第一章-1
第一章
朝礼前の教室は、クラスメートたちの話し声でさわがしかった。仲のいいグループであつまって、趣味や芸能人の色恋沙汰など、とりとめのない世間話に花を咲かせている。
平孫は自分の席で喧嘩班長を読んでいた。日焼けしたページの中で暴れまわる伊達ミキオのかつやくに目をかがやかせていると、前方に気配を感じた。
「平孫ちゃん。聞いた?」
頭をあげる。机の前に文香が立っていた。
「なんの話だ?」
「その様子だと、知らねーみたいね」
「だからなんの話だよ」
「ではここで問題です!」
急にテンションをあげた文香が、マイクをにぎったつもりで、手をこちらにむける。
「ウチが仕入れた情報とはいったいなんでしょう。シンキングタイ――」
「知らん」
「――ムぅ」
一転して文香は肩をおとす。
「ぜんぜん答える気ないじゃん。平孫ちゃんノリわる太郎じゃん」
「うるせえな。ぶっ飛ばすぞ」
「――どう思う? 今井ちゃん」
文香は、平孫のとなりの席にすわる今井正美にいきなり話を振った。
「へ?」
引き出しの中を整理していた今井正美は、目を白黒させてどぎまぎする。
「平孫ちゃんノリわる彦だと思わない?」
文香が言うと、今井正美は平孫を横目でちらりと見て、それから文香のほうに視線をもどし、ひきつった笑みをうかべた。
「そ、そんなことはないと思うよ」
愛真高校に入学し、このクラスの一員になって一ヶ月経つが、平孫はクラスメートと距離を感じていた。容姿のせいだと自覚している。髪型や服装もさることながら、怒っていないのに「怒ってる?」と言われるその仏頂面が、最大の原因だろう。
不機嫌そうな顔は意図的なものだった。整形という意味ではなく、眉間に力を入れたり、わざと目力をこめたりして、顔の筋肉を緊張させることでつくっているのだ。
おかげで人がよってこず、話し相手は文香ぐらいだった。
その文香が、ふやけた声をだす。
「今井ちゃんはやさしいねー。今井ちゃんに筋肉あったらウチ絶対にほれてたよ」
「や、やだよ。筋肉もいらないし、文香ちゃんにほれられても……わたし女だし」
「性別なんて些細な問題っしょ」
「文香ちゃん、きょうもすっごい気持ちわるいね」
「でしょー。正論だからウチも受け入れちゃうー」
「な、謎の寛容さだね」
会話の内容はともかく、女子二人の表情は和やかだった。今井正美も自然な笑顔をうかべている。平孫のときとはちがって。
なんだか胸のあたりがもやもやして、平孫が眉間の縦しわを深くしていると、
「平孫ちゃん。どうかした?」
異変に気づいた文香が、首をかしげた。
「別に。で、情報ってなんなんだよ」
「やっぱり気になる?」
「言うならさっさと言えよ。クイズはなしだからな」
文香が眉をひそめる。
「えー。タダで情報を得る気? せめて腹筋の一つか二つはいただかないと」
「筋肉をもらうとかあげるとか、もう意味わかんない。おまえ意味わかんない」
「はいはい、おしえるっしょ。あのね実は――」
コーンッ、と予鈴が鳴った。
「――あ、時間だ」
「おい。とちゅうでやめんなよ」
「どうせすぐにわかることだしー、レッツ・サプライズぅ」
手をひらひらと振って、文香は自分の席にもどっていった。
すぐにわかるって、どういうことだろう。
平孫がその答えをみちびきだす前に、教室に担任の水無星百合子が入ってきた。グレーのスーツでバシっときめたキャリアウーマン風の先生である。
「静かにしろー、おまえら」
彼女は出席簿をたたいて叫んだ。生徒たちは口をつぐむ。
「朝礼をはじめる前に紹介する。――入って」
水無星百合子が開け放たれたとびらのほうを見る。人をよんだようだが、しかしだれも教室に入ってこない。いちどおさまったざわめきが、再び教室にみちる。
水無星百合子はややこまった顔をしてもういちどよんだ。
「羊坂、入ってこいって」
見知らぬ女の子が、とびらの陰からそろーっと顔を半分のぞかせた。
腰までまっすぐのびた黒髪は、天使の輪ができるくらいにつややかだった。切りそろえられた前髪が、うつむきぎみの細面の顔に影をかけている。
なんとなく、あーかわいい顔をしてるんだろうな、という雰囲気があった。
彼女はちょこちょこと足早に水無星百合子のそばまで移動し、先生の背にかくれるような位置で立ちどまった。小学生のように小柄で、挙動もふくめて小動物のようだ。
水無星百合子が、女の子の背中をやんわりと後押しする。
「さ、自己紹介をして」
女の子が、うつむいていた顔をあげる。
大きな瞳が、前髪の下からすっとあらわれた。その瞳はうるんでいて、宝石のようなきらめきをたたえている。それでいて不安げにゆれているものだから、いつ壊れてもおかしくないという不安感と、だからこそ大切にしようという儚さを見るものにあたえた。
平孫は、彼女の瞳を見た時にそう感じた。
教室のざわめきは、いつの間にかおさまっていた。
女の子は口を真一文字にむすび、セーラー服のすそをぎゅっとにぎる。息苦しいまでの静けさのなか、彼女は意を決したように口を開いた。
「ひ、羊坂やよいでう」
途中まで上品だった声が、最後でうわずった。
羊坂やよいの全身が爆発寸前のように赤くなり、先ほどよりも深くうつむいたどころかそのまま身をちいさくしていき――ついにはひざをかかえてしまった。
(やーん。なにあの子、超かわいいんですけどー)
(ちっちぇえ……なんか、すげえ頭とかなでたい)
(かわいいな、マジ……マジ)
だがクラスメートの大半は、近くの席の友だちといっしょにもりあがったりして、彼女の失敗をむしろ好意的に受け入れていた。
当の本人は、穴があったら入りたい様子だが。
再び教室内がざわつきはじめた。水無星百合子が手をたたく。
「静かに。つーわけできょうからクラスの一員になる羊坂だ。仲良くしてやってくれ」
はーい、と元気よく返事をするクラスメートたち。
やよいは赤い顔をうつむかせて、水無星百合子に言われた席まで移動し、着席。
その一連の行動を、平孫はずっと目でおっていた。さらに彼女が席についてからも、目が離せなかった。黒板の前で担任がなにか言っているが、彼の耳にはとどいていない。
いまの平孫に聞こえるのは、早鐘を打つ心臓の音だけだった。
三時間目の授業がおわるなり、平孫は席を立ち、椅子にすわってのびをしている文香の襟首をつかんだ。
「うひゃ! た、平孫ちゃん、なに?」
「――――」
だが答えずに文香をそのまま五階の階段――屋上とびら前の階段の踊り場まで連れて行った。そこは人通りがなく、秘密の話をするに適した場所だった。
踊り場につくなり、平孫は文香の両肩をわしづかみする。
「ちょ、平孫ちゃん、なに?」
面食らった様子の文香。
平孫はのどから声をしぼりだす。
「――おかしいんだ」
文香の肩から左手を離し、その手で短ランごしに自らの左胸をつかむ。
「心臓がなんか……おかしいんだ。なんか……すげえドクンドクンって」
「え、大丈夫?」
心配そうに、文香がこちらの顔をのぞきこんでくる。
「いつから?」
「朝礼のあたりから急に……ずっとがまんしてんだけど、どうにもおさまらなくて」
「ちょい失礼――うわっ、おどってる」
平孫の左胸をさわり、文香は目を丸くした。
「もしかして俺……死んじまうのか」
「弱気なこといっちゃダメっしょ。保健室に行ったら?」
「――その手があったか!」
動揺したせいで、すっかりわすれていた。
言うが早いか、平孫は一階の保健室まで走り、たどりつくなり横開きのとびらをスパーンッと豪快に開け放った。
デスクチェアに腰かけてコップに入れたコーヒーを飲んでいた名護麻弥子養護教諭は、突然の訪問にびっくりしたらしくむせて、白衣を重ねた大きな胸を涙目でたたいた。
平孫は名護麻弥子につめより、彼女の両肩をつかんだ。
「先生!」
「ひぃぃ!」
名護麻弥子がおびえた声をだす。
生命の危機にひんしているせいで、平孫の顔の迫力はましていた。
「心臓がヤバイんだ! なんか心臓がドクドクいってやがんだよ! なんだよこれ!」
「へ、変なクスリでも打ったの?」
「タバコも酒もクスリもやってねえ! きれいな身体だ!」
「ひいぃ! わか、わかったから大声をださないでよ!」
名護麻弥子がいよいよ泣きそうになったとき――
「アチョーッ!」
背後から振りあげられたつま先が、平孫の股間にめりこんだ。
「はうっ!」
不意打ちの一撃に、平孫はたまらずうずくまる。視界が真っ白になって気が遠くなったが、それは一瞬のことで、すぐに燃えるような痛みに股間が悲鳴をあげた。
一仕事おえた文香が、名護麻弥子をチェアにすわらせる。
「先生、大丈夫です? なんも変なことされてない?」
「え、ええ……。なんとか貞操は守ったわ」
文香は先生にうなずきかけ、そして平孫のほうをふりむいた。
「平孫ちゃん。ダメっしょ」
平孫は床にうずくまったまま、脂汗のにじむ顔をあげる。
「だからって……タマは……やめろ……」
「そうでもしないと、とまらなかったくせに」
ぐうの音もでなかった。
「先生に診てもらいたいんだったら、ちゃんと説明しなきゃ」
「そ、そうよ、不動くん。ちゃんと聞くから。ね?」
平孫と名護麻弥子は顔見知りだった。喧嘩で怪我をしたときに、なんどか治療をしてもらっている。それもあって、おちついてからの彼女の言葉には親しみがあった。
二人から声をかけられてようやく冷静になった(しかし心臓はまだ高鳴っている)平孫は、痛みのひいていない股間を押さえながら立ちあがった。
「すんませんした……先生、文香」
「いや、いいのよ」
名護麻弥子につづいて、文香も言った。
「ウチは三万でいいよ」
「…………」
「先生、平孫ちゃんがボケ放置という遠まわしないじめをしてきます」
まあまあと文香をなだめてから、名護麻弥子が言った。
「で、不動くん。いったいなにがあったの? 心臓がどうのこうのと言っていたけど」
「なんか、すげえバクバクいってて」
「いつから?」
「朝っす」
「朝のいつごろ?」
平孫は記憶をさかのぼり、答えを見つけだした。
「……朝礼で羊坂さんを見たあたりから」
「だれ?」
「ウチのクラスの転校生」
文香がほそくすると、名護麻弥子は考えるそぶりをみせ――急に表情を明るくした。
「その羊坂さんってかわいいの?」
「かわいいどころか、もうきゃわいいよ。女のウチから見てもあれは――あ」
「気づいちゃった? 中村さんも」
なにやら二人は得心したようで、ニヤニヤと下世話な笑みをうかべていた。
平孫は気味がわるくなり、眉根をさらによせる。
「な、なんだよ、二人して」
「ねえ不動くん。あなた、転校生を見てから心臓がバクバクしはじめたのよね?」
「ういっす」
「じゃあそのあと、あなたはどんな行動をした?」
言われて、平孫は朝から現在にかけての行動をふりかえってみることにした。
朝礼以来、なぜかやよいから目が離せなくなった。といってもずっと見ていたわけではなく、基本はチラ見だ。不良相手ならいくらでもにらむことができるのに、彼女が相手だと長くて二秒が限界だった。しかも絶対に目はあわせないようにする。仮にあいそうになったら高速でそらして、別のことをやる。あなたのことなんてみていませんよー、と行動で示すわけだ。なんだか目があったら、ダメな気がするのだ。メンチ切りは不良の鉄則だというのに。それでしばらく経ったら、また彼女のほうをチラ見する。休み時間もおなじだ。クラスメートから質問攻めにあってあたふたしている彼女を、その輪の外から見ていた。漫画を読みながらチラチラと。おかげできょうは、内容が頭に入らなかった。
そのことを伝えると――
「これはまちがいないわね」
「ウチもそう思いましてよ、お姉さま」
女子二人の笑みが深まった。まるで越後屋と悪代官である。
「だから、なんなんだよ」
イラつきながら問うと、文香が得意げな顔をする。
「平孫ちゃん。あんた――転校生に一目惚れしたっしょ?」
「一目惚れ?」
「恋だよ、恋。ラブだべ」
「――恋?」
予期せぬ答えだった。
「恋って……あの……なんかこう、ピンク色の?」
ふわふわとした平孫の言葉に、名護麻弥子と文香が神妙にうなずき、遠い目をする。
「そう。そして青いのよ……恋は」
「お、先生なんだかとっても詩的」
「伊達に歳は食ってないわよ」
「行き遅れになると、女はロマンチストになるということですね。勉強になりました」
「中村、怪我をしたとき覚えておけよ」
「弱ったところになにかする気ですか! やり方が陰湿! 女の鏡め!」
そうやって女子二人が勝手にもりあがっている一方で、平孫は恋というはじめての経験に対して、どのようなリアクションをとるべきなのか困惑し――
「……うそん」
そんな言葉が、口をついて出た。
家につくなり、平孫は服も着がえずにベッドに飛びこんだ。
仰向けに寝そべると、天井に貼られた単行本の全員応募サービスで手に入れた伊達ミキオのポスターがこちらをにらみつけていた。いつもなら対抗してメンチを切る練習をするのだが、いまの平孫の焦点はポスターにあっておらず、虚空を見すえていた。
「恋……か」
保健室の一件後、恋をしていると自覚した平孫だったが、だからといってなにかが変わるということはなかった。教室にもどってからも、あいかわらずやよいをチラ見するだけだった。というよりも、なにをしていいのかわからなかった。
好きな人ができたら――告白をして、恋人になって、最終的には結婚する。
だがその最初の段階である、告白のやり方がわからなかった。
いままでにいちども、したことも、されたこともなかったから。
平孫の恋愛にかんする知識は、中学生なみなのだった。
「……こんなときはやっぱり、アレしかねえな」
思い立った平孫は、身体をおこして畳に足をおろし、押入れの前まで移動した。
ふすまを開ける。
押入れの中は、上下二段にわかれていた。上段には改造された制服に、やたらと派手で悪趣味な私服に、いちども使ったことのない金属バットや木刀とかがおいてあった。それらは駅前の不良系の服や雑貨が売られているなじみの店で買ったものである。下段には一分の隙間なくびっしりと漫画がならべられていた。すべて喧嘩班長シリーズである。
平孫を形作るすべてが、そこにあった。
「たしか……えっと……」
下段にならんだ漫画のうちの一冊――喧嘩班長外伝シリーズのひとつである『ワイルドケンジの学園日記』を抜きとり、その場でページをめくる。
疑問にぶち当たった時は、いつもこうして漫画に答えをもとめていた。
しばらく無言で読んでいると、
「――あ、あった」
と、手をとめた。
開かれたページには、外伝の主人公であるワイルドケンジが学園の女子生徒に恋した話の冒頭がえがかれていた。読み進めていくと、ワイルドケンジは大好きな女子生徒に気持ちを伝えるためにラブレターを書くことに。彼女への想いと、昼休みに屋上でまっている旨を書きつづり、早朝に学校に登校し、ラブレターを彼女の下駄箱に入れた。そして昼休みになり、屋上にやってきた彼女に、ワイルドケンジは愛の告白をした。すると女子生徒は涙を流してうれしがり、恋人同士になった二人がだきあう絵で話はしめくくられた。
「これだ!」
思わず声をあげた。
やはりこまったときの喧嘩班長である。
本を押入れにもどし、財布を片手に外へと飛びだした。
…………数十分後。
コンビニで購入した手紙と封筒をビニール袋に入れて、平孫は部屋にもどってきた。
さっそく勉強机とむきあって、その上に散乱する物をどかし、手紙を広げる。
「あとは書くだけだな……やるぞ!」
シャーペンをにぎり、気合を入れてそれを走らせようとした。
だが、はじめまして、と書いてからまったく進まなくなった。気持ちを文章にするだけなのに、その『だけ』が異常にむずかしい。
前のめりになって、平孫は手紙とにらめっこをする。
窓から朱色の陽ざしが差しこみ、カラスの鳴き声や、犬の散歩がてら井戸端会議を開く主婦たちの声にまじって、走りまわる子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきた。
平孫は時々すわる姿勢を変えながら、一文字一文字しぼりだすように書いてはこりゃちがうと消しゴムで消す作業をくりかえす。
やがて部屋を照らす光は白熱灯に、音色は壁時計の秒針に変わっていた。
そして――
「……これでいいかぁ」
ペンをおき、平孫は背もたれに体重をあずけて天井を見あげる。脱力してぼやーっとしていると、開け放たれた窓から冷たい風が吹きこんできて、火照った頭が冷やされる。
ゆれるカーテンのむこうに、暗闇にとけこむ中村家の姿があった。
部屋の壁時計に視線をうつすと、短針は三時をさしていた。
手紙を書きはじめたのが、夕方の六時ごろだった。
ということは、九時間もの間、ずっと手紙に悪戦苦闘していたらしい。どうりで背中が痛いわけだ。こんなに集中したのは、生まれてはじめてのことかもしれない。
でも、と平孫は手紙を見おろす。
「九時間かけて、これかよ」
手紙には『話がある。きょうの昼休みに、北校舎の屋上でまってる』とだけ書いてあった。しかもなんども書き直したせいで、紙はしわくちゃになっていた。
けっきょく想いを文章化することはできなかったので、口頭で伝える方向にシフトしたのだ。差出人の名前を書いていないのは、平孫なりのサプライズだった。
「なかなか思いどおりにいかねえもんだな……」
しみじみとつぶやく。
さて、これからどうするべきか。
ねむりたいところだが、七時にはおきないといけないので睡眠時間は四時間しかない。しかもきょうにかぎっていえば、もっと早くおきて、登校しなきゃいけない。
早朝に靴箱にラブレターを入れるために。
だとすると睡眠時間は一時間から二時間と言ったところだが、身体がもつとは思えなかった。それにあやうく寝すぎて遅刻したら目も当てられない。
「――あ、そうだ」
と、名案を思いついた平孫は、さっそくそれを行動にうつす。
シャワーをあびて汗を流し、下着を着がえて、ポンパドールを組みあわせたリーゼントヘアーにととのえ、手紙を封筒に入れて、日が出ていないうちに自宅をあとにした。
寝てヤバそうだったら、寝なきゃいいじゃない。
そういう考えだった。
――それが、どのような結果をもたらすかも知らずに。