1話 あざのある忌み子
欲を抱いた者が名を呼ぶ時、契約を司る鬼神は闇に現れる。
願いを量り、対価を定め、誓いを刻む。
――娘が17の年を迎えたその日、我に捧げよ。
理は絶対。
拒絶は許されぬ。
契約は秘される。
対価は覆らない。
そうして、ひとつの誓約が結ばれた。
少女は生まれ落ちたその瞬間から、すでに差し出されていた。
時が満ちた時、契約は明かされる。
忌み子の少女は、自分の役目を知ることになる――。
屋敷の庭におりた霜を、底の薄い草履で踏みしめながら、雪月は井戸へ向かった。北風が吹き抜け、雪月の右半分だけ長く伸ばしている前髪があおられる。右目を覆うあざが露わになり、慌てて前髪を撫でつけた。すれちがいざまに、洗濯物を抱えた使用人たちが、気味悪そうに顔をしかめていく。雪月は唇を引き結んだ。
かじかむ手を擦り合わせ、組み上げた水を桶に入れていると、分厚い丹前に身を包んだ双子の姉、陽凪が近づいてきた。雪月とまったく同じ顔だが、痩せ細った雪月とは対照的に、健康的な体格だ。
「今夜の宴会には、絶対に顔見せないでよ。私、一人娘ってことになってるから」
「……はい」
頭を下げて、桶を持ち上げる。一歩踏み出した時、陽凪が足を引っかけ、雪月は桶ごと地面に転がされた。こぼれた冷水の上に倒れ込んでしまい、水を吸い込んだ着物が肌に張り付く。震えながら立ち上がる雪月に、陽凪は軽蔑の眼差しをむけ、呟いた。
「醜い」
雪月は歯を鳴らしながら、あかぎれだらけの真っ赤な指先で、桶を掴んだ。冷ややかな目で見下ろす陽凪は、笑いをこらえるように口許に手を当てた。
「そうそう。お父様が言ってたわ。あんたの顔見るのも、今日が最後だって」
頭を殴られたかのような衝撃が走る。手に力が入らず、桶を取り落としてしまう。雪月は真っ青な唇をやっと動かして、問いかけた。
「どういう、ことですか?」
陽凪の赤い唇が、嗜虐的な笑みの形を作った。
「捨てられるんじゃない?」
血の気が引いていく。雪月は、胸元に下げているお守りを着物の上から握りしめた。
屋敷の中から陽凪を呼ぶ母の声が聞こえてくる。陽凪は機嫌良く返事をして、屋敷の中へ入っていった。
雪月はお守りを取り出して、冷え切った両手で包み込んだ。
「おつねさん」
家族から切り離された雪月を、娘同然に可愛がってくれた乳母の名を口にする。
おつねは昨年、病で命を落とした。病に倒れながらも、おつねが懸命に縫い上げてくれたこのお守りは、雪月の宝物だ。おつねが傍にいてくれるような安心感と、温もりがお守りから伝わってくる。
強い北風が吹き込み、雪月はくしゃみをひとつした。
夕刻、陽凪の縁談相手やその家族、親戚などの客が大勢集い、陽凪の誕生日と婚姻の前祝いの宴会が開かれた。酒気混じりの陽気な声が、屋敷中に響き渡る。それを遠くに聞きながら、雪月はひとり、暗闇が広がる庭に出た。
夜空を見上げ、夕飯用にとっておいた握り飯を頬張る。今夜は新月で、月が見えない。分厚い黒雲のせいで、星の瞬きすらぼやけて見える。
「誕生日、終わってしまうわ」
毎年おつねだけが祝ってくれた。今年は誰からも祝ってもらえない。それどころか、陽凪には、捨てられると言われた。
家族のために役立つよう必死に働いても、罵倒され、家族の輪から爪弾きにされてきた。父は、自分を捨てるために、17年間この屋敷に置いておいたのだろうか。
心の中に暗い影が広がっていく。雪月は心を鎮めるように、お守りを強く握りしめた。おつねがよくかけてくれた言葉が、思い出される。
「雪月様は、誰よりもご家族のために生きていらっしゃいます。いつの日か、雪月様を受け入れてくださいますよ」
家族のために役立っていれば、いつか自分も家族の輪に入れると信じてきた。捨てられるはずがない。
きっと、陽凪姉様の聞き間違いよ。からかわれただけ。
握りしめたお守りから温もりが伝わってくる。心の中の影が追い払われていく感覚がした。。
宴会の後片付けを終えると、屋敷内の灯りは全て落とされ、静寂が訪れた。
闇が深まり、虫の鳴き声も聞こえない丑三つ時。雪月は、芯から震える恐怖にも似た悪寒を覚え、目を開けた。右目のあざが、凍てつくように冷たい。前髪の上から右目を押さえて起き上がると、外から話し声が聞こえてきた。
寒さと緊張で震えながら部屋を出て、声のする縁側へ向かうと、両親と陽凪の人影が見えた。怯えるように3人がひと固まりになって、庭を凝視している。
はらはらと粉雪が舞い落ちる闇夜に、ぼんやりと滲むような青白い明かりが浮かんでいた。その中に、闇より深い黒一色の着物に身を包んだ長身の男が立っている。いや、正確には浮いている。地面に裸足の足がついていない。肩にかけている深紅の羽織は、風が吹いても裾一つ揺らがない。
「や、夜叉王……!」
父に名を呼ばれた異形の男は、焔色の瞳を父へ向けた。母と陽凪が短い悲鳴を上げる。雪月は口許に手を当て、息を呑んだ。
「覚えていたか」
闇夜を震わす重低音が静かに響く。にやりと持ち上げた口角からわずかに牙が覗き、母と陽凪は震えながら父にしがみついた。
「約束の時だ。娘を差し出せ」
母と陽凪を振り払い、慌てた様子で振り向いた父は、背後にいた雪月の腕を掴んだ。
「来い」
雪月は抵抗する間もなく、父に腕を引っ張られ、無理矢理夜叉王の前に突き出された。氷のように冷たい眼差しに射抜かれる。冷え切っている右目の周りが疼く。
夜叉王が長い人差し指を弾くように上へ向けた。雪月の体は金縛りにあったように動かなくなる。どこからか吹いた風が前髪をかきあげ、隠していたあざが晒された。
「違う。こいつは対価にならない。そっちの娘だ」
夜叉王が陽凪の方を指差すと、雪月の体は軽くなり、自由になった。
「何故だ! 条件は娘を差し出すことだったではないか。こいつも娘で間違いない」
声を張り上げる父に、母が陽凪を抱きしめて怪訝な目を向けた。
「旦那様、どういうことですか?」
父は言葉に詰まり、奥歯を噛みしめる。夜叉王は父の目の前に立つと、虫けらを見るような目で見下ろした。
「契約の条件を言え」
夜叉王の瞳が揺らめき、きらりと光る。父は目を見開いたまま、人形のように抑揚のない声を出した。
「契約のことは他言無用。他言すれば契約は破棄され、願いは泡と消える。娘が17になった時、差し出すことが契約履行の条件」
「それで全部か? おまえは都合の良いことばかり覚えているんだな」
夜叉王が指を鳴らすと、宙に巻物が現れ、ひとりでに開いた。
父は我に返ったように、瞬きをしてたじろいだ。目の前の巻物を凝視し、目を見開く。細かい文字で綴られている文章の最後に、父の名前が赤黒い文字で記されている。
「契約書には、他にも書いてある」
夜叉王は、涙目の陽凪に目をむけた。父は慌てて、雪月を指さした。
「あいつを差し出すと言っているではないか! そのために育ててきたんだ」
夜叉王は呆れ顔で溜息をつき、契約書の最後の一文を指差した。
「供物となる娘は、契約者が一番大切に育てた者でなければいけない。ここに、明記してある」
母と陽凪は、膝から崩れ落ちた。夜叉王を見つめる父は、震える指で雪月を指差した。
「あいつも、大切に育ててきた」
「噓をつくな」
「嘘ではなっ……!」
父の口が、縫い留められたように、固く閉じて開かなくなる。夜叉王は父に向かって、人差し指の長く鋭い爪を突きだした。目に突き刺す寸でのところで止め、焔が揺らぐ瞳で射抜いた。
「あざは供物の証。大切に育てれば消える。書いてあったはずだ」
父は冷や汗を流し、母と共に泣き崩れている陽凪に目を向けた。
「陽凪には、あざなどなかった」
「……生まれた時、ここに薄いあざがありました」
母は涙を拭い、陽凪の首元に手を添えた。
「何故、黙っていた!」
「すぐに消えたんです。あの忌み子のような、醜いあざなんかじゃありませんでした」
夜叉王が宙を滑るように、一歩、陽凪のもとへ近づく。陽凪は泣き叫び、幼子のように母にしがみついた。
「お母様っ! お願い、助けて!」
「大丈夫よ、陽凪。お母様が守るわ。忌み子はあなたじゃないもの。醜いあの子の方よ」
母が、憎しみのこもった眼差しで雪月を睨み付けた。
醜いあざは、忌み子の証のはずだった。だけど、夜叉王が求めているのは私じゃない。
じゃあ、私は何? 何のためにいるの?
「契約を違える気か。制裁として、契約者の命を奪う」
巻物に記されている父の名前が歪み、血が滴るように文字が溶けていく。父は、焦った口調で首を横にふった。
「や、やめろ! 契約を守らないとは、言っていないぞ」
「陽凪を差し出すというのですか!」
「私、死にたくないわ!」
言い争っている3人を尻目に、夜叉王は片手で父の首を絞め、軽々しく持ち上げた。父は、苦しそうなうめき声をあげながら、必死にもがく。
さらに夜叉王は、もう一方の手を陽凪に向けた。陽凪は見えない手に持ち上げられるように浮き上がった。母は、悲鳴を上げる陽凪に必死にしがみつく。陽凪は母に手を伸ばすが、無情にも引きはがされ、夜叉王のもとへ吸い寄せられていった。
尽くしてきた家族が、引き裂かれる。このままでは、両親も姉も失ってしまう。
雪月は胸元のお守りに手を添え、唇を噛みしめた。
「待ってください!」
雪月は夜叉王の前に踏み出す。蔑むような目を見上げると、右目の周りが今まで以上に強く脈打ち、熱が増してきた。心臓が早鐘を打つ。後退りしたくなるが、足を踏みしめて姿勢を正した。
「私の命を、捧げます。お父様とお姉様を放してください。お願いします」
深々と頭を下げる雪月を、夜叉王は嘲笑った。
「情をかけてこられなかったおまえが、こいつらのために命を差し出すだと? 笑わせるな」
父の首を絞める手に青筋が浮かぶ。喉が潰れそうな悲鳴が上がった。陽凪は宙に浮いたまま、締め付けられているように体を縮こまらせ、痛いと泣き叫んだ。雪月は咄嗟に夜叉王にしがみつき、必死に懇願した。
「お父様とお姉様をこれ以上、苦しめないでください! お願いします」
どさっと重たいものが地面に落ちる音がした。雪月が振り返ると、気を失った父と陽凪が、地面に横たわっていた。胸を撫で下ろすと、頭上から含み笑いが聞こえ、慌てて夜叉王から離れた。
「契約の対価にもならないおまえに、何ができる?」
夜叉王は鼻で笑った。雪月は震える手でお守りを握りしめた。指先から温もりが伝わってきて、震えが止まる。雪月は意を決して、声を上げた。
「命でも何でも、私の全てを差し出します。ですからどうか、お父様とお姉様の命は助けてください」
「何故、おまえがこいつらのために、そこまでする?」
雪月は、揺らぐ焔色の瞳を見つめて答えた。
「家族、だからです」
夜叉王は、眉を寄せて呟いた。
「くだらぬ」
夜叉王は一歩、距離を詰めた。あざが、逃げろというようにひりつく。それでも雪月は退かない。夜叉王の瞳を見つめ続けた。
「等価を求めぬか。おまえのような者は、初めてだ」
焔色の瞳の奥が揺らぐ。
「……面白い」
低く、喉の奥で笑う。夜叉王の口角が緩やかに上がった。
「飼うのも悪くない。おまえを俺のものにしてやる」
雪月の顔に指を突きつける。風が巻き起こり、前髪がはらりと持ち上がった。手のひらであざに触れると、指を折り畳むように動かした。
「手を出せ」
言われるがまま右手を出す。夜叉王が指を開くと、雪月の人差し指に銀の指輪が現れた。表面には、紋様が彫られている。三日月を挟むように左右から角のような形だ。夜叉王の羽織にも、同じような印が刺繍されている。
「もうあざは意味を成さない。今からはこの指輪が、俺の所有物だという証だ」
右目に触れると、先ほどまでの凍てつく冷たさが消えている。代わりに、はめられた指輪が、冷たく重い。
「おまえの願い通り、こいつらの命はとらないでおく。だが、契約は破棄された。願いは無効だ」
夜叉王が指を鳴らすと、巻物に火がつき、燃えかすとなって消え去った。途端に、屋根と庭の隅に火がついた。まるで炎が生きているかのように、少しずつ庭と屋敷を呑み込んでいく。
母は、気を失っている父と陽凪のもとへ駆け寄り、必死に起こし始めた。雪月も駆け寄ろうとするが、突然体が浮き上がり、気付いたら夜叉王の腕の中におさまっていた。目を白黒させていると、夜叉王は炎に取り囲まれた庭に掌をかざした。宙に闇より深い穴がぽっかりと開く。穴の中に進もうとする夜叉王に、雪月は慌てて問いかけた。
「あ、あの、お父様たちは、大丈夫なのですか?」
「知らん」
「命は取らないって言ったじゃないですか!」
夜叉王は、炎をも溶かしかねない冷徹な眼差しを雪月に向けた。
「俺は、な。これは、契約書の願いを焼く炎だ。これで死んでも俺のせいではない」
夜叉王は言い終わらないうちに、正面の穴に飛び込んだ。雪月が背後を振り向くと、屋敷から飛び出してきた使用人たちが、母と一緒に父と陽凪を屋敷の外に連れ出そうとしていた。全員の無事を見届ける間もなく、穴は閉じてしまった。
暗闇の中、夜叉王が放つ光が際立つ。前方が一切見えないが、夜叉王は迷いなく歩を進めていく。
「どこに、行くのですか?」
硬い表情で雪月が問いかけると、夜叉王は無愛想に答えた。
「俺の屋敷だ」
指輪がきゅっと引き締まる。
もう、戻れない。
雪月は小さく息を吸いこみ、お守りを握りしめた。




