7話 刻まれた真名
禍月の外套に視界を遮られた一瞬の内に、深い闇の中に落とされた。宙に浮いた体が、どこまでも落ちていく。悲鳴を上げたいのに、声も出ない。固く目を閉じて、お守りを強く握りしめた。
地面に足がついた感覚がして、ゆっくり目を開いた。
星も月もない墨を溶かしたような空の下、漆黒の城がそそり立っている。
「ようこそ、おれの牙城へ」
城を背景に、禍月は膝を折ってお辞儀をした。
雪月は唇を噛みしめ、辺りを見回す。草木一本生えていない乾いた土地が広がっている。灯りもほとんどない、闇の世界。おどろおどろしい雰囲気に、恐怖が込み上げてくる。手の中のお守りからは、温もりが感じられない。
松明が燃えている城門の前で、禍月が手招きをしている。躊躇しながらも、雪月は禍月の後について、城の中へ入って行った。
城の中も真っ暗で何も見えない。禍月の歩調に合わせて、階段脇の松明に火が灯っていく。姿は見えないが、灯の当たらない影内で、何かがうごめいている気配がする。今すぐ逃げ出したい。だが、禍月の手を取ったのは自分だ。震える足を踏みしめて、上り続けた。
最上階には、広々とした板間が広がっている。上座の畳敷きに腰かけると、外套を脱ぎ捨てた。ステッキで、畳敷きの前の板間を二度叩き、座るよう促してきた。
「怖いか」
体を震わせながら座る雪月に、深紅の瞳を細めて問いかけた。雪月は俯き、指輪に触れた。冷気もなく、締め付けてもこない。
「おまえが望んだんだろう。おれに喰われて、消滅することを」
禍月は雪月の右手を乱暴に掴み、指輪に目を落とした。禍月が紋様に触れようとした時、バチッと音がして弾かれた。禍月の指が、火傷のようにただれている。禍月が指に息を吹きかけると、すぐ元に戻った。雪月は目を見開いて、指輪を見つめた。禍月は顔をしかめ、呟いた。
「……何故だ?」
「今のは、なんだったのですか?」
「夜叉王の紋様に、弾かれたんだよ。奪われないよう、眷属に自分の紋様をつけて守ってんだ」
ましろから、瞳の紋様を見せてもらったことを思いだした。
「主が主従関係を解かない限り、眷属は守られる。だが、眷属は絶対服従することが条件だ。己の意思など関係ない。それが、理。……の、はずなんだよ」
禍月の瞳が、炎のように揺らめく。こめかみに青筋がたち、眉間には深いしわが刻まれる。のけぞる雪月の顎を掴み、牙をむき出しにした。
「夜叉王の許可なく、おれの手を取って領域に来たのに、何故まだ守られている? おまえは異質だ。おまえのせいで、夜叉王の存在が揺らいでいる。こんなこと、あってはならない!」
禍月は雪月の頬を打ち付ける。雪月は板間に転がり、赤く腫れた頬を押さえた。雪月を見下ろす禍月の瞳が、憎悪と怒りで燃えている。ステッキを持っている手を振り上げた。雪月は目を閉じて痛みを覚悟する。だが、何の衝撃も来ない。目を開けると、ステッキをひきずるようにして、部屋の外に出て行く禍月の後ろ姿が見えた。
「おまえは、おれが喰らう。夜叉王の揺らぎは、おれが食い止める」
澱んだ禍月の声が、悪寒と共に届く。怒りに任せに閉められた障子を、雪月は呆然と見つめた。
自分が消えれば、理の歪みはなくなる。夜叉王のために、禍月の手を取った。
それなのに……。
震える指先で、指輪に触れる。守られていたことを、初めて知った。
指輪は、首輪のように縛りつるためのものだと、思っていた。
けれど、夜叉王は雪月に自由を与えてくれていた。
役目を与え、屋敷を出ることを許可してくれた。
禍月の手を取った時、夜叉王は手を伸ばしてくれた。
命令に背いて屋敷を出たのに、まだ守ってくれている。
私の選択は、正しかったの?
私が消えることは、本当に夜叉王様のためになるの?
『行くな!』
最後に聞こえた夜叉王の声が、こだまする。
あの手を取っても良かったの?
あそこに居続けても、良かったの?
「夜叉王、様……」
名を呼ぶ自分の声が、暗がりの部屋に虚しく消えていく。
満月も星も隠れた夜空から、雨が降りしきる。枝垂れ桜の花びらを、容赦なく散らせていく。ましろは雨に濡れるのも構わず、子猫の姿で庭を駆けていく。縁側に飛び乗ると、室内で夜叉王と向き合っていた玄雅が、眉をひそめた。
「汚い足で上るな」
「そんなこと、どうでもいいよ! 夜叉様、ユヅキの気配がしないの。ユヅキが消えちゃったよ!」
玄雅は布を出して、ましろに投げつけた。
「知っている。あいつは、禍月様と屋敷を出て行くことを選んだのだ」
布から顔を出したましろが、瞳孔を開いた。
「何で? 禍月様と出て行って、どうするの?」
「喰われて、消滅する」
「うそ……」
ましろは水滴を滴らせながら、固まる。すぐさま夜叉王の膝に爪を立てるましろを、すかさず玄雅が引きはがした。
「夜叉様! ユヅキ、消えちゃうの? いやだよ! 禍月様から取り返してきてよ!」
暴れるましろを抑え込みながら、玄雅が一喝した。
「黙れ! あいつは奪われたんじゃない。自ら、夜叉様の前から消えることを選んだのだ」
隅の影から姿を現した影丸が、玄雅に問いかけた。
「どうして?」
玄雅は口を引き結んで、夜叉王を見た。
「夜叉様、いい機会です。あの人間は、手放しましょう」
ましろと影丸が、顔を強張らせる。夜叉王は押し黙り、両手を組み合わせた。
「そんなの駄目! 夜叉様、ユヅキは良い人間だよ。禍月様にそそのかされただけだよ。だから、お願い! ユヅキを連れ戻してよ! ユヅキに会えないなんて、寂しい……」
「おいらも、会えなくなるの、寂しい。夜叉王様、お願いします」
懇願するましろと影丸に一瞥をくれると、夜叉王の瞳が揺らめいた。
命令を拒否した時、雪月の目には力強い光が宿っていた。だが、手を伸ばした時、それは揺らいだ。自ら選んでおきながら、迷いを見せる。いかにも、人間らしい。
しかし、醜いわけではない。異質で、面白い。今手放すには、惜しい。
雨が、止んだ。空を覆っていた雲がはれ、満月の青白い光が屋敷を照らす。枝垂れ桜は満開に返り咲き、乾いた風が通り抜けていった。
夜叉王は立ち上がり、空間に闇の穴を開けた。
「あいつは、俺のだ。手放すつもりは、ない」
重低音の声は、夜叉王と共に穴の中へ吸い込まれていった。
戻ってきた禍月は、ステッキではなく、剣を手にしていた。
「夜叉王が、領域に踏み込んできた。主の許可なく入るのは、宣戦布告とみなされる。おれは、領域の主として戦わないといけない。夜叉王が傷つくのを、黙って見ているか?」
剣を雪月の喉に突きつけてきた。唾を呑み込んで、指輪を握りしめる。少しだけ、冷気を感じた。
「これを貸してやる。夜叉王が来る前に、自害しろ。おれは手を出せない。夜叉王は手放す気がない。消えたいのなら、おまえが自分でやるしかない」
剣が、雪月の前に置かれる。手足の震えが止まらない。
私は、本当に消えたいの? 消えないといけないの?
動こうとしない雪月に、禍月は声を上げた。
「夜叉王のために、消えることを望んだのは、おまえだろ! 今更、怖気づくな! やれ!」
雪月は首を横に振った。
「消えたく、ない」
禍月のこめかみに、青筋がはっきりと浮き出る。わなわな震え出し、顔が赤くなっていく。
雪月の頬を、涙が濡らす。濡れた瞳で、禍月を射抜いた。
「私は、夜叉王様の傍に、いたい!」
指輪が締め付ける感覚がしたと同時に、障子が蹴破られた。
漆黒の妖気を纏った夜叉王が、室内に踏み込み、一歩ずつ近づいてくる。禍月は剣を拾うと、夜叉王に斬りかかっていった。夜叉王が腕を振ると、その手には黒い刃の剣が現れた。禍月の剣を受け止め、薙ぎ払う。禍月の剣は部屋の外へ飛ばされた。夜叉王は、禍月の頬めがけて、拳を振り下ろした。禍月は部屋の隅へ飛ばされ、壁に体を打ち付け、動かなくなった。
呆気に取られて座り込んでいる雪月を、夜叉王は立ち上がらせ、眉を寄せた。涙で濡れている赤く腫れた頬に触れ、息をふきかける。腫れが引いていき、雪のように白い肌に戻った。
「夜叉王様、その……」
言い淀む雪月の手を取り、夜叉王は指輪に唇をつけた。指輪が光り、銀色に色を変え、紋様の上に、文字が刻まれた。文字を読もうと目を凝らしている雪月に、夜叉王は低い声で囁いた。
「俺の真名だ。俺の隣に立つことを許してやる」
雪月が焔色の瞳を見上げると、微かに目元が和らいだ。
部屋の隅で、禍月がよろよろと起き上がり、夜叉王を睨みつけた。
「人間を、真名で繋ぎとめたら、歪みはもう、止められないぞ」
夜叉王は、宙に腕を伸ばして闇の穴を開けると、禍月の方を向いて口角を上げた。
「変わらないものなど、ない。おまえも長く生きれば分かる」
雪月を抱えて穴に飛び込むと、すぐに穴は閉じた。
「……今、分かった。おれの求めた理想の王は、変わってしまったんだな」
禍月は腰を下ろして、天井に向けて腕を伸ばした。
「あの人間には、何かある。奪ってみたくなるほどの何かが。」
冷ややかな笑みを浮かべ、空を掴むように手を握りしめた。
闇の穴を抜けると、枝垂れ桜が風にそよぐ見慣れた庭に出た。
「ユヅキ!」
少女の姿のましろが、目に涙を溜めて飛びついて来た。雪月はましろを抱きとめ、柔らかく、温かい体温に安堵した。その後ろで、眉を下げた影丸が涙をぽろぽろ流している。玄雅は夜叉王に一礼すると、雪月に一瞥をくれた。顔を背けるが、雪月の指輪を凝視し、目を見張った。口を開こうとする玄雅を制して、夜叉王が雪月へ手を差し出した。
「雪月」
夜叉王の柔らかい声が、胸に沁みる。
「ここにいろ」
雪月は、指輪の文字に目を落として、頷いた。
「はい。――蒼炎様」
夜叉王の手を取ると、指輪が淡く光った。ほんのりとした温もりが、指先に伝わってくる。
屋敷が、穏やかな陽気に包まれた。
理は歪むのではなく、形を変える。
今はまだ、ほんの少しの変化にすぎない。
手を取り合った2人の間を風が通り抜け、桜の花弁を舞い上げた。
遠いどこかで誰かが静かに笑う。
その笑みの真意を、まだ誰も知らない。




