第一章-2
平孫は屋上のフェンスごしに、空を見あげていた。泳ぎたくなるくらいに青くて、見ているだけですがすがしい気分になる。
「不動くん」
ふりむくと、やよいがいた。彼女はほほを赤らめて、上目づかいでこちらを見つめている。うるんだ瞳が……その……たまらなかった。
だきしめたくなる衝動をおさえて、平孫はポケットに手をつっこみながら言った。
「よう」
「この手紙くれたの、不動くん?」
やよいがしわくちゃの手紙を差しだしたので、平孫はうなずく。
「おう。俺だよ」
「話って、なにかな」
言って小首をかしげるやよい。
たったそれだけの仕草なのに、なぜだか心の奥底から言葉にしがたい桃色の気持ちがわきあがってきて、平孫は思わずにやけそうになる口元を手でかくす。
「不動くん?」
だまっている平孫を、彼女は不思議そうに見つめていた。
このままではいかん、と平孫は目線をやよいから外して、青空を見あげた。心がおちつき、口元から手を離す。そのときには、いつもの強面にもどっていた。
そして、平孫は言った。
「好きだ」
「――え」
視線をおろし、うるんだ瞳をまっすぐ見すえながらもういちど言った。
「キミが好きだ」
するとやよいはこちらを見あげて、
「――」
なにか言ったらしいが、平孫には聞き取れなかった。
なぜなら目の前にいた彼女が、天井になったからだ。
自分の目がおかしくなったかと思ってなんどかまばたきをして、まぶたをこすってみるが、天井のままだった。そして先ほどまで屋上に立っていたはずの平孫は、真っ白なシーツにつつまれたベッドに寝転がっていて、身体には毛布がおおいかぶさっている。
――どうなってんだ?
毛布をどかして身体をおこす。
正面に白衣を着た背中を見つけた。うしろ姿だけで名護麻弥子とわかった。
「先生?」
デスクにむかいあう彼女がデスクチェアごとふりかえり、ため息をついた。
「ようやくおきたわね、不良少年」
――おきた?
と、平孫は周りを見まわす。自分が保健室にならんだ三つのベッドのうちの一つでねむっていたことを理解し、視線を名護麻弥子にもどす。
「俺、なんで保健室で寝てんの?」
「忘れちゃったの?」
先生はあきれたような口調だった。
なにを忘れたというのだろう、と平孫は記憶をほりさげる。
手紙をもって学校に行ったことは覚えている。そのあとは……早く行きすぎたせいで校門が開いていなかった。だから校門が開くまで近くの公園で待機し、しばらくしたら開いたのでだれよりも早く校舎に入り、やよいの靴箱にラブレターを入れた。
ここまでは、おぼえている。
問題はそのあとだ。
……そうだ。安心したせいか眠気におそわれたので、どこかで寝ようとして――
「あ、保健室で仮眠をとったんだ」
「そうよ。いきなりきて眠っちゃったからびっくりしちゃったわよ」
「すんません。すげえ眠くて」
平孫は素直にあやまった。
「でしょうね。なんどもおこそうとしたのに、ぜんぜんおきなくてこまっちゃったわ。このまま放課後まで寝ちゃうんじゃないかって思っちゃった」
ベッドを降りた平孫は背のびをし、窓から降り注ぐ日光に目を細め――見開いた。
なんどかまばたきをする。冷や汗がほほを伝った。
窓のむこうに見える校庭で、男子生徒たちがワイシャツのそでをまくって、サッカーや野球などのスポーツに興じていた。
保健室の壁時計に視線を飛ばす。
昼休みがはじまって、すでに二十分も経っていた。
「あああああああああああっ!」
突然の大声にびっくりして、名護麻弥子がデスクチェアから転げおちた。
だが彼女にかまっている余裕はなく、平孫は大急ぎで保健室を飛びだす。脇目も振らずに階段を一気に駆けあがり、屋上とびらを豪快に押し開く。
「ひうっ!」
かわいらしい悲鳴が聞こえ、屋上に出た平孫はそちらを見る。
抜けるような青空を背に、やよいが立っていた。彼女はとびらの音にびっくりしたようで、二重まぶたの目を大きく見開いている。
「ハァ……ハァ……ひ、羊ざ、か、さん」
全力疾走したせいで、心臓は張りさけそうだし、息はみだれていた。
だが、自分からよびだしておきながら遅刻したあせりから、平孫は酸素不足でふらつく足をひきずるようにして、彼女のほうに一歩、また一歩と近づいていく。
やよいは、まるでぬいとめられたかのように、その場からうごかなかった。
そして平孫は、彼女の前にたどりついた。
二人の身長差は大人と子どもくらいあり、平孫が見おろす形となった。
いつも遠巻きにながめているからわからなかったが、こうして近づいてみると彼女の小ささがよくわかる。身長だけじゃなく、手も、胸も、足も、なにからなにまで小柄だ。
それに、とてもいい匂いがする。石鹸とか、シャンプーの。
だきしめたくなったとき、彼女がふるえていることに気づいた。それにこんなに近くにいるのに、やよいはこちらと目をあわそうとせずに、下をむいている。
平孫の脳裏に、ひらめくものがあった。
――俺とおなじなのか?
やよいも、平孫のことが好きでまともに目をあわせられないんじゃないか?
そう思った。
そして、ワイルドケンジが大好きな女子生徒とだきあう絵を頭に思いうかべながら、
「羊坂さん」
と、平孫は自信満々によびかけた。
やよいが顔をあげる。
ふるえる瞳と目があった。
そして彼女は、顔を青ざめさせて、その場から一歩しりぞいた。
「ご、ごめんなさい」
なぜさがるのか、そしてなぜあやまるのかわからずに、平孫は目をしばたかせた。
「ご、ごめんなさい」
やよいはまた一歩さがり、
「ご、ごめんなさい」
そして三歩目を踏みしめたとき、
「――ごめんなさいいい!」
と、平孫の脇をぬけて、屋上からにげだした。
「……え?」
まさかの事態に、平孫はあぜんする。だがそれは一瞬のことで、すぐに彼女のあとをおいかける。どうしてにげだしたのか、そしてごめんなさいの真意をたしかめるために。
階段を駆けおりると、二階の廊下のところで彼女の背においついた。
「待って!」
平孫はやよいの手をつかんだ。
彼女が弾かれたようにふりむく。
黒髪がおどり、うるんだ瞳から大粒の涙がこぼれた。
「ごめんなしゃい!」
彼女はうわずった鼻声を発した。
予期せぬ展開に、平孫の時がとまる。
「ごめんなさい……じ、自己紹介のあれはわざとじゃないんです……だから、な、なぐらないでください……おねがいです……ごめんなさい……」
ボロボロとこぼれる涙を、手の甲でぬぐうやよい。
どうして――泣く?
自己紹介のときって――なんの話だ?
なぐるって――俺が?
目の前でおきていることの一切の理由が、平孫にはわからなかった。
平孫は全身から血がぬけたような脱力感におそわれて、彼女の手を放した。
頭の中にうかんでいる、だきあうキャラ同士の絵が、木っ端微塵にくだけた。
廊下や教室にいた生徒たちが、遠巻きにこちらをぎょっとした目で見ており、ちょっとした人だかりができていた。
生徒たちをかきわけて、廊下の奥から先生たちがやってきた。その中には担任である水無星百合子もいて、別の先生にやよいを任せて、彼女は平孫につめよる。
「不動! これはどういうことだ!」
水無星百合子の問いに、しかし平孫はなにも答えなかった。
答えられなかった。
その後、平孫は職員室に連れて行かれ、担任に事情を説明するように言われた。
つかれたのでしばらく黙秘していたら、他の先生たちからいじめていたんじゃないのかと追求を受けた。それに対してイライラしていると、別室にいるやよいがいじめを否定したということで、あとの問題は担任があずかる形で話はおわり、平孫は解放された。
だが教室にもどる気がせず、そのまま早退して――
「オラァ!」
駅前のゲームセンターで、パンチングマシーンをなぐっていた。グローブをはめた拳がミットにたたきこまれ、ミットとそれをささえる棒がたおれる。
正面の画面に、二〇〇キロと表示された。
なかなかの威力だが、平孫のアベレージは二五〇で、今回はそれを下まわっていた。
「……っち」
グローブを乱暴にはずして、筋肉質な肩をぐるぐるとまわす。身体でもうごかせば気分も晴れるかと思ったが、自分の不調を再確認するだけで余計に気が滅入ってしまった。
店のすみの自動販売機で缶コーラを買って、自販機横のベンチに腰かける。プルタブを空けて飲むと、つかれた身体に炭酸がしみこみ、胃のあたりがすこしふくれた。
「……ふー」
飲みかけの缶をベンチにおき、平孫はつかれはてた会社員のようにうなだれる。思考放棄し、ゲームの筐体たちがおり成す合奏に耳をすませていると、となりに気配を感じた。
「ウチさ、コーラ派よりペプシ派なんだよね。でもいっただきやーーーーすっ!」
言って文香は、平孫のコーラを勝手に飲んだ。
「……百二十円、払えよ」
うなだれたまま平孫は言った。
「お金もってないから……身体でいいかな?」
うっふん、と身体をくねらせる文香。
いつもならかまってやるが、きょうは無視をした。
「ひどいわっ! 平孫ちゃんったらウチのことを完全に無視して! 離婚よ離婚!」
平孫は横目で、ヒステリー女を演じた文香を見る。
「……なんでおまえいんの?」
「あんなさわぎをおこして早退されたら、だれでも気になると思うよ」
「よくここがわかったな」
「家にいなかったから、もしかしたらここかなーと思って。というか平孫ちゃんが電話にでてくれたら、ウチは無駄足を踏まずにすんだんですけどー」
これは手間賃ということで、と文香はコーラをまた勝手に飲んで、
「で、なんであんなことなったの?」
と、声を低くして問いかけてきた。
「やよいっちに聞いても言葉をにごすし、いじめたわけじゃないっしょ?」
「そんなくだらねえことするか」
「だよねー。平孫ちゃんがそんなことするわけないもんねー。じゃあなんで?」
「よくわからねえんだ。俺はただ、告白しようとしただけなんだよ」
文香がコーラを吹き出した。
「ブーッ! は? 転校してきてまだ二日なのに? 好きって言おうとしたの?」
「……ああ」
「うはっ! 平孫ちゃんパッションあふれすぎっしょ! アゲアゲパーリナイじゃん!」
文香がほめながら肩をたたいてくるが、痛いだけでなにもうれしくなかった。
「でも、言う前におわっちまった」
「え、なんで?」
言いたくなかった。口にすると、あのときの場面が再現されて、頭をかきむしりたくなるのだ。だが言わないのは、心配してきてくれた文香に対して失礼だ。
平孫はところどころ言葉につまりながら、やっとの思いで伝えた。
すると文香が、苦笑いをうかべた。
「平孫ちゃん。そりゃダメだよ」
「どこが?」首をひねる平孫。
文香が言った。
「差出人不明の手紙によびだされて行ったら強面のハァハァ言ってるヤンキーがやってきたとか恐すぎるし、しかもそんなのに追いかけられたら、そりゃ泣きたくもなりますがな」
「…………」
あのときはさまざまな事柄がからみあって、現実が見えていなかったが、こうして第三者から言われてみて、平孫はようやく自分の行動の危うさを理解した。
「あとね、やよいっちの言葉からさっするに、ヤンキーが転校生をよびだしてなぐるみたいな展開あるっしょ? たぶんそれを連想しちゃったんだと思うよ。自己紹介のときに失敗したやよいっちを、不良である平孫ちゃんは『気にくわねえなあいつ』と思ってやよいっちをよびだしてなぐろうとした、って感じで考えたんじゃね?」
「……すげえ、ネガティブだな、その考え方」
「物事のとらえ方なんて人それぞれっしょ。泣いた理由を言わないのも、言ったら平孫ちゃんから報復にあうとか思ってるからじゃね?」
「俺、報復なんてしたことねえよ」
「ウチは知ってる。でもやよいっちはそんなこと知らない」
「…………」
平孫は言葉を失った。
文香はコーラを飲み、口元をぬぐう。
「ま、全部ウチの勝手な想像だし、実際はちがうかもしんないしねー。なんにせよ、平孫ちゃんはもうちょっと考えて行動するべきだったね」
文香が飲みおわった缶を、ゴミ箱めがけてバスケットボールのように放り投げた。放物線をえがいたそれは、ゴミ箱の側面に当たって床をころがった。
失敗した文香は不満げな表情で缶をひろいに行き、至近距離からゴミ箱に缶をすてた。
そんな彼女のうしろ姿にむかって、平孫は言った。
「俺さ、まだ羊坂さんに好きって言ってないんだ」
「で? まさかもういちど告白する気なの?」
再び平孫のとなりに腰かける文香。
「やめときなって。成功する見こみなんてないっしょ」
彼女のあきれはてたような言い方に、平孫はムッとして言い返す。
「それは……やってみなきゃわかんねえだろ。今回は泣いておわったけど、でも次は今回みたいにヘマをしないて、ちゃんとセッティングをすれば――」
「現実をみなよ、平孫ちゃん」
文香の声が鋭くなった。
「見てたらわかると思うけどさ、やよいっちは気弱で繊細な人見知り太郎なんだよ。そんなやよいっちにとって、いまや平孫ちゃんは恐怖の象徴なわけ。もういちど告白しても、今回とおなじ結果になるのは目に見えてる。恋愛処女なウチにだってわかることっしょ」
文香は気だるそうに鎖骨あたりを指でかく。
「平孫ちゃんはフラれたの。平孫ちゃんは告白していないし、やよいっちも返事をしていないけど、でもそういうことなのよ」
「…………」
「だからあきらめなって。それでもまだあきらめないって言うなら――」
文香が短ランのすそをひっぱった。
「せめて不良をやめなきゃ、やよいっちはずっと恐がったままだと思うよ?」
平孫にとって不良はアイデンティティである。
しかしそれをやめるということは、これまでの人生の否定につながるわけで。
「…………」
文香が達観したような目で、こちらを見つめる。
「なにを考えているのかわかるよ。だからあきらめろと言ってんの」
「…………」
「初恋は実らないって言うし、女の子は星の数ほどいる。次があるってことっしょ。だから次は平孫ちゃんを恐がらない女の子を、好きになればいいじゃん」
「…………」
「今回は星のめぐりあわせがわるかった。それでこの話はおわりっしょ。ね?」
文香の言葉に、平孫はやはり答えることができなかった。
もはや遊ぶ気分ではなくなった平孫は、家に帰ることにした。
一人で帰ろうとすると文香がついてきたので、二人でいっしょにゲーセンを出た。おしゃべりが好きな文香もきょうは口数がすくなく、めずらしく静かな帰り道だった。
家の前についたとき、あたりは暗がりにおおわれ、空には銀色の月がうかんでいた。
「平孫ちゃん。また明日ね。ちゃんと学校こないとイタズラすっかんねー」
「……おう」
家がとなり同士の二人は、たがいの玄関の前で別れをつげた。
平孫は玄関のとびらを開けた。一階の廊下の奥の居間のほうから、白熱灯の光とテレビの音声がもれていた。両親がくつろいでいるのだろう。
「ただいま」
言って二階にあがり、自室に入った。
通学鞄を放り投げて、ベッドに飛びこみ、枕に顔をうずめる。
目をとじると、きょうの出来事が次々と頭の中をよぎる。スライドショーのように流れていく思い出が、ある場面でぴたりととまった。
やよいが、大粒の涙を流す場面だった。
胸の中心あたりに針でさされたような痛みが走り、平孫は寝返りを打って仰向けに。
天井に貼られた伊達ミキオのポスターが、こちらをにらみつけていた。
――羊坂さんの目には、俺ってこんな風に見えているのか。
いや、彼女だけじゃなく他の人にも。
ずっとそうだったからわすれていたが、不良という存在は恐怖をはらんでいる。
平孫も、例外ではない。
「……泣きたくもなるな、こりゃ」
平孫はベッドから降りて、押入れのふすまを開けた。
上段から一着の短ランを手にとる。すそやそでがすり切れており、いま彼が着ているものよりも年季が入っていた。その短ランは、小学五年生のときにお年玉や両親の手伝いをして貯めたお金で買ったものだった。はじめて購入した不良関連の品で、サイズがあっていないからブカブカなのに常に着ていた覚えがある。成長期に入って背がのびたせいで着られなくなってしまったが、手放すことができなくて、こうして保管していた。
「なつかしいな」
初購入した短ランをもどし、こんどは一着のスカジャンを手にとる。背中にししゅうで竜がえがかれているそれは、喧嘩班長の主人公・伊達ミキオの私服によく似たデザインだったから買ったものだ。いまでもたまに着て、伊達ミキオの気分を味わっている。
スカジャンをもどし、次は金属バット、次はさらし、次はメリケンサック――
物を手にとるたびに、遠い過去の出来事が脳裏をよぎっていく。
押入れにあるすべての品に、思い出があった。
過去がつまっていた。
押入れの下段にある、すべての原点である喧嘩班長シリーズの第一巻を手にとった。
十年以上前の作品なだけあって、表紙は傷み、ページは日焼けしており、古本屋に入店したときのような独特の匂いを発していた。
本を開く。
初期ということもあり、絵柄が不安定でデッサンもおかしかった。しかし荒削りながらも迫力があり内容も充実しており、読んでいると子供のころを思い出してきた。
平孫がはじめて喧嘩班長を目にしたのは、コンビニで漫画雑誌を立ち読みしたときだった。掲載されていたあらゆる漫画をさしおいて、もっとも目をひかれた。他の漫画にくらべて話の内容が単純明快で、子ども心にキャラも男らしくてかっこいいと思えたからだ。
それ以来、なにかにつけて伊達ミキオの真似をするようになっていた。
いまでもそれは、変わっていない。
ずっと――変わっていない。
「コイツは、俺の人生そのものだ」
本を読み進めながら、平孫はかみしめるようにつぶやいた。
だからやっぱり文香が言っていたとおり、やよいのことはあきらめるしかない。
だって、彼女との恋を実らせることはすなわち――
「――あ」
と、あるセリフが目にとまった。それは営業周りをしているサラリーマンをながめている伊達ミキオが、舎弟の富沢ヤスオに対して言っているセリフだった。
セリフを音読する。
「大人になったら、俺たちどうなっているんだろうな」
なにか心にひびくものがあり、なんとなく、大人になった自分を想像してみることに。
――でも、思いうかんだのは、いまの平孫の姿だった。
がくぜんとしたとき、前に聞いた文香の言葉が口をついて出た。
「脱皮しない蛇は死ぬ、か」
平孫は本をとじた。
※
上下赤ジャージ姿の中村文香は、二階の自室で勉強机にむかっていた。だが机の上に広がっているのは教科書とノートではなく、スポーツ雑誌と愛用のスケッチブックだった。
彼女はスポーツ雑誌に掲載されている水泳選手の写真を、スケッチブックに模写していた。おおよそ完成しており、写真に激似の水泳選手の絵が、紙の上で強烈な存在感を放っている。こうして模写することが、日課だった。
「うはぁ……。ごちそうさまですよ、ほんとう」
甘ったるい声をもらして、文香は表情をとろけさせる。恋する乙女のようだが、その想いは選手ではなく、きたえあげられた筋肉にむけられていた。
そして上腕二等筋にペン入れをして、きょうの分の模写をおえた。
参考資料である雑誌を机の横の本棚にもどそうとしたとき、表紙のサッカー選手の写真が目に入った。そのサッカー選手は、試合に負けたらしくベンチにすわってうなだれているのだが、その気落ちした姿がゲーセンで見た平孫にそっくりだった。
「大丈夫かな、平孫ちゃん」
平孫とは、文香が五歳のころに別の町から愛真市にひっこしてきたときからのつきあいだ。もう十年になる。長い間近くにいるわけで、それだけ平孫の色んな顔を見てきた。
だが――きょうの顔は、はじめてみた。
あんなに辛そうな顔は。
「ああ見えて意外と純粋だもんなー、平孫ちゃんって」
漫画がきっかけで、不良になるような男だし。しかも不良のくせして、道徳に反するようなことはしない。喧嘩はするが、相手は悪者ばかりだ。あと、すぐにだまされる。
不良というよりは、不良ごっこをしている子どもといったほうが、しっくりきた。
そんなことを考えながら、文香は窓のほうを見る。
窓の外には木造二階建ての不動家があった。文香の自室は二階なので、そこからは不動家の二階部分――つまり平孫の部屋しか見えないのだが、その部屋の光が消えていた。
模写をする前はついていたのに。
どこかに出かけたのだろうか、と、そのときだった。
窓の外で、黒煙が立ちのぼってきた。
「――は?」
急いで窓を開けた。もしかしたら火事かもしれないと階下を見おろして火元をさがす。
不動家の庭に、もうもうと煙を吐きだすドラム缶を見つけた。
そしてそのドラム缶の前には――
「平孫ちゃん?」
「ん? おう。文香か」
ドクロのTシャツに、昇り竜の絵がえがかれた短パンを着た平孫が、こちらを見あげて言った。あいかわらず趣味のわるい私服だったが、それをいじる余裕はなかった。
「な、なにをして――いやちょっとまって。そっち行くからちょっとまって」
文香は家を飛びだした。
――フラれたショックで頭おかしくなった系?
そんな不安が、彼女の胸を駆けぬけた。
不動家の玄関前の横道を通って庭に出ると、先ほどと変わらずドラム缶の前に平孫が立っていた。近づいてみてわかったのだが、彼の足元には大量の漫画本がつまれていた。
平孫が後生大事にしている喧嘩班長シリーズのすべてが、そこにおいてあった。
息を切らせながら、文香はドラム缶と漫画本を交互にゆびさす。
「それなに。どういうこと?」
「どういうことって――」
平孫は足元の本を一冊つかんで、それをドラム缶の中に放りこんだ。
「こういうこと」
黒煙にまじって火の粉が飛び、小枝を折ったときのような音を鳴らして紙が燃えていく。
「なにしてんの!」
文香が目を見開いて叫ぶと、
「燃やしてんだよバカヤロウ」
と、平孫はへいぜんと返してきた。
「燃やしてるって……それ、すっごい大事にしてたやつっしょ! なんで?」
こんらんする文香をよそに、平孫は冷静に言葉をつむいだ。
「決意表明だ」
「け、ケツ、え、なにそれ? ――なんの?」
平孫がこちらに顔をむける。その顔は、前に見たことがあった。小学生のとき、平孫は上級生に取られた遊び場を取り返すために一人でなぐりこみをかけたことがあった。
そのときとおなじ、覚悟をきめた顔をしている。
「俺は不良をやめる」
言葉の意味は理解できたが、平孫の口から発せられたとは思えなかった。
「もうリーゼントにもしないし、制服も普通のものを着るし、ケンカもしない」
平孫はつまれた本の一冊を手にとり、その表紙を見おろし、
「伊達ミキオの真似は、もうやめだ」
と、火にくべた。
しばらくぼうぜんとしていた文香だったが、ようやく状況になれてきて、おちつきをとりもどした。そして、問いかけた。
「やよいっちのために?」
「それもある」
それ以外にどんな理由が、と思っている文香の前で、平孫は夜空を見あげる。
「薄々は感じていたんだけど、ここらが潮時だなって。これ以上、伊達ミキオの真似をつづけたら、置いていかれる気がしたんだ。みんなは前に進んでいるのに、俺はひとりうしろをむいている、みたいな。おまえが言ってただろ? 脱皮しない蛇は死ぬって。だから脱皮して、俺も前に進むことにした」
炎に照らされてうかびあがる横顔はスッキリしていて、ヤケになっているようには見えなかった。彼なりに考え、悩み、そしてみちびきだした結論なのだろう。
だとしたら、それがわるいことではない以上、とめる必要はなかった。
「……そっか。ようやくって感じだね」
「ようやく?」
首をかしげる平孫にむかって、
「平孫ちゃんが、ようやく大人になろうとしている、って思ってさ」
と、文香は言った。
「いままでクソガキだったみたいな言い方だな」
「実際そうっしょ」
「んだと? ケンカ売ってんのかこのやろう」
「ほら、そういうところ」
指摘されて、平孫は悔しそうに鼻を鳴らした。
文香は笑ってサムズアップした。
「平孫ちゃん。がんばってやよいっちのハートをゲットするんだぞ」
「もちろんだバカヤロウ」
と、平孫はまた一冊、過去を燃やした。