4話 与えられた役目
部屋の縁側から庭に出た夜叉王は、空を見上げた。星も月もない、闇夜が広がっている。庭に置かれた灯篭が、枯れた枝垂桜をぼんやりと照らしている。その周りには、生気が抜かれたような草花が倒れている。枝垂れ桜の裸の枝に触れようと、手を伸ばす。触れる寸前で、手を止めた。
「夜叉様! 入っていい?」
部屋の外から、ましろの弾むような声がした。障子を見つめる焔色の瞳が、揺らぐ。無言で頷くと、障子がひとりでに開いた。すぐさま、ましろが飛び跳ねるように部屋に入ってきた。その後ろから、お膳を持った雪月が、静かに足を踏み入れた。
「夜叉様、みてみて。雪月が、夜叉様のために作ったんだよ」
自分のことのように胸を張るましろが、お膳を指差した。野菜の煮物、魚の煮つけ、ほうれん草のお浸し、具沢山の味噌汁、こんもり盛られた白米が並んでいる。雪月はお膳を差し出すと、額を畳みにつけた。
「よろしければ、召し上がって下さい」
「おいしそうでしょ。あたしも食べたい」
夜叉王は、よだれを垂らすましろの背中を軽く押して、部屋の外を指差した。
「まだ掃除の途中だろう。役目を果たせ」
ましろは唇を尖らせ、ぶつぶつ文句を言いながらも、素直に部屋を出て行った。
静寂が訪れる。雪月は身動きひとつせず、夜叉王が動くのを待った。
「これは、何だ」
抑揚のない低い声が、静寂を破る。雪月はおそるおそる頭を上げた。
「僭越ながら、お作りさせて頂きました」
夜叉王は、眉を寄せる。雪月は目を伏せ、ひんやりと冷気を感じる指輪に触れた。
「おまえの役目ではない。勝手なことをするな」
雪月は唇を噛むと、夜叉王の顔を正面から見据えた。
「私にできることは、何でもすると言いました」
「これは、玄雅の役目だ」
「ですが、何もしないわけには、参りません。私のせいで、こんな……」
雪月は縁側から見える庭に目を向け、眉尻を下げた。
「罪滅ぼしというわけか。いかにも人間らしい」
嘲笑する夜叉王は、一瞬にして表情を失くすと、低く呟いた。
「……つまらん」
雪月にはめられた指輪が、氷のように冷めたくなっていく。少しずつ指が締め付けられる。雪月は痛みを堪えて、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。夜叉王様に元気になってもらいたい一心だったのです」
「俺のためだというのか?」
雪月が頷くと、指輪の締め付けが止まった。冷たくなった指が震えている。
「おまえの目論見は何だ?」
「目論見など、ございません。私はただ、夜叉王様のお力になりたくて」
「俺につけいって、褒美を得ようとは思わないのか?」
「滅相もございません。私の願いを、聞き入れて頂いたのです。これ以上望むことは何もありません」
夜叉王は焔色の瞳を細めて、喉の奥で笑った。
「やはり、面白い」
箸を取る音がして、雪月は、おずおずと顔を上げた。夜叉王が茶碗を片手に、白米を一口、口にした。目を丸くして見つめていると、煮物や煮つけにも次々と箸を伸ばし始めた。あっという間に味噌汁を飲み干して、全ての皿を空にした。お茶をすすりながら、雪月に怪訝な眼差しを向けた。
「何をした?」
「特別なことは、何もしておりません」
「人が作ると、これほど違うものなのか」
ひとり言のように呟くと、湯呑を置いて縁側に出ていった。雪月も後に続いて縁側から庭を覗くと、目を見開いた。
枝垂れ桜に、徐々に蕾ができる。瞬きの間に、八分咲きに花開いた。周囲の草花も、生気を取り戻したように色づいた。闇夜の空には、星が無数に瞬き、上弦の月が浮かんでいる。
「きれい」
雪月は口許に手を当てて、辺りを見渡した。縁側に腰かけた夜叉王は、雪月に隣に座るよう示した。
「人の食べる物を、うまいと感じたのは初めてだ」
「お力に、なれたでしょうか」
距離を開けて座った雪月が問いかけると、夜叉王は指を鳴らした。
庭に明かりのついた灯篭が増え、一気に華やいだ。室内も明るくなり、寒気は一切なくなった。雪月が指輪に触れると、少し冷たい程度で、冷気は感じなかった。
「たかが人間の飯で、これほどまでに妖力が回復するとは」
夜叉王は、ニヤリと笑みを浮かべると、雪月に指を突きつけた。
「おまえに、飯炊きの役目を与える」
「ありがとうございます!」
雪月は頬を紅潮させて、勢い良く頭を下げた。
枝垂れ桜の花びらが、夜叉王と雪月の間にひとひら舞い落ちた。
ましろ達にも食事を出すと、ましろは喜んで頬張り、影丸はおいしいとはにかんだ。玄雅は不機嫌極まりない顔をしながらも、皿を空にした。
ましろと一緒に後片付けを終えた雪月は、食材用の箱を覗き込んだ。箱の隅に少し野菜が残っている。明日の朝食に使えば無くなってしまいそうだ。
「ましろさん。食材が無くなったら、どうしているのですか?」
「買いに行かなきゃ」
「お店があるのですか?」
首を傾げる雪月に、ましろは当たり前だと頷いた。
「人間界に行けば、たくさんあるでしょ。買い出しもあたしの役目なの」
ましろはひらりと宙返りをすると、人間の娘に姿を変えた。猫耳も消えて、瞳の色も黒い。普通の人間にしか見えない。
「ほら、どこからどう見ても人間でしょ。そうだ。ユヅキも一緒に行く?」
「行っても、いいんでしょうか?」
「夜叉様にお願いしとく」
屋敷の外には出られない。ましてや人間界には戻れない。雪月はそう思い込んでいた。ところが、買い出しの許可は簡単に下りた。
翌朝、雪月はましろと一緒に、屋敷の外に出た。霧がかった林道を進んでいくと、巨大な鳥居が見えてきた。
「この先に、人間界があるの。行こう」
ましろが雪月の手を取って、鳥居をくぐった。その一瞬、視界が歪む。すぐ元に戻り、辺りを見回した。目の前には、木々が生い茂る古びた社が建っている。十数段の石段を下りると、日の光が目を刺した。眩しさに目を細目る雪月の手を、ましろが引いて先を歩いていく。遠くから、賑やかな人々の声が聞こえてきた。
しばらく行くと、商店が建ち並ぶ、見覚えのある通りに出た。ましろは人波をかきわけて、すいすい進んでいく。雪月は、手を離さないよう気を付けるのが精一杯だった。
ましろは慣れた様子で、店を回っていく。野菜や肉、魚などを次々買い込んで、籠に入れていった。だが、いくら詰め込んでも、籠の中はいっぱいにならない。雪月が籠を覗くと、籠の中には何も入っていなかった。それどころか、真っ暗で底が見えない。雪月の視線に気づいたましろが、にんまり笑った。
「この籠、お屋敷の食材箱に繋がってるの。便利でしょ。ゲンガが作ってくれたんだよ」
「こんなのも作れちゃうんですね」
感心している雪月の横を、使用人の格好をした女性たちが通りすぎていく。すれ違いざまに、会話の内容が耳に入ってきた。
「この間の火事、ひどかったわね」
「あの立派なお屋敷、全部燃えちゃったらしいわよ」
「あそこの人たち、遠縁の親戚を頼って、町を出ていったって」
「そうなの? あのお嬢様、もうすぐ結婚するって聞いてたんだけど」
「それがねえ、火事で顔に大火傷を負って、破談になったらしいわよ」
「美人って評判だったのに、かわいそうねえ」
雪月は目を見開いて、押し黙った。ましろが心配そうな顔で、着物の裾を引っ張ってきた。
「ユヅキ、どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
ましろに小さく微笑むと、手を繋いで次の店へ向かった。
買出しを終えて屋敷に着くと、雪月は空を見上げて首をかしげた。橙、赤、濃い青色の順に彩られた、薄明の空が広がっている。
「人間界とは、違うんですね」
ましろも空を見上げて頷いた。
「鳥居からここら辺一帯まで、夜叉様の領域なんだよ」
ましろは、黄色の瞳を細めて薄く笑った。
「ここはね、生と死の境目なの」
ましろの姿が、透けていく。雪月が瞬きをすると、猫耳のはえた少女の姿に戻っていた。透けて見えたのは気のせいだったのだろうか。
ましろは無邪気な笑みを浮かべて、跳ねるように屋敷の中へ入っていった。
「ユヅキ、おいで」
振り向いたましろが、門の前で立ち止まっている雪月に、手招きをした。指輪がきゅっと引き締まり、冷気が指先に伝わる。雪月は温もりを求めるように胸元に手を当て、門の中へ踏み出した。
ようやく屋敷の構造が分かってきた雪月は、夕刻、ひとりで夜叉王の部屋にお膳を運んだ。
雪月が声をかける前に、障子が開かれた。縁側に腰かけている夜叉王の長い銀髪が、月夜に輝いている。雪月の方を振り向き、焔色の瞳をわずかに細めた。雪月は目礼をして、夜叉王の隣にお膳を置いた。夜叉王が見上げている夜空に、雪月も目を向けた。昨夜よりも、月が丸い。月が満ちる一歩手前に見える。夜叉王は箸を手に取り、味噌汁を飲み始めた。雪月は静かに部屋の隅へ移動し、背筋を伸ばして正座した。
「おまえも食え」
箸を向けられた雪月は、首を横に振って目を伏せた。
「同じ食卓につくなど、滅相もございません」
「何故おまえは、すぐに従わない。命令だ。ここに来て、一緒に食え」
瞳が焔のように揺らめく。指輪が引き締まって、冷たさが指先まで伝わる。
夜叉王が指を鳴らすと、目の前にもうひとつお膳が現れた。雪月はおずおずとお膳の前に座る。夜叉王の無言の圧に耐えきれず、味噌汁に口をつけた。時折、夜叉王の視線を感じながら、雪月は緊張の面持ちで箸を進めていく。何を話すでもなく、静かな食事の時間が流れていった。
闇が深まる刻限。蔵の前に立つ影丸の長い影が、地面に伸びている。今は、長身の人間の大きさだ。蔵を守るように、木刀を握りしめている。ふいに足音が聞こえてきた。影丸は木刀を抱きしめ、小動物のように辺りを見回した。灯篭のぼんやりとした灯りの中から、玄雅が姿を現した。その手には、巻物を持っている。
「蔵を開けろ」
影丸が頷き、扉を開け放つ。蔵の前に、夜叉王が姿を見せた。その肩には、気を失った少女が担がれている。少女を受け取った影丸が蔵の中へ入ると、扉は静かに閉められた。
庭の灯篭の灯りが消え、屋敷は完全な闇に包まれた。




