6話 揺れる心
灯篭の灯りに照らされている枝垂れ桜を眺めながら、禍月がお猪口を傾けた。夜叉王のお猪口の中に、花びらが浮かんでいる。夜叉王は少し口をつけると、お猪口を置いた。
「何しに来た?」
禍月は片眉を下げて、苦笑を浮かべた。
「何って、あんたと美味い酒を、呑み交わしに来たんだよ。ちょうど、妖力が満ちた祝い酒になってよかった」
お猪口に酒を注ぐ禍月に、夜叉王は不審の眼差しを向ける。
「人間を飼っていることを、何故知っている」
「おいおい、本気で聞いてるのか? 邪神の間じゃ、知らないやつはいない」
眉をしかめる夜叉に、禍月は赤い瞳をすっと細めた。
「供物を取らず、人間を飼うなんて。馬鹿げた特例だ。契約を司り、理を絶対視するあの鬼神様が、やることとは思えない」
「人間は醜い。欲の塊だ。だが、あいつは違う。いや、違うと思った」
夜叉王はお猪口に口をつけ、花びらごと酒を流し込んだ。
「人間に例外はいない。妖力の糧でしかないだろ。なあ」
禍月の瞳が鈍く光る。
「特例なんて、あんたらしくない。わざわざ眷属と同じ紋様を与えて、あの人間を生かしておく必要なんてないだろ」
夜叉王は禍月から視線を逸らして、枝垂れ桜に目を向けた。その目は、遠くを見るように焦点が合っていない。禍月はニヤリと笑うと、夜叉王の耳元に囁いた。
「あんたは理が邪魔して、あの人間を喰えないんだろ。おれが代わりに喰らってやるよ」
夜叉王が冷淡な眼差しを禍月に向けた。
「あれは俺の物だ。手を出すな」
禍月はわずかに眉を動かす。顔の前で両手を上げて、薄ら笑いを浮かべた。
「こわい、こわい。手放す気はなさそうだ」
すっと笑みをなくした禍月は、おぼろ月を見上げた。
「例外は、歪みを生む。いつか綻ぶ」
夜叉王は鼻で笑うと、禍月の横顔を見据えた。
「相変わらず生意気だな。千年しか生きていない若造に言われずとも、心得ている」
「おれを若造扱いするのは、あんたぐらいだ。今じゃ、おれの名を知らない人間はいないんだぜ。鬼と言えば、人間が想像するのは、あんたじゃなくて、おれの方だ」
「邪心にとりついて人を操り、いたずらに人の命を喰らう、低俗な妖怪だろ。鬼神と肩を並べられるわけがない」
「数百年の仲だっていうのに、手厳しいことで」
苦笑しながら、禍月は酒を口に運んだ。夜叉王は、お猪口の水面に浮かぶ枝垂れ桜に目を落とす。桜が揺らぎ、雪月の顔が浮かび上がる。お猪口をぐいと傾け、一息に呑みほした。
夜叉王が眉をぴくりと動かす。禍月が障子に目を向けた。夜叉王が腕を伸ばすとひとりでに開く。お膳を持ってきた雪月が、一礼をして部屋の中に入ってきた。夜叉王の前に置かれたお膳を見て、禍月が目を丸くした。
「これを、あんたが食べるのか?」
「おまえも食ってみれば分かる」
禍月は嫌そうに顔をしかめて、首を横に振った。夜叉王は、部屋を出て行こうとする雪月を呼び止めた。
「おまえもここで食え」
雪月は禍月を一瞬見て、頭を下げた。
「お邪魔になりますので、失礼致します」
そのまま障子を閉めて出て行った。禍月は瞳を光らせて、不敵に笑った。
「鬼神の命令に背くとは、躾がなってないな。罰を与えて恐怖で支配すれば、従うんじゃないか?」
「うるさい。どうするかは俺が決める」
夜叉王がお膳の料理を口に運び始める。禍月は口をへの字に曲げると、見ていられないとばかりに、部屋を出て行った。
雪月は食欲がないからと、心配そうな顔のましろを置いて、部屋に戻った。早々と布団を敷いて寝間着に着替える。お守りを両手で包み込み、目を閉じた。儀式のことが頭から離れない。灰となって消えていく少女の姿が、目の奥に焼き付いてちりちりと痛む。結局、何もできなかった。夜叉王の言うように、人を助けたい、役立ちたいと願ってばかりの自分は、強欲なのだろうか。お守りから感じる温もりに、おつねの穏やかな笑顔が浮かんでくる。
「おつねさん……」
障子を叩く音が聞こえ、お守りを着物の中にしまった。返事をする前に障子が開き、禍月が我が物顔で部屋に入ってきた。雪月は目を見開いて、体を強張らせる。室内の温度が急速に冷えていく。禍月は部屋中をくまなく見渡すと、箪笥の引き出しを次々と開けていった。雪月が止めようとするが、深紅の瞳に睨まれ、身動きがとれなくなった。
「甘やかしすぎだな」
全ての引き出しを開けて、着物を引きずり出した禍月は、眉をしかめて呟いた。立ちすくんでいる雪月の、怯えた瞳を覗き込む。しばらくそうしていると、雪月から視線を逸らした。ふと体の力が抜けて、雪月はその場にしゃがみこんだ。禍月は雪月を見下ろし、口角を上げた。
「何だ、おまえ。邪心が見当たらない。不気味だな」
禍月は雪月の前に腰を下ろし、雪月の右手を乱暴に取った。指輪の紋様に触れ、歯ぎしりをした。
「人間ごときに、夜叉王の証を渡すとは」
禍月は天を仰ぎ、深い溜め息をついた。
「おまえのせいで、変わってしまった。理を絶対視する鬼神、誇り高き闇の王が、人間に証を与え、領域に住まわせているだと? 挙句の果てに、人間の飯を作らせてそれを食うなど、信じられない!」
牙をむいて怒りを滲ませる禍月の恐ろしい形相に、雪月は悲鳴を上げそうになる。震える手で口を押さえて堪えた。禍月は立ち上がり、縁側の障子を開けて朧月を見上げた。
「見ろ。妖力は満たされたはずなのに、月が翳っている。例外を作ったせいで、歪みが生じた。今は小さな変化だが、いずれ夜叉王の首を絞めることになりかねない」
「そんな……!」
雪月は息を呑み、指輪に目を落とした。禍月は雪月の前にしゃがみ、顎に指をかけ、顔を上げさせた。
「おまえが消えれば、元に戻る」
深紅の瞳に見据えられ、雪月は目を見開いた。
「おまえを喰らえばすむ話だが、そうするとおれが夜叉王に八つ裂きにされそうだ」
禍月は朧げな月光を背に立つと、雪月の前に手を差し出した。
「おまえが選べ。夜叉王の前から消えることを望むなら、おれの手を取れ」
冷気を増した指輪が、締め付けてくる。夜叉王の冷淡な焔色の瞳が、紋様の上に浮かび上がってくる。雪月はお守りに手を添え、寸の間目を閉じた。
『例外は、つくるべきではなかったか』
夜叉王の呟きが耳の奥にこだまする。
自分は、ここにいるべきではない。
命を捧げる覚悟できたのだ。
夜叉王のためになるなら、この手を取らなければ。
雪月は目を開けると、右手を持ち上げた。指輪が鈍く光り、引き締めが強くなった。それでも雪月は手を止めず、禍月の手に右手を添えた。
その時、障子が開き、黒々とした妖気に包まれた夜叉王が現れた。
「何をしている」
禍月が雪月の手を引っ張って立ち上がらせた。夜叉王は瞳を揺らめかせ、禍月を睨みつける。
「言っとくけど、これはこいつの選択だ。あんたのために、消えることを選んだ」
夜叉王は雪月に視線を移して、低い声音で唸った。
「おまえに選ぶ権利はない。その手を離せ」
指輪が、従えと言わんばかりに締め付けてくる。雪月は拳を握って、焔色の瞳を見据えた。口を開くが、一度閉じて唇を噛みしめる。一拍間を置いてから、雪月は目に力を込めた。
「……嫌です」
夜叉王の瞳が大きく開かれる。禍月は喉の奥でくつくつと笑い、雪月の肩を抱いた。
「あんたもこいつを手放せ。指輪が外れたら、おれが消しといてやるよ」
夜叉王が手を伸ばす。禍月が外套をたなびかせ、視界を奪った。一瞬のうちに、2人は姿を消した。伸ばした手を、ゆっくりと握りしめ、拳を震わす。
空の部屋を静寂が包み込んだ。夜叉王の長く伸びた影が、揺らめく。分厚い雲が夜空を覆い、灯篭の灯りが消えていく。焔色の瞳が、光を失ったかのように翳った。




