腐らない死体の彼女
ただいま。
帰ってきたよ。
猥雑な部屋の中で、彼女だけはどこまでも美しい。
ぼくの部屋は散らかっている。食べ終えたスナック菓子の袋は溜まっているし、包んだティッシュもそこらじゅうに捨てられている。ごみ箱は何の意味もなしていず、床はもう見えない。
彼女はベッドに寝かせてある。
ベッドにだけは物を置かないようにしている。ベッドは、ぼくと彼女だけの空間だ。何にも邪魔されない神聖な場所。
ここで眠る時だけぼくは落ち着ける。
美しいものと一緒に眠るのは、とても安らぐものだ。
彼女にご飯を食べさせたいと思う時はある。
手料理を振る舞いたい。冷凍食品を温めて、一緒に食べたい。感想を言い合ったりしたくなる時もある。
だけどぼくはご飯を与えないよう我慢している。それはしちゃいけないことなんだ。
彼女に何かを与えたら、美が揺らいでしまい、汚点が付いてしまう。
そうなったらぼくの拠り所は無くなってしまう。
手を舐めてみると、これが意外としょっぱい。汗の味が未だにするのだ。
二年は立っているが、彼女から腐敗臭はしない。体も朽ちたりはしない。
どうして腐らないのかは分からない、
だけどその理由を探すのは止めておく。それは無粋なことであり、美を汚す行為だ。
分からないことを分からないままに受け入れる。それが美を愛でる上で必要な心構えである。
やはり左手の薬指が美味しい。
骨折させたことがある。
その時のぼくはと言えば、強い不安感に苛まれていて、何でもいいから何かに八つ当たりしたかったのだ。
彼女ならぼくを受け容れてくれる。そう信じているから指を折った。右手の中指だ。
とても気持ち良かった。ひどく安心した。
ぼくは彼女の指を折ってもいいのだ、そう思うと心が落ち着いた。小学生の頃、体育館で集会をしていた時に先生が「座ってください」と言って、ようやく座れた時と同じ気分だった。
骨折させた中指をガムを噛むように噛んだ。出来るだけ骨を砕くよう強く噛み砕いた。その度にぼくは、許されている気持ちがした。
終わった後、ひどく後悔した。
ぼくは彼女を傷付けてしまった。
そう頭を抱えていると、不思議な事に、彼女の中指は元通りになっていた。
彼女は元通りになる――素晴らしい発見をしたものだ。
ぼくは彼女に感謝した。
目を開けさせてみると、眼球は入っていなかった。
ぼくはそれを見て驚いて、不安な気持ちになったが、少しするとむしろ落ち着いた。
人間が人間を表すものと言うのは、心ではなく、目なのだ。
だから誰かに見られたら赤面する。
彼女には目が無い。心も無い。
ぼくには、それが有り難かった。何もないから、彼女は怖くない。
ぼくは彼女の唇にキスした。
顏を嗅いでまわり、髪を嗅いでまわった。
いい匂いがした。腐敗臭ではない。彼女は腐らない。
フルーティーな香りと言うのだろうか? それともシャンプーの匂い? ぼくには分からない。もしかすると、この世には無い香りなのかもしれない。そうであれば、ぼくはますます彼女のことを好きになる。
彼女は、この浮世を超越した存在だ。
この世の憂えを忘れさせてくれる美を有している。
ぼくは感動して、泣いた。
犯してやろうかと考えた。死姦というやつだ。
怖いような気がしたが、でも彼女はぼくを拒絶しないから、本当は怖い事なんてない。
彼女の手を取って、ぼくの頬を撫でさせる。
どうしよう? パンツやアソコを見たことはある。乳首も吸ったことがある。とても落ち着く。これが女性だ、そう思うと、ぼくはやはり落ち着く。
女性なのにぼくを拒絶しない。いや、人間なのにぼくを拒絶しない。そのことにぼくはどれだけ救われただろうか。ぼくの生きていける糧は彼女にこそある。何? 死体は人間じゃない? そんなこと言う奴は芸術を分からん奴だ。
ぼくはズボンを下ろした。
しばらく考えて、やはりやめることにした。
ぼくの精子が彼女の中に入ったら、ぼくは彼女を愛でられなくなる。
ぼくが女で、彼女が男だったら、好きなだけアレをアソコに挿入して、抜き差ししたというのに。この時ばかりは自分が男であることを呪った。
もやもやを解消するためにぼくはまた彼女の唇にキスをする。
今日は嫌なことがあった。精神科医の先生がぼくを怒ったのだ。
ぼくが「コレコレとはどういう意味ですか?」と言うと先生は「前に説明したはずだよ」と返した。
前に説明された時は十分に理解していなかったので、「もういちど説明してくれると嬉しいんですが」と返すと、先生はまた「いっかい説明したはずなんだけどね」と言いそれから「憶えてないの?」と返した。
このときぼくはこう思った。ここで見栄を張って憶えていると答えたら、きっともう教えてくれない。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥と言うから、ここでぼくは「はい」と答えた。
先生は「……」しばらく沈黙して、「あのね」と身振りを加えながら説明する。と思いきや突然「はぁー」と深い溜め息を吐いて、ぼくに呆れた。
ここでぼくは赤面した。泣きそうにもなった。
先生は「あのねえ、アレアレをコウコウしたの憶えてる?」と具体例を先生は出した。
ぼくはアレアレをコウコウしたかどうかが朧であり、どちらかと言うとしてなかったような気がしたけれども、ここでまた憶えてないですと返すとまた溜め息を吐かれると思い、また勇気も足りなかったから、ぼくは「ああー。……したような気がします」と知ったかぶった。もしかしたらしていたのかもしれないが、やはりしてないかったような気がする。
先生は「うん。それを今回もするの」と答えた。ぼくは納得して「なるほど」と相槌する。
それから「それを今回もするんですね」と言い、先生は「そう」と返す。
ぼくは「分かりました」と言った。
そして先生は「次からは忘れないでおいてね」と釘を刺した。
ぼくは吐きそうになったが、頷いた。
終わると、ぼくは帰ってきて、いの一番に彼女に抱き着いた。
ぼくを癒してくれるのは先生じゃなく、彼女だけだ。大好きだ。
会話のメカニズムというものがどうにも分からない。
普通の人は、ニュアンスで話し過ぎている節がある。言外の情報をキャッチするのが上手すぎだ。まるでテレパシーで通じ合っているかのようで甚だ羨ましい。
ぼくはというと、全て言葉にしてもらわないと分からないし、ちくいち確認を取っていかないと理解した気がどうにもしない。理解できなかったことをそのままにして話を進められると、もう何が何だか分からなくなり、顔が赤くなる。
分からないことを分からないままにしておくことはぼくにとって耐えがたい苦痛だ。
芸術を愛でる以外のことでは、決して放っておかないだろう。
ぼくは彼女の唇にキスした。舌を入れてみると、柔らかい彼女の舌があって、それを甘噛みした。
彼女のお腹を枕にして寝てみた。
とても落ち着いた。
久々にスッキリ起きれた。良い一日を遅れそうだ。差し当たって今日は、心地よく二度寝することにしよう。
彼女の口の中に人差し指と中指を入れて、こちょこちょしてみた。
気付いたのは、彼女の口内が濡れているということだ。どうして乾かないのだろう。分からない。分からないが、分からないまま放置しておこう。
彼女を解剖なんてしたくない。彼女は、この浮世における超越者だ。
超越したものを近くに置いていなければ、ぼくは狂ってしまうだろう。狂うのは嫌だ。ずっと隠し続けて生きてきたし、これからも隠して生きていくつもりなのだ。
もうぼくは普通になることなんて出来ない。普通というハードルはぼくにとって高すぎる。ぼくは底の人間。這い上がる力も無い。
変に強がるよりも、彼女と一緒に寝ていたい。幸せなんて要らない。美しい不幸とともに溺死したい。
じわじわと、力を抜いてくれ。
今日はかなりむかついたから、彼女の左脚を折ってやった。どうせこんな酷いことをしたって彼女は元に戻るんだろう? だったら壊すだけ壊してやる。
腹を殴る。ベッドへと突き破るようにパンチ、三回パンチ。青あざが出来る。
罪悪感が沸いた。
ぼくは酷い。彼女にこんなことをするなんて。
ああ。だけど彼女は優しいよ。こんなに暴力を振るっても眉一つ動かさない。彼女は、ぼくを怒ったりなんかしない。いつだって平然としていて、ぼくの影響なんてまるで受けないんだ。
そこに居てくれるだけ。それがとてもありがたい。
ぼくは泣きながら彼女の唇にキスをした。
しばらくしたら、やはり骨折させた左脚は戻って、腹も元通りのつやを戻した。
握手してみる。
何だか微笑ましい。
そういえば今日は何も食べていないな。まあいいか。一日くらい何も食べなくても平気だろう。
彼女と同じになれるかもしれないし。
しかしそう思うと、ぞっとして、何だか嫌になった。死ぬのは怖い。
彼女の頭を撫でた。
嬉しい事があった。
ぼくは彼女を座らせて、その嬉しいことを話し続けた。
彼女が微笑んだように見えたのは、それが錯覚でも、嬉しい事だった。
面白いかと思って、彼女の鼻に指を突っ込んでみた。
すぐに引っこ抜いたが、なぜかまた突っ込んでみたくなり、突っ込んだ。
ぼくは変に興奮してしまって、今度は鼻の穴を舐めた。彼女の鼻の中は、人間の味がした。
彼女の鼻の中にぼくの唾液を垂らしこんでいく。溢れかえるまで垂らし込むと、満足感に浸れた。
心の底から、救い出されるような感覚をして、涙が出そうになった。ぼくはあくびするふりをして、あくびによる涙ですよと誤魔化そうとしたけど、彼女の前で偽りたくなかったからそれはやめておいた。
それから彼女の唇にキスをした。
とうとう職を失ってしまった。いつかは切られるだろうと覚悟していたが、想像以上の傷を負ってしまった。
空虚なものがぼくの心に穴を空けて、風が透き通るたびに痛みを感じる。痛風の心。
何もやる気が出ない。きっと彼女でもぼくの傷を癒せない。
ぼくも彼女になろうかと思う。
一週間、外に出る事なく彼女と一緒に眠り続けたら、だんだんと元気が湧いてきた。
やはり彼女はどこまでも美しい。こんなぼくを癒してくれるなんて最高の女性だ。
ぼくは彼女に報いたい。ここまでしてくれた彼女に何かお礼をしてあげたい。
ありがとう。
ぼくはもう少し頑張ってみることにするよ。
ぼくは彼女を永遠に愛することが出来るだろう。
彼女は腐らないから。
ぼくが腐ってもすぐに元通りにしてくれる。
天使だ。陳腐な表現だが、それしか言葉が見当たらない。って言葉は、確か若きウェルテルの悩みだったか? どうでもいいか。
言葉なんてみんなパクりだ。パクろうがパクるまいが、それはけっきょくパクっている。意識的だろうが無意識的だろうが変わらない。だったら意識的にパクってもいいのさ。
なんなら、生きている人間はみんな原始人のパクりだぜ。
彼女はぼくを愛してくれているだろう。
いや愛していないのかな。
分からないが、どちらでもいい。どちらにしても彼女はぼくの傍に居てくれるのだから。
今日も一緒に寝ようね。
もしかしたら笑うかもしれないと思って、彼女の前で一発芸をした。
彼女は笑わなかった。
ぼくは笑った。
彼女の声はどんな声なのだろう。
口を開いて喉を見てみた。そうすると、無性にぼくの声をそこに送りたくなった。
ぼくは腹の底から声を出して、彼女の喉元へと声を送りつける。ぼくの声は喉を伝い、彼女のお腹の中へと響いていった。
交わった気分だ。
ああ。落ち着く。
彼女の声は分からないままである。
こうしている間にも世界で誰かが死んでいるのだろう。
事故か。殺人か。老衰か。自殺か。
本意だろうが不本意だろうが、死は死である。
死は哀しい。
だけど彼女に抱き着いていると、そんなことを忘れられる。世界中の憂えを忘れて、ぼくだけの幸せに浸れる。芸術というものだ。
ありがとう。
最近ぼくは気が狂うようになってきた。
体がいつも軋んでいるし、気付くと独り言を呟いている。今日なんて何の意味もなく叫んでしまった。
とにかく落ち着かないのだ。
彼女と一緒に居たい。それだけがぼくの望み。幸せ。愛。
愛。
ぼくは朽ちていく。彼女と違って腐っていく。
なんてことだ。
ぼくの筋肉は動かなくなっていくし、痛いし、骨もすかすかで、生きていく気力が枯れていく。
ぼくは生きたい。これでも生きていきたい。
助けてくれよ、ねえ。
ぼくはお前が大好きだ。それだけのために生きている。ぼくを救ってくれ。
死ぬのかな。
ぼくは死ぬのかな。
こんなところで燻っていたら、ぼくは。
ああ、きつい。辛い。
ちょっと待ってくれよ。
なんでこんな理不尽、ぼくの身ばかりに起きるんだ。
皺寄せだ。
きつい。
死ぬ。口の中で血の味がする。
ああ。死ぬんだな。
死にたくない。
終わりたくない。
芸術が芸術たりえるためには完成する必要がある。完成は、芸術の基盤となる要素だ。
完成していないものは芸術とは言えない。未完結の小説に意味は宿らないし、描きかけの絵に価値はない。続いている限りそれらは無駄で有り続ける。
無駄を脱するには完成させなければならない。
そして人間も芸術になりえる。
人間にとっての完成とは、死ぬことだ。生きることはどこまでいっても途中に過ぎないから、死ぬことで完成させるのだ。死ぬことで初めて偉人として評価されるのはそのためだ。
彼女は完成している。ゆえに芸術。
ぼくは未完成。ゆえに芸術たりえない。
芸術ではないなら何だ?
ぼくは、芸術家だ。
芸術を愛でる側だ。芸術になんかなりたかねえ。
彼女は死体なのに暖かい。
生きているように暖かい。
生々しい感触が、ぼくの頬を触った。
彼女だった。
――彼女が動いたのだ。
「生きていこう?」
彼女は生きていたのだ。
体の再生は、生きている証だった。
「○○くんは頑張りすぎたんだよ。それはとっても素晴らしいこと。わたしは、あなたにとても救われた」
彼女は嬉しそうに笑う。
「こんな死んじゃってるわたしを見捨てないでいてくれて、本当にありがとう」
ああ。
報われた。
その言葉が聞きたかったんだ。
ぼくは涙を流す。
「たっくさんお礼をしたいの。助けられた分だけ……なんてきっと無理なんだろうけど、いっぱいいっぱい、○○くんにご奉仕したい。支えられたから、支えてあげたい」
やめてくれ。
そうじゃない。
返報してほしくはないんだ。あげた幸福は、彼女、きみだけのものにしておいてくれ。
「バカにしないで。わたしの幸せはわたしの幸せだよ。○○くんがくれたものを、わたしはわたしなりに受け取っただけ。○○くんの奉仕で、わたしは幸せになったんじゃない」
そっか。
なんだ。
よかった。
彼女は、自分なりの幸せを見つけていたんだ。
死合わせで、幸せを探していたんだ。
それは叶ったんだ。
彼女には、もうぼくは必要ないんだ。
やりとげたんだな。
自分のことのように嬉しいよ。
安心して、死ねる。
「ダメだよ。死なせない。今度は、わたしがあなたへ贈る番」
ぼくの顔を撫でる。
「あなたを腐らせるなんて絶対にしない。わたしなりに、あなたを救わせてもらう」
なんて身勝手な女だ。
「身勝手なのはお互い様でしょ」
まったくだ。
「それでいいでしょ」
まったくだ。
「わたしがあなたの幸せを作ってあげる。だからわたしのために、もう、無理しないでね。あなたはもう独りじゃないんだから――あなたの体は、あなただけのものじゃなくなったんだから」
独りだなんて思ったことないよ。
きみを人間じゃないなんて、思ったことないよ。
ぼくらは人間。
こんなになっても、人間。
再生できるから、人間。
ぼくらは人間なんだ。
「生きていこう?」
生きていくよ。
救うために死ぬのはもううんざりしてたんだ。
だからぼくを、救ってくれたまえ。
彼女は目を開いていた。
ぼくを見つめる眼球がそこにはあった。
それは、左目だった。
ああ。そうだった。ぼくが開いたのは右目だけだったんだ。右目がないことに安心していたんだ。
左目は怖かったんだ。もしかしたら左目はあるんじゃないかって思ったら、左目だけは確認できなかったんだ。
でも今は、左目があったことが、とても喜ばしいよ。
おめでとう。目を開けるようになったんだね。
ぼくは外に出始めた。
彼女と一緒だから、何も怖くなかった。
どんな敵にも立ち向かえる、そんな勇気が無限にあった。
もうぼくは腐らない。
幸せになってやろう。