用意出来たならば。
「自己満足」。肉体の内に在るという漠然とした、しかし確固たる理解だけが残っている愛剣。王国の名工が一、シャーロットによって創られたあの剣さえ手中に在れば、自動反応は更なる力を発揮するはずなのに。
その両方に至る道には、当然の如く壁が存在する。
エリスは自己強化を、視覚と聴覚以外で成功出来た試しが無い。もし失敗すれば――浮かぶのはいつかの一幕。魔力の過剰供給による昏倒事件。昏倒自体は恐ろしくも無いが、この場この時に意識を手放せば、起きた時にはすべて手遅れになっている。否、起きる事すら不可能となる。
そして、愛剣にしても障害は存在する。単純に、どうやって取り出せばいいのか分からないのだ。死んで、生き返って、気付けば自分の内側にあった「自己満足」。そこに在るとは分かる。奇妙なまでの実感が訴えかけてくる。かと言って、身体の中に手を突っ込めばいいのか。腸を掻き回して、何処ぞにある筈の愛剣を握ればいいのか。――そんな訳が無い。そんな暇は無いし、何となく、それでは愛剣の端にすら触れられない様に思えた。
それでも、エリスはその壁を乗り越えなくてはならない。
――何か変化を起こすには、それ相応の対価が要る。
それは努力の時間であったり、未来の可能性であったり、与えられた才覚であったり、激情の滾りであったり、人間関係であったり、実に様々だ。共通するのは、決して対価も無しに変化は手に入らないという、何処までも無慈悲で平等な一点のみ。天才であっても凡才であっても、英雄であっても罪人であっても、貴族であっても奴隷であっても、偉人であっても、現在を生きる若者であっても。それは、何ら変わらない。
エリスも同じだ。
彼がここで更なる力を求めようとも、対価が足りなければ変化は現れない。願望は結実しない。彼が命を削り、壊れゆく身体すら無視して自らの内に幾ら魔力を流し込もうとも。奇跡を実現するには少しばかり、対価が足りない。流した涙と汗が、苦悩の傷が、肩に乗る期待が、背負っている罪の数が、天より授けられた才覚が、頭脳に収めし知識の量が、――積み上げて来た時間が、努力が足りない。無条件で手に入る程、少年の求める力は安くなく、簡単に成せる程、人を一人助ける事は楽ではない。
今の彼には、払えるだけの持ち合わせが無い。それは事実――「本当に?」。
「本当に、そうかな?」