ほうれん草
「ママ、ほうれん草って苦いんだね」
教科書の68ページが好きだ。俵万智の詩で紙が独占されているから。教科書の172ページから176ページが嫌いだ。秋元康のエモーショナル・トークで街が汚されているから。
田所かれん、15歳。彼女はその年齢の少女としては違和感のない範囲で、だがしかし独特な感性を持っていた。
「かれん、どの種目に出るか決めた?」
廊下でひとり物思いにふけってると、案の定遠くから日向ましろが話しかけてきた。
「んー、100mか障害物競歩で迷ってる。」
「じゃあ障害物にしなよ!私100m走りたいし。かれんより足速いからね?普通に。」
ましろにはデリカシーが存在しない。それが彼女の良さであり最大のウィークポイントでもあった。
「分かった、障害物にするよ。」
「ヨッシャー!パン食い放題だね」
「別に嬉しくないし」
「パンツも食い放題だね?」
「それはちょっと、嬉しいかも」
「ただいま。」
かれんの家は白くて大きい。故に無機質で、空気中に不安定さを含んでいた。彼女自身もこの家の微妙な違和感に気付きつつ、だが自分自身への、そして何よりも自分の精神への影響は殆ど無かったので完全に無視していた。
「おかえりー。もう直ぐ運動会らしいね。当日は何食べたい?」
「茹でたシャウエッセンとほうれん草のバター炒めかな。」
「分かった。気合い入れとくね。」
父親は単身赴任中で、当面の間家には母とかれんの2人しか存在しなかった。そして彼女らの間に必要以上の会話は存在しなかった。歪な関係性というものが出来上がっていた。だがかれんも、同じく母親もその状態に不満は持たなかった、納得していた。それが歪というものの正体なのだが。
それから、幾許かの日が流れた。
運動会の前日、かれんは眠れなかった。不安の矛先はそれではなく自分自身だった。彼女は想像した。自分が将来何になるかを。どんな形をして、何処で何をしているのかを。それは三角形のブーメランになってマチュピチュを見下しているのかもしれないし、分厚い本で法律という鎖を断ち切っているのかもしれない。彼女は映画館に憧れていた。広大で、不特定多数の人間が同じ目的の為に2時間拘束される牢獄だと思っていた。ふと思い立ち、彼女は映画館のサイトにアクセスした。レイトショーの項目を見ると幾つかの映画が上映中だった。恋愛映画は恥ずかしかった。恥ずかしいというより嫌だった。どうせ最後は幸せになるから。戦争の映画も嫌いだった。誰かは必ず不幸せになるから。そうして選択肢は減っていき、遂には興味が無くなってしまった。彼女は古いマックブックを閉じ、とうとう眠りについた。創造を辞めないまま眠った。辞めてしまったら自分の形が壊れてしまうと思ったからである。その形は歪で美しくて弱さを含んでいる、或いは全くの正三角形なのかもしれない。彼女はまだ未熟であった。故に苦かったのである。
ましろは令嬢だった。
幼い頃から徹底的に厳しく育てられた。所謂"お嬢様"としての素質を鍛えられた。他人の感情を読み、そこに付け入り、それを利用し、自分の木偶にする悪魔的な能力を習得させられた。家の方針で、義務教育の過程中は一般的な公立学校に通うことになっていた。一般的な、平凡な、つまらない、陳腐な思想を持った人間はどの程度なのかを認識するためである。実際、彼女は殆どの生徒の感情を理解してそれに適合する事に成功していた。生徒会長の座を手に入れる事など容易であった。両親が望んだ通りに育っている、筈だった。
ましろは怯えていた。
震えていた。怖かった。理由はただ一つ。田所かれんという人間の存在であった。彼女の心臓の位置が分からなかった。彼女の行動が読めなかった。彼女の声の周波数が分からなかった。彼女の色が分からなかった。彼女の好みが分からなかった。彼女の言葉が分からなかった。彼女の、彼女の、彼女の、カノジョの、どうして、なんで、何故?、私は完璧で、彼女は欠点だらけ。何故、どうして、助けて!もう分からない、何も分からない。
彼女の形が分からなかった。
「それは私にも分からないよ」
「えっ?」
「つま先か踵、どっちから着地するのが正解かなんて私には分からないよ。」
ましろはふと我に返った。
そこは見慣れた校庭だった。空には国旗が舞い、雲はひとつとして存在しなかった。
「次は100m走です。出番の生徒はトラック付近まで集合してください。」
準備など全くしていなかった。珍しく焦っていた。
「ましろ、普段通り走れば良いよ。頑張れ。」
親友であり憎き存在、田所かれんのアドバイスを横耳に聞き流しながら深く、深く呼吸した。
狭い校庭故にトラックは曲がっていた。体育館前からスタートし校舎前でゴールするコースになっていた。ましろは体育が大の得意だった。誰よりも華麗に上手くこなしていた。
「位置について、ヨーイドン」
号令と共に力強く地面を蹴った。ましろは一番のインコースだった。コーナーの最初で1人抜いた。グングン加速した。2人目を抜いた。あと1人だ。あと1人抜けば私は…
「あっ」
コーナーの出口でましろは転んだ。盛大にコケた。学校生活で唯一の、そして最たるミスを犯した。15年の人生が全て無に帰した気がした。彼女は失望した。世の中の全てに。そして、田所かれんに。
「ましろ、映画でも観に行かね?」
虚になっている所にかれんが話しかけてきた。
「でもまだ運動会がっ」
「いいから!観に行こうぜ」
強引に連れて行かれた。
平日の昼間という事もあり、映画館は貸切状態だった。私達は変人だ。2人とも知らない人物のドキュメンタリー映画をチョイスして、小さなポップコーンを買った。
映画も中盤に差し掛かった頃だった。急にかれんがこっちを向いた。
「ねえましろ、生まれ変わったら何になりたい?」
「普通の人」
「意外だなー」
「かれんは何になりたいの?」
「細長い水筒かなあ」
「なんで」
「何処にでも行ける気がするから」
ましろはハッとした。自分は田所かれんという人物を一生掴めないんだと悟った。逆に掴まれてばかりだ。ましろに掛かっていた霧はその瞬間に晴れた。
「そういえば、弁当あるんだった。食べる?」
その日食べたほうれん草のバター炒めはもの凄く苦かった。けれども、本当に美味しかった。家で食べるどんな豪勢な料理よりも。
「ママ、ほうれん草って苦いんだね」
ましろは帰宅したらこう言うことに決めた。その足取りは軽快で、鎖は既に消えていた。彼女は自由になった。それが新しい鎖なのかもしれないが。




