第9話 同じ音を聴いた理由
あの一言が、耳の奥に残ったままだった。
――音が苦しそうでした。
奏は、朝の冷たい空気を吸い込み、吐いた。白い息が、すぐに消える。
もらった防寒具はある。けれど腹の足しにはならないし、宿の代わりにもならない。
昨日、弾いた。
生きるために。
今日も――たぶん、弾くことになる。
そう思っただけで、胸が少しだけ重くなる。
それでも足は、境界の街の通りを覚えていた。
演劇小屋のある通り。
雑音の中で、音が消えていく場所。
昨日のローブの人物が言ったことを、頭の中で何度も反芻する。
「苦しそう」
意味が分からないわけじゃない。
むしろ、心当たりがあるから腹が立つ。
音を抑えていた。
濁らせないように。
――いや、違う。
濁るのが怖かった。
奏は眉間に皺を寄せる。
自分の中からそんな答えが出てくるのが、気に食わない。
演劇小屋の角を曲がったところで、足を止めた。
昨日と同じ場所に、古いヴァイオリンがある。
誰のものかも分からないまま、そこに置かれている。
手を伸ばしかけて、止めた。
また来たのか。
また、ここで。
また、音で生き延びるのか。
奏は一度、拳を握りしめてから、ゆっくり息を吐いた。
――やるしかない。
弓を構え、短い旋律を鳴らす。
大げさに響かせない。
目立たないように、静かに。
それでも、音は嘘をつかない。
たった一音で、自分の調子が分かってしまう。
少し、硬い。
指先が冷えているのもある。
けれどそれだけじゃない。
途中で、胸が詰まる。
まるで、音を出すたびに「正しくあれ」と押し返されるみたいに。
奏は、わずかに呼吸を整えた。
その時だった。
視線が――刺さる。
昨日よりはっきりと感じた。
弓を止めないまま、奏は視線だけを巡らせる。
いた。
深いフードを被ったローブの人物。
今日も顔は見えない。
けれど昨日より近くはない。少し離れて、通りの陰に立っている。
足を止めない人々の中で、その人物だけが動かない。
奏は、胸の奥がざわつくのを堪えながら、最後まで弾いた。
終わりの音を落とす。
喧騒が戻る。
拍手はない。
硬貨の音もない。
奏が弓を下ろしたところで、ローブの人物は一歩も近づかなかった。
代わりに、静かな声が飛んできた。
「……昨日より、少し楽そうです」
褒め言葉じゃない。
持ち上げてもいない。
それが余計に腹立たしい。
奏はヴァイオリンを抱えたまま、視線を向けた。
「……何が目的だ」
ローブの人物は、首を振らない。頷きもしない。
フードの影のまま、淡々と答える。
「目的はありません」
「じゃあ、なんで来る」
短い沈黙。
「……音が、気になっただけです」
気になった。
それはつまり、聴いているということだ。
奏は口の端を歪めた。
「聴くなら金を払え。ここは演奏会場じゃない」
ローブの人物は、すぐに答えない。
ただ一度だけ、ほんの少し首を傾けた気配がした。
「……すみません。けれど、あなたは“売るため”に鳴らしていない」
奏の指先が、微かに震えた。
ふざけるな。
勝手に決めつけるな。
そう言おうとして――喉が詰まる。
売るためじゃない。
でも、生きるためだ。
どちらも、自分の中では同じくらい惨めだった。
「……帰れ」
声が低くなる。
ローブの人物は、追及しなかった。
ただ一言だけ落とす。
「分かりました」
そして、静かに踵を返す。
奏は、背中を見送ってから、ようやく息を吐いた。
――あいつは何なんだ。
あの一言一言が、音のように残る。
その時、奏は通りの向こうに、昨日と同じ違和感を見た。
人の流れとは違う動き。
一瞬だけ壁際に寄って、また人混みに溶ける影。
まるで、誰かを守るような――。
奏が目を凝らした瞬間には、もう見えなくなっていた。
「……王族か?」
思わず呟いてから、自分で笑いそうになった。
馬鹿げている。
ここは帝国の外れだ。国境近くの放置された街だ。
そんな場所に――。
けれど、胸の奥のざわつきは消えなかった。
ローブのフードの奥で、彼女は息を整えていた。
昨日より“楽そう”に聞こえたのは本当だ。
けれど、安心できるほどではない。
音が濁っていない。
それなのに、音が苦しい。
矛盾しているのに、耳は嘘をつかない。
彼女は、自分の耳を恨んだことがある。
嫌でも拾ってしまう。嫌でも分かってしまう。
息が詰まる瞬間。
弓がわずかに躊躇う瞬間。
音が、傷つく瞬間。
――放っておけない。
それが、昨日から続く自分の結論だった。
通りを曲がり、路地へ入る。
その時、視界の端で“影”が動いた。
人の流れとは違う動きで、壁際に寄り、また溶けるように消える。
いつもの合図。
いつもの距離。
彼女はローブを外さないまま、路地の奥へ進んだ。
背後から、気配が一つ増える。
足音が静かすぎて、普通の人間なら気づけない。
それでも彼女には分かる。
「近づきすぎです」
低い声。落ち着いていて、温度がない。
けれど、それは冷たさではなく――訓練の結果だ。
彼女は振り返らない。
「問題ないわ」
「……“問題”は、起きてからでは遅い」
彼女は小さく息を吐く。
その声が、わずかに柔らかくなる。
「あなたがいるでしょう」
背後の女性は、すぐには答えなかった。
一拍置いてから、静かに言う。
「……でしたら、次は私も近くにいます」
言い方は事務的なのに、そこには確かな意思があった。
彼女は、ローブの袖の中で指先を握る。
守られている。
守られているからこそ、あの音に近づける。
――あの人は、音を“出している”人じゃない。
――音に、押し潰されそうな人だ。
それでも音を鳴らす。
生きるために。
それが、痛いほど伝わってくる。
彼女は歩きながら、ふと口を開いた。
「……昨日、あなたは気づいた?」
背後の女性は即答した。
「音のことですか」
「ええ」
「分かりません。私は“危険”しか見ていません」
その答えに、彼女はなぜか少し安心した。
同時に、胸の奥がまたざわついた。
自分だけが、あの音を拾ってしまっている。
自分だけが、放っておけない。
路地の出口で、彼女は足を止める。
ローブの影の中で、小さく呟いた。
「……やっぱり、放っておけない」
背後の女性が、何か言いかけて止めた気配がした。
そして、ただ一言だけ落とす。
「……承知しました」
その声は冷静だった。
いつも通りに。
けれど彼女は知っている。
その冷静さが、すべて自分のためにあるのだと。




