第41話 ひび
小部屋。
机の上に布包みが置かれていた。
革紐は一回だけ回され、結び目は真ん中にある。
リアナは椅子の前で立っていた。
膝の上で指を握り、ゆっくり開く。
奏は立ったまま机へ半歩近づいた。
護衛の女性が横に残る。
視線はリアナの指と結び目に向けられている。
奏は小さく言った。
「手は膝に置いてくれ」
「机には出さないで」
「はい」
リアナは両手を膝に押し付けた。
指先が止まる。
奏は布包みの端を見る。
布の端から木の角が少し出ている。
「壊れたのは、いつ?」
「三日前です」
「落とした?」
「落としていません」
「水はかかった?」
「かかっていません」
「火の近くに置いた?」
「置いていません」
「最後に持ったのは?」
「昨夜、私です」
リアナは言い切って、口を閉じた。
奏は結び目を見た。
指で触れた跡が、紐の上に残っている。
「結び目は触らないで」
「布の端だけ、二本でつまんでくれ」
リアナは右手の人差し指と中指だけを伸ばす。
布の端をつまみ、結び目の手前で止めた。
護衛の女性の靴先が少し動き、すぐ止まる。
奏は言った。
「そのままでいい」
「めくるのは一回だけで頼む」
リアナは布を少し持ち上げた。
机に影が落ちる。
木の面が増える。
奏は首を傾けない。
目だけ動かす。
木の表面に細い線が一本見えた。
木目ではない。
線の先が少し曲がっている。
奏は言った。
「そこで止めて」
リアナの指が止まる。
奏は右手を上げた。
指の腹だけを出し、線の近くへ寄せる。
護衛の女性の視線が奏の指へ移る。
奏は線に一回だけ触れた。
そしてすぐに指を離す。
奏は言った。
「板にひびが入ってる」
「線はここで止まってる」
リアナの息が一度だけ漏れた。
「直りますか?」
奏はすぐ答えない。
机の影を見て、息を一回吐いた。
「直る」
「今日は直せないけど」
リアナはうなずいた。
膝の上で指が一度握られ、ゆっくり開く。
「はい」
奏は布包みの結び目を見る。
紐の位置を確認して言った。
「運ぶ時に、板が動くと線が伸びる」
「次は木箱で持って来て」
「布は上からかぶせて、紐は一回だけ回してくれ」
「結び目は真ん中に置いて」
リアナは言い返さない。
うなずきが一回。
「分かりました」
「次は箱を用意します」
扉の外で靴音が止まった。
ノックはない。
「入るぞ」
扉が少し開く。
ガイウスが顔だけ出した。
肩で扉を押さえたまま言う。
「奏、少しだけ付き合え」
「詰所だ」
奏は机から離れた。
一歩。
護衛の女性が先に出る。
奏はその後ろへ付いた。
廊下。
石の床に靴音が一定の間隔で続く。
曲がり角で止まり、ガイウスが先に手を出した。
「ここだ」
裏門詰所の小部屋。
机が一つ。
椅子が二つ。
壁際に兵士が一人立っている。
男が椅子に座らされていた。
両腕は机の縁へ押さえられている。
指先が机を掻く。
爪が木を擦る音が小さく続く。
奏は入口で止まった。
護衛の女性が奏の斜め前に立つ。
ガイウスが言った。
「さっきの続きだ」
「誰に言われた?」
男は唇を舐めた。
舌の音が乾いて聞こえる。
「知らねえ」
「俺は——」
ガイウスは声を荒げずに冷静に言った。
「知らないなら終わりだ」
「約束した場所を言え」
男の喉が鳴った。
唾を飲む音が一回。
「……通りだ」
「通りのどこだ?」
「屋台の前か?」
「それとも井戸の横か?」
男の肩が小さく揺れた。
椅子がきしむ。
「井戸だ」
「いつだ?」
「昨日か?」
「今朝か?」
男の目が閉じて、すぐ開く。
「昨日だ」
「昨日のいつだ?」
「昼か?」
「夕方か?」
「夜か?」
男の口が歪む。
「夜だ」
ガイウスが言った。
「何と言えと言われた?」
「言葉をそのまま言え」
男は息を吸って吐いた。
「『王宮の中のヤツに言え』」
「『弁償しろ』も言えって——」
ガイウスが言う。
「誰が言った?」
「背は高いか?」
「声は低いか?」
「服の色は?」
男の目が逃げる。
床に落ちる。
「暗くて見えなかったんだ」
ガイウスが返す。
「暗いなら、井戸には寄らないだろ」
「足を滑らせて落ちるぞ」
男の口が閉じる。
歯が見えた。
護衛の女性が一歩だけ動いた。
扉の近くへ立ち、通り道を狭くする。
ガイウスが言う。
「金は?」
「いくらだ」
男の指が机を掻いた。
爪が木に引っかかる。
「……銀貨、二枚」
「もう受け取ったか?」
「まだだ」
「言われただけだ」
ガイウスが言った。
「呼び方は?」
「名前じゃなくていい」
男が黙る。
肩が落ちる。
息が一つ、机へ落ちる。
「……『川沿いの男』って言ってた」
「それだけだ」
ガイウスが兵士へ言った。
「水を一杯」
「このまま押さえろ」
兵士がうなずく。
ガイウスが奏へ言った。
「戻って大丈夫だ」
「すまんな」
奏はうなずいた。
廊下へ出る。
護衛の女性が先。
ガイウスが半歩後ろ。
小部屋へ戻ると、リアナは同じ場所に立っていた。
膝の上の指は開いている。
布包みは机の端のまま。
奏は机へ戻る。
護衛の女性も横に残る。
奏は言った。
「今日は、ひびの場所だけ見た」
「直すのは次だ」
リアナの喉が動いた。
「次は、いつ来ればいいですか?」
奏はすぐ答えない。
扉の方を見る。
ガイウスの靴音が止まった。
ガイウスが言った。
「また殿下に話を通してからだ」
リアナはうなずいた。
奏は言った。
「今はこれ以上触らないで」
「このまま持って帰ってくれ」
「布も紐も、今のままでいい」
「はい」
リアナは布包みを抱え直した。
結び目へ指が寄りそうになり、途中で止めた。
指が膝の前へ戻る。
護衛の女性の視線が、その指を追って止まる。
扉が少し開く。
柔らかい声が聞こえてきた。
「奏が好きなように決めていい」
「でも、無理はしないで」
護衛の女性の肩が一度上がって下がる。
奏は短く返した。
「分かりました」
ガイウスが扉の外で言った。
「裏門の外に、同じ口上の男がもう一人いました」
「捕まえた男は銀貨二枚と言っていました」
廊下の気配が動く。
誰かの靴が一度だけ止まる。
奏は机の上を見た。
布包みの影。
細い線。
音は出していない。
それでも噂が広まっている。
「直せるらしい」と言う声が日に日に増えている。




