勇者編第七話「異世界の異変」
木村が戻ってから、夕食を食べ、フェオーリアと少し話をしてから僕は支度を済ませて就寝した。
次の日も、朝霧と勉強したり、田中にからまれたり、吉野と短い会話を交わしたり、魔王軍が迫っているとは思えない平穏な時間を過ごした。
その中で、なんとなくの気まぐれから、しまっていたスキルカードを見ようという気になった。効果の分からないスキルについて考えてみようと思ったからだ。
しかし、すぐそれどころではなくなってしまった。
「スキルシートがない!」
女神ノルンが渡した、俺たち異世界人にとっては唯一といっていいこの世界の手がかりを俺はいつの間にかなくしてしまっていたようだった。
まずい。嫌な汗が額に浮き出て、俺は意味もなくあたりを見回した。
どこかで落とした?
とにかく探さなくては。
焦って駆けだそうとして、俺はやっと我に返った。
よくよく考えれば、こういう時こそ役立つスキルが俺にはあるのだった。
「『神の入れ知恵』」
オレのスキルシートはどこだ!頭の中で問いかけると、答えはすぐに浮かんできた。
「なんだってこんなところに……」
オレのスキルシートはなぜだか城下町にあるようだった。それも移動している。どういうことだ?
そう疑問が浮かんだ途端に、頭の中に答えが浮かんだ。
『誰かが持っているからだ』
それでは誰が持っているのか。その答えもすぐに知ることができた。
『田中』
どうして田中が!? 驚いたのは束の間、とにかく俺は田中を追いかけることにした。
スキルシートがどれほど重要なものなのか俺は知らないが、しかし簡単に手放していいものではないことは何となくわかっていた。
もちろん、まだまだどうして田中が俺のスキルシートを持っているのか、いつ田中の手に渡ったのか、知りたいことはいくつもあったが、いかんせんこのスキルは使用中は他の質問ができないうえに、答えが出る時間にブレがある。
簡単にぱっと浮かぶものもあれば、やけに時間がかかるものもあったりするのだ。そして、答えを待たずに他の質問をしようとすると、その質問自体がキャンセルされるのだ。
もしもスキルシートが田中が持っているのではなく、落としただけなのなら、場所の答えを聞いて終わりだが、こうしている今もスキルシートの場所は移動している。質問し続けなければ追いかけることもできないのだ。
田中を追いかけて、城下町の中を歩いた。田中はなかなかの健脚で、かなりの速度で移動していてなかなか追い付けない。
それにしてもいつスキルシートをなくしたのだろうか。確かに机の中に入れていたつもりだったのに。
つい思考がそれ、田中の居場所の質問がキャンセルされ、僕は頭を振ってその疑問を振り払った。今はそれを考えているどころではないのだ。
いつの間にか小走りで彼を追いかけていた俺は、息が切れていた。流石につらくなり、休憩をとる。
別に田中は俺から逃げているわけでもないのだから、ゆっくり追えばいい。場所は分かるのだから焦る必要はない。そう自分を落ち着かせたが、足を止めているうちに田中はどんどんと遠ざかっていった。
何かが気にかかり、城を出る前に持ち出した城下町の地図を広げた。田中が向かっている方向にあるものをざっと見る。
酒場、武器屋、教会、様々な施設がありにぎわう城に近い地域から、外の方、昼は人気が少ない住宅地の方へと田中は進んでいっていた。
ますますどこに進んでいっているのか分からない。誰かの家にでも行くつもりだとしても、そんな知り合いが俺と同様異世界から来たばかりの田中にいるようには思えなかった。
しかし、田中は住宅地の中に入ると動きが遅くなり、そして立ち止まった。不可解な行動に頭をひねりながらも、このチャンスを逃すわけにはいかないと僕は再び田中の後を追い始めた。
幸いなことに、なぜか田中はそれ以上移動することなく住宅地の中に留まっていた。やっと彼の姿が見え、俺は彼に声をかけた。
「田中! ちょっと待ってくれ!」
後ろから声をかけた途端、田中は驚いた顔をして振り返った後、すぐさま笑顔になった。
……その笑顔は、口の端を吊り上げて笑うどこかなにかを企んだ顔であった。
「本当に来た」
その言葉と同時に、田中は手を振り払った。顔の横に、風が通った。そしてその後、頬が熱くなった。何か液体が伝っていく。
俺がそれを血と認識するには、さほど時間はかからなかった。田中が再び手を振り上げるより先に、俺は一目散に逃げだしたのだった。
助けを予防にも、人がいない。田中が追いかけてくるのを感じながら、俺は走った。田中は運動部ではあったものの、弱小で遊んでばかりいると評判の悪い我が校のソフトテニス部なだけあって、さほど足は速くなかった。しかし油断はできない。持久力に関して、俺は全く自信がないのだった。
汗だくになりながら、ジグザグに逃げて田中の追撃をかわす。もう、必死だった。住宅地の道は入り組んでおり、もうどう走ればいいのかさえ分からない。
鋭い一撃がきて咄嗟に横道に入った。息も絶え絶えになりながら、前を向くと目の前には人影が立っていた。助かった。助けを呼ぼうと口を開いたが、そこに立っていた人物の正体が分かった途端俺は口をつぐんでしまった。
木村だ。どうしてここに木村が? その答えはすぐには分からなかったが、このままだと巻き込んでしまうと俺は思った。
「き、木村!逃げろ!田中がっ!」
なんとか危機を伝えようとそう叫んだが、しかし何もないこの路地裏で、木村は何をしていたというのか。行き止まりになっている道を見ながら、俺はぼんやりとそう思った。
目の前の人影が、腰に手をやった。差していた剣を抜き、木村はその白刃を俺へと向けた。
待ち伏せされたのだと気づくまで、時間がかかった。昨日までの彼の態度とその行動が結びつかなかったからだ。
「死ねよ」
振り下ろされた刃を間一髪で避けた。しかし体制を崩してしまい、俺はその場で倒れこんだ。ざりっと音と共に、鋭い痛みが走る。手の平の皮が剥けてしまったようだった。
「つっ……」
「木村!やったんだな」
ついに田中にまで追い付かれた。二つの足音が俺に迫る。目を上げれば、木村が冷たい目をして剣を構えていた。ああ、俺、死んじゃうのか。木村の足が俺のすぐそばに来て、そう諦めたときだった。
木村は勢いよく剣を横に振りぬいた。
「えっ?」
鈍い音を立てて、何かが叩き切られる音がする。その何かが肉であることは、疑う余地はなく、どこか異物感のあるその音は、骨すらも巻き込んでいることを容易に想像させた。
それに続いて、重たいものが地面に落ちた。それはオレが倒れた時よりも重たい音をしていた。
「き、むら……?」
木村が俺を迂回して、田中の元へ歩く。俺は信じられない思いで、起き上がりそちらを見た。ぽたぽたと自分の手の平から血が流れ出るのが、やけに現実離れして感じた。
逃げようとは、考えられなかった。そこまで頭が回らなかったと言ってもいい。それほど、俺の頭はその時麻痺していた。ただ現実を認められず、固まっていた。
「お前のスキルはオレが有効活用してやるよ」
酷薄な笑みを浮かべ、木村が田中のズボンのポケットから2枚のスキルシートを抜き取った。
「ど、うし、て」
田中から血が流れ出ていく。暗い路地裏でもわかるほど、彼の顔色は悪くなっていった。それでも田中は俺の時のように、木村に対して激昂することはなかった。ただ不思議そうな顔をして、木村を見上げていた。どうして友達が自分を切ったのか、理解できない。そんな顔をして。
「どう、して俺……を」
言い終える前に、田中の首がかくりと落ちてそれっきり動かなくなった。それはほんの少しの動きだったけれど、生々しく死を感じさせる動きだった。
「はっ。取り巻きのくせにうるさいんだよ。出しゃばりやがってうっとおしい。役立たずのくせに。でも、お前のスキルは役に立つ。俺は魔法が使えないからな。お前が取り巻きで助かったよ」
その言葉に、俺は頭の中で何かが切れた音がした。
「木村ぁ!」
傍にあった角材を握りしめ、木村めがけて振り下ろしたが、木っ端みじんになって砕け散った。
「お前もだ。ゴミが俺を見下しやがって」
咄嗟に、頭を下げた。何か嫌な予感がしたから。
風切り音がして、風が俺の髪を揺らした。もしかすると。信じたくない予想が思い浮かんだ。もしかすると、木村のスキルの本当の効果は。
ぱらりと目の前に切られた髪が舞うのが見えた。予感は的中していた。木村はまるで田中がしていたように、『鎌鼬』の力を使っていた。
俺は息を切らしながら、路地裏を出て街道を走っていた。人目があれば攻撃の手も緩むかとも思い、なんとか田中のスキルにまだ慣れない木村の手をかいくぐり街道に出たが、木村はそんなことはお構いなしだった。
「いい気味だなぁ、日比野ぉ」
愉悦の表情を浮かべながら、まるで狩りを楽しむように木村は僕を追いかけていた。元帰宅部で運動不足の僕なんかに、サッカー部の元キャプテンである木村が追い付かないわけがない。遊んでいるのだ。
「ど、どうして!木村、なんで、こんなことをするんだ!」
どうして木村がこんな暴挙に出たのか。理解できなかった俺は木村へそう問いかけた。
「どうしてだと?」
すると木村は俺の言葉に苛立たし気に反応した。
「お前が勇者なんかに選ばれたりするからだ!」
木村が、スキル『鎌鼬』で風の刃を飛ばしながら叫ぶ。
「なんで!お前なんかがぁ!!」
反撃のすべを持たない俺はただ走って逃げるしかなかった。そんな無力な自分に歯噛みする。
しかし逃げるだけでは、『鎌鼬』はかわしきれない。ついに右足に激痛が走り、俺は地面に滑り込んだ。立ち上がろうとしたが、右足に力が入らない。
「真田でも、朝霧でもなく!お前みたいな根暗が、どうして俺の上に立てる!」
木村が大きく腕を振る。それに呼応して、今までよりも強烈な風が吹き荒れた。
「そんなことはありえない!こんな不公平、納得できない!何がスキルだ。何が魔法だ。今まで、俺が積み上げてきたものは何だったんだ!」
渦巻く風が、まるで一本の刀のように集まるのを感じた。そして、それが今度こそ俺に向けて振り上げられているということも。
本当にそうだ。この異世界は、本当に不条理だ。元の世界に、俺は未練なんかない。未練が残るほど、価値のあるものを積み上げることができなかった。
でも、俺以外はそうじゃない。違うやつもいるのだ。すべて元に戻されて、渡されたものに納得なんてできるわけがない。俺が、勇者なのは運がよかったから。事実がどうなのかは分からない。
でも、俺自身はそう思っている。きっと木村も。幸福も、不幸も運がよかったから。強いも弱いも運がよかったから。元いた世界でもそんな節はあった。けれど、ここまで実感はしなかった。
木村の気持ちを、俺は痛いほど分かるのだ。違う立場ではあるけれど。
でも、俺はこいつを認められない。運で勇者になったけれど、それでも俺にはこいつの、卑怯なやり口を許すわけには行かなかった。
それが、この気持ちが、少なくとも俺が運も何も関係なく、俺だからこそ持っている唯一のものだから、譲るわけにはいかなかった。
さっきまで混乱していた頭が、嘘みたいに静かになっていた。勝ち誇った木村の顔も、冷静に見ることができた。
『神の入れ知恵』『魔法の申し子』。二つのスキルを発動する。
知識なら、手に入る。魔法なら、使える。それなら俺は魔法を知れば、魔法が使えるはずなのだ。
手を前に翳す。思い浮かぶのはこの世界で初めて見た”理不尽”。
「死ねぇ!」
木村が手を下すよりも速く、俺の魔法は発動していた。
「ぐ、えっ?」
木村の体がよろめく。口からまるでよだれをたらすようにだらしなく血が流れ出ていた。木村はついに体を支え切ることができなくなり、呆気なくその場に倒れこんだ。そして信じられない様子で口から出た血を眺めていた。
「は、はあ?ふざけんなよ」
弱弱しい声は、次第に怒りで震え始めた。
「借り物の、力のくせにぃ……いい気に、なるなよぉ!」
木村が力を振り絞り、『鎌鼬』を繰り出したが、俺は『神の入れ知恵』で仕入れた適当な魔法でそれを打ち消した。
「それは、お前も同じだろ」
俺はほかの何を許しても、その一点だけは許す気がなかった。木村が、スキルを盗むために田中を殺したこと。それだけはどうしても認められない。
裏切られたことも、かけられた言葉が嘘だったことも確かに許せない。騙されていたことに腹だって立つ。けれど、どうしてそんなことをしたのかは理解できてしまったから、彼に対して同情する気持ちも俺の中にはあった。
けれど、田中を裏切り殺したこと、これはもうどうしようもない。どうしようもないぐらい彼に対して嫌悪感を抱いた。どうしようもないぐらいやるせない気持ちが胸中で渦巻いていた。
木村は唇をかみしめ、俺を睨み付けていた。しかしもう怖いという思いよりも、怒りの感情が上回っていた。こいつは罪を償わなければいけない。この世界のしかるべき機関で罪を裁き、罰を受けさせる。俺はそう決めていた。
怒りに任せてこいつを殺すのは、木村がやったことと大差ない。だから俺はこの怒りという感情に対して冷静でいようと思った。
しかし、そんな俺の決意がかなうことはなかった。
ふいに、木村は目を見開き俺から視線を外した。憎々し気に歪んでいた目は、いつの間にか憎悪の色を消していた。それは俺に対して、興味がなくなったというわけではない。
突如として出現した黒い影に、息をのんだからだ。
「嘘、だろ……?」
木村が、つぶやく。遠目に俺たちを見ていた人々は、その姿を見るなり悲鳴を上げた。
俺は現実離れした光景にのまれ、ただ黙って、召喚された時のように立ち尽くしていた。
女の悲鳴にも似た咆哮を上げながら、化け物は地面に降り立った。
俺が知っている中では、『竜』が一番近い外見をしていた。しかし、それは絵本の中にあったような荘厳な雰囲気など一片たりとも持ち合わせていなかった。ただただおぞましい。見るだけで身の毛がよだつような、おぞましさだけをその『竜』は持っていた。
赤黒い体液をまき散らしながら、ひどい悪臭をまき散らしながら、災厄の臭いを持ちながらその『竜』は立っていた。
魔族。
明らかに自分たちが住む世界とは大きくかけ離れた化け物を目にしながら、俺はその存在を思い出していた。これが、俺が倒さなければいけない存在なのか?
「な、んで。早すぎる」
うめくように木村が言い、あたりを見回した。
「どういうことだ!まだ魔王軍は来ないはずだろう!」
その言葉に答えられるものはいない。いや、ある意味この場にいる『竜』がその答えなのかもしれない。
「あ、あぁ」
『竜』は木村の前に、立っていた。そして赤黒い目を彼に向けていた。木村の上に、よだれらしき体液が滴り落ちる。腰を抜かした木村は震えることしかできていなかった。
「ま、待てよ。待てって」
『竜』の頭が、木村に近づく。木村は必死に『鎌鼬』を繰りだしていたが、『竜』は身を切られても何事もなかったかのように平然としている。
「殺さないで。やめ、止めてくれ」
涙をこぼして懇願する木村の言葉が、伝わったかのように『竜』は一度動きを止めた。木村の顔に一瞬、安堵の色が広がった瞬間。『竜』は笑った。
血が、飛び散る。もしかするとそれは『竜』の体液だったかもしれない。けれど、あたりに響き渡る籠った悲鳴は紛れもなく木村のものだった。
『竜』はうまそうに、木村を咀嚼していった。悲鳴は徐々に小さくなり、最後に『竜』は口を赤紫色の長い舌で拭った。
そうして、まるで最初からいなかったかのように木村は消えた。