第8話 音を聴く人
昨日の硬いパンは、朝になっても腹の底で重たかった。
奏は息を吐く。白い吐息が、すぐに風に千切られて消える。
もらった防寒具はある。だが、それは「生き延びる」ための最低限でしかない。
街は今日も賑やかだった。
荷車の音、呼び込みの声、笑い声。――音は溢れているのに、どれも心に触れない。
奏は歩く。
行き先を決めているわけではない。
ただ、昨日と同じ方向へ足が向いてしまう。
演劇小屋のある通り。
そこで鳴っていた弦の音。
雑音として、誰にも拾われない旋律。
――ここなら、弾ける。
そう思った自分に、奏は内心で舌打ちした。
「……結局、またか」
音楽から逃げたかった。
逃げられない。
立ち止まる。
視線を感じた気がして、反射的に周囲を見回す。
人は多い。
誰も自分を見ていない。誰も気にしていない。
――そうだ。ここでは、誰も期待しない。
奏は、人通りの少ない壁際に立ち、古いヴァイオリンを手に取った。
昨日と同じ場所。昨日と同じように。
弓を構える。深く息を吸う。
期待しない。
認められなくていい。
今日を越えるために。
弓を引く。
音は静かだった。
主張せず、飾らず、街の雑音に溶けるように。
通り過ぎる人々は足を止めない。
演劇小屋からは呼び込みの声が響き、笑い声が重なる。
それでも、奏は弾き続けた。
曲は短い。旋律も簡素だ。
だが、音だけは濁らせない。濁らせないように――抑える。
抑えながら、弾く。
その途中で、また視線を感じた。
奏は弓を止めないまま、視線だけを巡らせる。
群衆の中に――一人、違う気配があった。
深いフードを被ったローブ姿。
顔は影に落ち、目元も見えない。
体格も分からない。性別も分からない。
ただ、その人物だけが、動かなかった。
誰もが音を「通り過ぎる」のに、
そのローブの人物だけが、最初から最後までそこにいる。
視線が逸れない。
奏は、胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。
――聴いている。
そんなはずはない。
ここで音楽を聴く者などいない。昨日もそうだった。
それでも。
最後の音を鳴らし終え、弓を下ろした瞬間、
街の喧騒が戻ってくる。
拍手はない。
声もない。
硬貨が落ちる音もしない。
奏はヴァイオリンを抱えたまま、しばらく立ち尽くした。
昨日と同じ。
何も変わらない。
そう思いながら、ふと視線を上げる。
ローブの人物は、まだそこにいた。
近づいてはこない。
ただ、距離を保ったまま、こちらを見ている。
奏は、無意識に肩を強張らせた。
正体の分からない相手。
フードで顔を隠す人間など、ろくなものではない。
――また、測られる。
そう思った瞬間、ローブの人物が一歩だけ近づいた。
奏よりも頭一つ分低いその距離感が、逆に妙な緊張を生む。
そして、静かに声を落とす。
「……途中で、音が苦しそうでした」
奏は固まった。
褒め言葉ではない。
貶す言葉でもない。
ただ――聴いていなければ、出ない言葉。
奏の喉が、微かに鳴る。
「……何のつもりだ」
声が冷たくなるのが自分でも分かった。
「客なら、金を払え。評価なら他を当たれ」
ローブの人物は、首を振らない。
頷きもしない。
フードの影の中から、静かな声だけが返ってきた。
「評価じゃありません」
奏は眉を寄せる。
「じゃあ何だ」
少しだけ間があった。
相手は、言葉を選んでいるように見えた。
それでもフードは外れない。顔も見せない。
「……そう聞こえたから」
それだけ。
それ以上、押してこない。
謝りもしない。言い訳もしない。
奏は、余計に苛立った。
「勝手に人の音を――」
言いかけて、止まる。
“人の音”。
そんな言い方を、自分がしている。
奏は、口の中が苦くなるのを感じた。
ローブの人物は、それ以上何も言わなかった。
しばらくの沈黙のあと、静かに一歩下がる。
「……失礼しました」
その声には、嘲りも同情もない。
ただ、淡々としている。
そして、そのまま背を向けた。
去り際の足取りは軽い。
迷いがない。
奏は思わず、その背中を目で追った。
ローブの裾が揺れ、フードの影が一瞬だけ揺らぐ。
だが、顔は最後まで見えない。
「……待て」
声が出てから、自分でも驚いた。
ローブの人物が立ち止まる。
奏は、言葉に詰まった。
何を聞くつもりだったのか、自分でも分からない。
名前か。
理由か。
それとも――ただ、確かめたかったのか。
けれど、喉の奥が冷えたまま動かない。
ローブの人物は、振り返らなかった。
少しだけ首を傾ける気配を見せたあと、歩き出す。
人混みに紛れ、あっという間に見えなくなる。
奏は、その場に立ち尽くした。
胸の奥に、焼けたような違和感が残っている。
褒められたわけではない。
救われたわけでもない。
何も変わっていないはずなのに。
――あの一言だけが、刺さって抜けない。
「音が苦しそうでした」
奏は、無意識に自分の指先を見た。
弓を握っていた手が、わずかに震えている。
周囲の喧騒が遠い。
自分の鼓動だけが、やけにはっきり聞こえる。
その時だった。
通りの向こう、ローブの人物が消えた方向で、
人の流れとは違う動きが見えた。
一瞬だけ、壁際に寄り、
また人混みに溶ける影。
まるで、誰かを守るような――。
奏は目を凝らしたが、すぐに見失った。
風が吹く。
演劇小屋から笑い声が上がる。
境界の街は、今日も何も変わらない。
変わらないはずなのに。
奏の中だけに、ひとつ、音が残っていた。




