新しい春
高校二年生になった。
だからといって、何かが劇的に変わるわけではない。クラスが変わって、担任が変わって、教科書が少し変わる。
去年まで一年生だった自分たちが、今日から二年生になる。それくらいの変化だ。
少なくとも、中村湊はそう思っていた。
「湊、クラス一緒じゃん」
教室に入ってすぐ、後ろから声をかけられた。振り返ると、去年から仲良くしている友人が手を上げている。
「おはよ」
「おはよ。席そこな。俺、前のほうだわ」
友人が指差した先を見る。確かに、湊の席は教室の中央より少し後ろにあった。
「知ってる。名簿見たから」
「なんだよ。相変わらずつまんねえ返しするなあ」
そう言いながらも、友人は楽しそうに笑っている。湊も軽く笑い返して、自分の席へ向かった。
去年と同じクラスだった顔がちらほらいる。逆に、ほとんど話したことのない生徒も多い。
新しいクラスになったばかりなのだから、当然といえば当然だ。
これから一年間、この教室で過ごすことになる。
まあ、悪くはなさそうだ。
そんな程度に思いながら、湊は窓の外へ目を向けた。
校庭の桜は、まだ少しだけ花を残している。風が吹くと、何枚かの花びらがひらひらと落ちていった。
――春だな。
湊はそんなことを考えた。
だからといって、特別な気分になるわけでもない。
新学期だからといって、急に何かが変わるわけではないのだ。
いつも通り学校に来て、授業を受けて、放課後になれば部活へ行く。
今年も、そんな毎日が続く。
そのくらいに考えていた。
昼休み。
湊は弁当を食べ終え、ペットボトルのお茶を飲みながら窓の外を眺めていた。
教室の中では、すでにいくつかのグループができ始めている。
机をくっつけて話している女子。廊下へ出ていく男子。スマホを見ながら笑っている生徒。
新しいクラスになってまだ数日だというのに、みんな適応するのが早い。
湊自身も、人付き合いが苦手というわけではない。
ただ、自分から積極的に輪の中心へ行くタイプでもなかった。
「湊、今日部活?」
前の席から声が飛んできた。友人が弁当箱を片付けながら、こちらを振り返っている。
「うん。行くよ」
「じゃあ、放課後ちょっとバスケしようぜ」
「お前、部活は?」
「今日は休み」
友人は何でもないことのように答えた。
普段なら放課後になると、そのまま部活へ向かう奴なので少し意外だった。
「珍しいな」
「俺だってたまには休むんだよ。毎日部活じゃ疲れるし」
「普段から休んでるように見えるけど」
「ひどくね?」
友人が笑う。
湊も思わず笑ってしまった。
「まあ、十分くらいでいいからさ。最近身体動かしてないし」
「十分ならいいけど」
「よし、決まり」
友人は満足そうに頷いた。
こういうところだけ妙に押しが強い。
まあ、断る理由もない。
湊は再び窓の外を見る。
校庭では、何人かの男子がサッカーボールを蹴っていた。
今日は天気もいい。
放課後に少し身体を動かすにはちょうどよさそうだった。
「そういやさ」
友人が急に声を落とした。
何かと思って顔を向ける。
「二年になったし、そろそろ彼女とか欲しくね?」
「……なんで?」
あまりにも唐突だったので、湊は思わず聞き返した。
「いや、普通に。高校二年だぞ?」
「だから?」
「だから彼女だよ。彼女」
友人は当たり前のように言う。
湊は少し考えた。
彼女。
言葉としてはもちろん知っている。周りにも付き合っている人間はいるし、珍しいものでもない。
けれど、自分が誰かと付き合っている姿は、いまいち想像できなかった。
「……面倒そう」
「お前、去年も同じこと言ってたな」
友人は呆れたように笑った。
「だって実際、面倒じゃない?」
「そういうこと言ってるからモテないんだよ」
「別に困ってないけど」
湊がそう答えると、友人は少しだけ考えるように湊の顔を見た。
それから、何かを思いついたように口元を緩める。
「お前なあ……。女子から話しかけられたときくらい、もうちょっと嬉しそうにしろよ」
呆れたように言われて、湊は少しだけ眉を寄せた。
「普通に嬉しいけど」
「嘘つけ」
間髪入れずに返される。
「なんで嘘なんだよ」
「だって反応薄いじゃん。女子に話しかけられても、いつも『ああ、そう』みたいな顔してるし」
そう言われて、湊は自分の顔に触れた。
別に、無愛想にしているつもりはない。
「そうかな」
「そうだよ。もうちょっと分かりやすく喜んでもいいと思うけど」
友人はそう言いながら、少しだけ身を乗り出した。
そこまで言われても、湊にはいまいちピンとこない。
女子と話せたからといって、いちいち態度に出す必要があるのだろうか。
普通に話して、普通に楽しかった。
それで十分だと思う。
「まあ、俺はこれでいいよ」
「はいはい。そういうところだよ」
「何が?」
「そういうところ」
友人はそれ以上説明する気がないらしい。
湊は少しだけ呆れながら、机の上のペットボトルを手に取った。
まあ、こいつが何を言いたいのかは何となく分かる。
恋愛に積極的になれ、ということだろう。
でも、今のところそこまで興味はない。
「まあ、そのうち分かるって」
友人が、なぜか自信満々に言った。
「何が?」
「恋愛の楽しさ」
湊は一度だけ友人の顔を見て、それから窓の外へ視線を戻した。
「そういうもん?」
「そういうもん」
迷いのない即答だった。
その自信は一体どこから来るのだろう。
湊にはさっぱり分からない。
「へえ」
「絶対興味ないだろ」
「ない」
「そこは否定しろよ!」
友人が笑いながら机を叩く。
湊もつられて笑った。
こういうくだらない会話は嫌いじゃない。
むしろ、こうして友達と話している時間は好きだった。
ただ、恋愛については別だ。
今のところ、そこまで興味がない。
――このときは、本当にそう思っていた。
放課後。
「湊、パス!」
「はい」
湊が蹴ったボールは、友人の少し手前で跳ねた。
「雑!」
「取れてるだろ」
「取れてるけど!」
「じゃあいいじゃん」
「よくねえよ」
文句を言いながらも、友人は笑っている。
最初はバスケをする予定だったはずなのだが、校庭に出る直前にサッカーへ変更になった。
こういうところも、こいつらしい。
湊は苦笑しながらボールを追いかける。
別に本気でやっているわけではない。
部活前のちょっとした運動だ。
それでも、授業が終わったあとに身体を動かすと気分がいい。
しばらくボールを蹴り合っていると、湊は腕時計を確認した。
「そろそろ行くわ」
「もう?」
友人が不満そうな顔をする。
「部活あるから」
「真面目だなあ」
「お前が休んでるだけだろ」
「今日は休みなの」
悪びれる様子もなく笑う友人を見て、湊は小さく息を吐いた。
「はいはい」
ボールを友人へ返す。
「じゃあ、また明日」
「おう。また明日」
昇降口で友人と別れる。
湊はそのまま美術室へ向かった。
廊下には、部活動へ向かう生徒がまだ多い。
運動部の掛け声が遠くから聞こえ、吹奏楽部の楽器の音も混ざっている。
放課後らしい、いつもの学校の音だ。
美術室へ近づくにつれて、その音が少しずつ小さくなる。
湊は扉を開けた。
「あ、来た」
中にいたのは顧問の先生だった。
「先生、いたんですね」
「いたよ。なんでそんなに意外そうなの?」
「いや、いると思ってなかったので」
湊がそう答えると、先生は少しだけ目を細めた。
「それ、普通に失礼じゃない?」
「そうですか?」
「そうだよ。私、一応ここの顧問なんだけど」
「知ってますよ」
先生が呆れたように笑う。
この先生は、こういう軽いやり取りが多い。
年齢が若いこともあってか、部員との距離もそれほど遠くない。もちろん先生として注意するときはしっかり注意するが、普段はこうして普通に雑談をすることも多かった。
湊としても話しやすい先生なので、必要以上に気を遣うことはない。
「まあいいや。それより、新学期どう?」
先生はそう言いながら、机の上に置いてあった絵を手に取った。
何気ない質問だった。
湊は少し考えてから答える。
「普通です」
「……相変わらずだねえ」
先生が小さく笑った。
どうやら、答え方に何か思うところがあるらしい。
「何がですか?」
「いや、湊くんって、何を聞いても『普通です』って言うじゃん」
「普通だから普通って答えてるだけですけど」
「そういうところだよ」
先生は楽しそうに笑いながら、持っていた絵を机に戻した。
湊にはいまいち意味が分からない。
新学期は新学期だ。
楽しいこともあるだろうし、面倒なこともあるだろう。
でも、まだ始まったばかりなのだから、今の段階で「最高です」とか「最悪です」とか言えるほどのことは起きていない。
だから普通。
それ以外に答えようがない。
「……先生、何を期待してたんですか?」
「もうちょっと高校生らしい答え」
「例えば?」
「『新しいクラス、めっちゃ楽しみです!』とか」
先生がわざとらしく声を高くする。
湊は思わず苦笑した。
「それ、俺が言ったら変じゃないですか?」
「ふふっ、確かに」
先生は声を上げて笑った。
湊も少しだけ口元を緩める。
こういうくだらない話をするのも、美術室に来たときのいつものことだった。
先生は一通り笑ったあと、改めて湊の絵に目を向けた。
「これ、続き?」
「はい」
「いいじゃん。結構進んだね」
「まだ途中です」
「分かってるって。完成したらまた見せてよ」
「分かりました」
湊は自分の席に座り、鞄から道具を取り出した。
鉛筆、消しゴム、定規。
いつも使っているものを机の上に並べていく。
この時間が、湊は結構好きだった。
教室にいると、どうしても周りの声が入ってくる。
誰かが話している。
誰かが笑っている。
それが嫌なわけではない。
ただ、美術室では自分のペースで過ごせる。
絵を描いている間は、余計なことを考えなくてもいい。
湊は鉛筆を手に取り、途中まで描いていた絵に向き直った。
しばらくして。
「そういえば、今日も写真部の子が来るかも」
先生が思い出したように言った。
湊は手を止めず、そのまま聞き返す。
「写真部?」
「ほら、前にも何回か来てた子。絵を見るのが好きなんだって」
「ああ」
湊はなんとなく思い出した。
放課後になると、たまに美術室へ来る女子。
先生と話したり、部員の絵を見たりしている。
顔は知っている。
名前は知らない。
「だから来ても気にしなくていいよ」
「別に気にしないですけど」
「そうだよね」
先生は笑った。
湊はまた絵に集中する。
それから少し経ったころ。
美術室の扉が開いた。
「先生、いますか?」
女子の声が聞こえる。
「いるよー」
「こんにちは」
「こんにちは。今日も来たの?」
「はい。写真、見てもらおうと思って」
どうやら、さっき先生が話していた女子らしい。
湊は鉛筆を動かしながら、ちらっとそちらを見る。
見覚えのある女子だった。
写真部の活動で美術室に来ることが何度かあったので、顔だけは知っている。
ただ、名前までは知らない。
同じ学年らしい、ということくらいしか湊は知らなかった。
それが、今年になって初めて同じクラスになった。
とはいっても、新学期が始まってまだ数日。
教室で何度か見かけた程度で、まともに話したことはない。
だから湊にとっては、まだ「見覚えのある女子」というくらいの認識だった。
女子は先生のところへ向かう。
その途中で、ふとこちらを見る。
目が合った。
「あ」
小さく声を漏らしたあと、女子は軽く手を振った。
「やほ」
「ッス…」
湊も挨拶と呼べるか怪しいラインの挨拶を返した
それだけだった。
女子はそのまま先生のところへ行った。
湊は再び絵に視線を戻す。
今年から同じクラスになったとはいえ、まだ話したことがほとんどない。
そもそも、クラスでも特に接点があるわけではない。
だから、今まで通り。
そう思っていた。
「先生、これなんですけど」
「お、写真?」
「はい。今日撮ったんです」
先生が写真を受け取る。
湊は描きながら、何となく二人の会話を聞いていた。
「これいいじゃん」
「本当ですか?」
「うん。前より好きかも」
「やった」
声が少し弾んだ。
湊はつい、もう一度そちらを見る。
女子が先生に写真を見せている
写真には、夕方の校舎が写っていた。
窓から差し込む光。
誰もいない廊下。
少し赤くなった空。
湊が今描いているものと、なんとなく似ている。
……へえ。
写真部って、こういうのを撮るんだ。
そんなことを考えていると、先生がこちらを振り返った。
「中村くん」
「はい?」
「この子、写真部の白石さん」
女子が振り返る。
「白石柚葉です」
「……中村です」
白石柚葉。
そこで初めて、名前を知った。
先生が二人を交互に見ながら続ける。
「中村くんも美術部なんだよ」
「そうなんですね」
白石さんはそう答えると、湊の机の上にある絵へ視線を向けた。
「これ、今描いてるんですか?」
「うん」
湊が答えると、白石さんは少しだけ身を屈めた。
絵をじっと見ている。
湊は何となく手を止めた。
そんなにじっくり見られるとは思っていなかった。
「なんか、写真みたいですね」
「写真?」
湊が聞き返す。
「はい。なんとなく」
白石さんは絵から顔を上げた。
「光の感じとか、写真みたいだなって」
「……そう?」
「はい」
白石さんは小さく笑った。
それから、また先生のところへ戻っていく。
湊は手元の絵を見る。
写真みたい、か。
褒められた……んだよな?
たぶん。
まあ、悪い気はしない。
湊は再び鉛筆を動かし始めた。
隣では、先生と白石さんが写真について話している。
ときどき白石さんの笑い声が聞こえてくる。
それを聞きながら、湊は絵を描き続けた。
今日初めてちゃんと話した相手。
今日初めて知った名前。
それだけだ。
白石柚葉。
今の湊にとっては、同じクラスになったばかりの写真部の女子。
それ以上でも、それ以下でもない。
――少なくとも、この日の時点では。




