5話 供物の儀式
遠くから悲鳴が聞こえる。夢現に布団から起き上がり、縁側の障子を開けた。甲高い声で、泣き叫んでいる声が微かにする。闇の向こうに薄明の空が広がりつつある。辺りはまだ薄暗いが、灯りがなくても歩けそうだ。雪月は庭に出て、声のする方へ走って行った。
庭の奥へ進むと、蔵がひとつあった。悲鳴は聞こえなくなったが、蔵の中から物音がしている。意を決して、扉に向かって声をかけた。
「あの、どなたか、いらっしゃるのですか?」
物音が止み、少しだけ扉が開いた。八の字に眉を下げ、切れ長の三白眼に涙を浮かべた影丸の顔が半分だけ見えた。雪月が驚いて名を呼ぶと、扉の奥に姿を消した。中から、ん-っという声にならない声がした。雪月が扉を開けると、中は蔵というよりも牢屋のようだった。鉄格子がはめられた檻には金属の錠前がかけられている。檻の中には、雪月と同年代に見える少女がいた。手足を縛られ、猿ぐつわをはめられている。雪月が檻に近づくと、暗がりから影丸が飛び出して制止した。
「待って! ここには、近づいたら、駄目だ」
影丸の気迫に押されて、雪月は一歩後退る。少女はもごもご叫びながら、必死の形相で雪月を見てきた。
「この方は、もしかして……」
影丸は肩をすぼめて、頷いた。雪月は目を見開いて少女を見つめた。指輪から冷気が伝わってきて、指が震える。
「今夜、夜叉王様が、儀式する。それまで見張るのが、おいらの役目」
雪月が愕然としていると、少女が懸命に口を動かして、猿ぐつわをとった。雪月を見上げて、不審の眼差しを向けた。
「何で、あなたがここにいるの? 顔の火傷は、どうしたのよ?」
影丸が慌てて小さくなり、檻の隙間から中に入った。中で大きくなると、無理矢理猿ぐつわを付け直そうとする。
「影丸さん、ちょっと待ってください。少し、お話ししてもいいですか?」
影丸は動きを止めて、困ったように目を泳がせた。頭を下げてお願いすると、少しならと許してくれた。少女はすかさず、雪月に声をかけた。
「ねえ、あなた何なのよ。陽凪じゃないの?」
「どうして、姉を知っているのですか?」
「姉? 妹がいるなんて言ってなかったわ」
「もしかして、遠縁の方ですか?」
雪月の問いに、少女は頷いた。
数日前、煤けた格好の親子3人が、助けを求めに来たという。少女の父は一晩だけ泊めたが、金を渡して翌日には追い出した。その日の夜、夜叉王が現れ、気づいたらここにいたと話した。
「私、どうなっちゃうの? 供物って何? 契約って何のことなの? 家に帰りたい……」
少女の目から涙が溢れ出す。次第に感情の抑制が効かなくなり、大声で泣き始めた。檻の隅にいた影丸は、すかさず猿ぐつわをはめた。
「雪月、ここまでにして。儀式の準備、しなきゃ」
檻から出てきた影丸は、雪月の背中を押して蔵の外へ追いやった。眉を下げて一言謝ると、扉を閉めた。
雪月は蔵を見上げ、唇を引き結ぶ。胸元のお守りを握りしめると、踵を返した。
夜叉王の部屋へ向かっていると、廊下の奥から冷気が漂ってきた。指輪の冷たさが増し、指を握りしめた。漆黒の直衣に身を包んだ夜叉王が、こちらに向かって歩いてきた。目が合った瞬間、背筋が凍り、息が詰まる。
「何をしている」
咎めるような声に、雪月の肩は震えた。逃げ出したい衝動に駆られる。胸元に手を当てて、夜叉王を見上げた。
「蔵にいる方は、どうなるのですか?」
夜叉王は瞳をすがめた。目を逸らしたくなるが、唇を引き結んで堪えた。
「見たのか。あの供物は、俺の糧となる」
「食べられて、しまうのですか?」
夜叉王は当然だと鼻で笑い、雪月の横を通り過ぎていく。
「夜叉王様!」
雪月は夜叉王の前に回り込んだ。
「他に、方法はないのですか? 私の食事で、妖力は戻りませんか?」
夜叉王の瞳が、焔のように揺らめく。指輪が氷のように冷え切り、指を締め付けていく。痛みに顔をしかめながらも、雪月は夜叉王の前から動こうとしなかった。
「関係ない。供物を喰らうことは、理だ」
「それなら、どうして私の願いを聞き入れて下さったのですか?」
夜叉王は、顔をしかめて舌打ちをする。雪月は体が冷え固まり、去って行く夜叉王の後ろ姿を、見送るしかなかった。
「どけ」
雪月はふらついて、壁に背中を打ちつけた。しゃがみこむ雪月を横目で見ると、夜叉王は冷淡な声で言い放った。
「余計なことは考えるな。己の役目を果たせ」
食事作りの合間を見て蔵に足を運んだが、影丸は頑なに入れてくれなかった。少女の泣き声は、もう聞こえてこなかった。
竈の炎が、夜叉王の瞳と重なる。
もうすぐあの少女は喰らわれてしまう。
できることは何もないのだろうか。
勝手口から、桜の花びらがひとひら舞い込んできた。雪月はそれを拾うと、手の中にそっと包み込んだ。
雪月は竈の火を消して、勝手口から飛び出した。外は闇に包まれている。灯篭の灯りを頼りに、蔵へ向かって走っていると、ましろと出くわした。儀式を見に行くというましろの後についていくと、見覚えのある枝垂れ桜が見えてきた。茂みに身を潜めるましろにならって、雪月もしゃがみこみ、様子を窺った。桜の下には、指輪と同じ紋様が、赤黒い線で描かれている。紋様の外側に夜叉王が立ち、傍らには玄雅が控えている。
「供物をここに」
夜叉王が低く通る声で、紋様を指差した。庭の隅から、少女を連れた影丸が現れた。白装束に身を包んだ少女は、焦点の合っていない虚ろな目をしている。影丸が少女の手を引いて、紋様の中央へ立たせた。影丸はそのまま暗がりに姿を消した。
夜叉王が少女に向かって腕を伸ばす。掌から放たれた光が、少女を包み込んだ。
雪月は咄嗟に茂みから飛び出した。ましろが雪月の腕を掴もうとするが、その手は空を切った。
「待ってください!」
雪月が夜叉王に手を伸ばすが、玄雅に遮られた。
「邪魔をするな、愚か者! 影丸、こいつを捕まえておけ」
雪月の背後に立った影丸に両腕を掴まれ、身動きがとれなくなった。
「雪月、ごめん。でも、儀式は、守らないと」
頭の上から聞こえてきた声が、震えている。雪月は声を張り上げた。
「私が、その方の分まで尽くします! 命は、取らないでください!」
夜叉王は目だけを雪月に向けた。夜叉王の放つ光が、わずかに揺らいだ。雪月が小さな笑みを浮かべた。夜叉王は眉をしかめると、冷え切った声音を響かせた。
「黙れ」
凍るような冷たさの指輪が、ぎりぎりと指を締めつけてくる。雪月は左手で指輪を握りしめ、痛みに顔を歪めた。
夜叉王は少女に目線を戻すと、掌を上に向けた。
「捧げられし、醜い人の子よ。魂は我と渾然一体となり、肉体は地に帰れ」
夜叉王の声が空気を震わす。少女を包んでいた光は一塊の球となり、宙へ浮かび上がった。少女の顔から血の気が引いていく。糸の切れた人形のように、その場に横たわった。光の球が、夜叉王の中に吸い込まれていく。少女の体は、灰となって消え去った。紋様も地面に溶けるようになくなった。
途端に、夜空に浮かぶ月が満ち、満開に咲き乱れた枝垂れ桜を照らし出した。風が吹き抜けていき、花びらが舞い散る。地面に落ちていた灰が舞い上がっていった。夜叉王は満月を見上げ、月光を浴びるように瞳を閉じた。
「ユヅキ!」
茂みからましろが飛び出し、雪月の腕にしがみついた。夜叉王は目を開け、雪月に視線を移すと、渋面を浮かべた。夜叉王が雪月の前に立ちはだかる。影丸はびくつき、雪月に謝罪の言葉を残して姿を消した。玄雅は夜叉王に一礼すると、雪月を睨みつけて立ち去った。ましろは怯えるように、雪月の後ろに隠れた。
「儀式を邪魔するなど、言語道断。おまえは、主の命に背いてばかりの駄犬だ。所有物らしく、大人しくしていろ」
指輪の締め付けが強まり、右手の人差し指の感覚がなくなっていく。冷たさも感じなくなった。同時に恐怖もなくなる。冷淡な焔色の瞳を、静かに見つめた。
「私は、犬でも、物でもありません」
夜叉王の眉間に、縦皺が刻まれる。
「反発するとは、良い度胸だ。おまえの願いを聞き入れ、父と姉の命を奪わず、ここでの役目も与えた。それに飽き足らず、供物を喰らうな、所有物扱いするなと願うのか? とんだ強欲だな」
つららのような鋭利な言葉が、雪月の胸に突き刺さる。
父と陽凪を救いたい、夜叉王のためにできることをしたい、供物となった少女を助けたい。人のために役立ちたいという思いを、夜叉王は強欲だと言う。その言葉が、心をかき乱す。お守りに手を添えると、温もりが伝わってきて、心を静めてくれた。指の感覚が少しずつ戻っていく。指輪の締め付けが、ほんの少し緩んだ。
「例外は、つくるべきではなかったか」
夜叉王は呟くと、縁側へ向かった。だが、すぐに足を止めて、門の方を凝視した。雪月の背後からましろが顔を出す。耳をピンと立てて、緊張の面持ちで同じ方を見つめた。ふいに玄雅が夜叉王の背後に現われ、顔を強張らせる。
風が止む。突然、屋敷を覆うような大きな影ができ、雪月は上を見上げた。屋敷を簡単に持ち上げられそうなほど、巨大になった影丸の姿がそこにはあった。驚愕していると、影丸は来訪者だと告げ、名を伝えた。
「禍月様が、お見えです」
雪月が庭に目を戻すと、夜叉王たちは枝垂れ桜を凝視していた。枝が揺れ、花を散らす。舞い落ちる花弁に紛れて、男が地面に降り立った。槐色の袴に黒い外套、首には茶色の襟巻という和洋折衷の出で立ちをしている。薄ら笑いを浮かべた口の端に、鋭い牙が覗き見える。深紅の瞳を細めて、ステッキの先を夜叉王に向けた。
「夜叉、久しいね」
夜叉王は迷惑そうに半目を向けた。
「呼んだ覚えはないが」
「文を送っただろ。近々、美酒を持って行くと」
夜叉王に視線を送られた玄雅は、頷いた。禍月は外套から酒瓶を出すと、放り投げた。玄雅はそれを掴むと、縁側へ持っていく。禍月は夜叉王の目の前まで歩いてくると、肩越しに顔を覗かせた。雪月を見つけると、口を笑みの形にした。だが、目は全然笑っていない。雪月は悪寒が走り、肩をびくつかせた。
「本当に人間を飼ってるんだな」
ましろが雪月の手を引いて、逃げるようにその場から立ち去った。背中にじっとりと絡みつくような視線を感じながら、雪月はましろの後をついていった。満月に薄い雲がかかり、月光が遮られる。雪月はざわつく胸を抑えながら、冷たい指輪を握りしめた。




