第40話 噂
裏門の外。
門の前には二人の兵が立っていた。
槍を地面に立て、肩幅くらいの間隔で並んでいる。
奏は門の内側にいた。
木の扉は閉じていた。
隙間から外の石畳が一本だけ見える。
隣に、護衛の女性が立っていた。
靴先を門へ向けている。
視線は門の隙間から外へ向いていた。
石畳を小走りの足音が近づく。
少女が止まった。
昨日の裏門の外で見た顔だった。
少女は両腕に布包みを抱えていた。
布の端から木の板が少しのぞいている。
長さは腕一本分。
革紐で二回、固く結んである。
少女は兵士の正面で足を揃えた。
手は布包みを抱えたまま、頭だけ下げる。
「おはようございます」
「私はリアナと申します」
兵士の一人が視線を落とし、布包みの端を見る。
「用件は?」
「王宮へ入る許可は出ていないぞ」
「昨日、実務の方から言われました」
「門の兵士の方に、先に話を通せと」
兵士の片方が、短く鼻で息を出す。
笑いではない。
息の抜き方だけが少し変わった。
「その実務の方の名前を」
「ガイウス様です」
兵士が隣を見る。
隣の兵が小さくうなずく。
合図だけで、片方が門の内側へ向き直った。
「少し待て、呼んでくる」
リアナは立ったまま待った。
布包みを抱える腕が少し震える。
指が布を握り直し、結び目の横を押さえる。
奏は隙間から見える外の石畳を見た。
護衛の女性が、奏の横顔を一度だけ見た。
目が合う前に、視線が門へ戻る。
靴音が戻ってきた。
門の扉の前で止まる足音。
低い男の声。
「リアナだな」
門の隙間の向こうで、リアナの肩が上がった。
息を吸って、吐く。
「はい」
門の内側で、ガイウスが一度だけ咳払いをした。
「門番。扉は開けないでいい」
「用件だけ聞く」
ガイウスの声が続く。
「リアナ。何を持ってきた?」
「壊れた楽器です」
「種類は?」
「ヴァイオリンです」
リアナは布包みを少しだけ持ち上げた。
結び目が胸の前へ来る。
「家にあった古いものです」
「直るかは分かりません」
「見てもらえるなら、見てほしいです」
ガイウスが言った。
「紙は見られないぞ?」
「分かっています」
リアナは即答した。
言い終わりのあと、息を一回だけ整える。
「紙はいりません」
「直すところだけでも、見させてください」
門の内側が静かになる。
ガイウスが返事をすぐしない。
奏は護衛の女性の手を見る。
左手が腰のベルトに触れたまま止まっている。
指の間隔が狭い。
ガイウスが言った。
「条件がある」
「はい」
「殿下に確認する。その上で、条件はこれだ」
「入るのはお前一人」
「王宮内で見たことは他言無用」
「紙などにメモを書かせることはできない。いいな?」
リアナの喉が一度動いた。
うなずく。
「はい」
「守ります」
ガイウスが兵士へ向けて言う。
「裏門の外。石畳の右端」
「そこへ立たせろ」
「他の者が寄ったらどけさせろ」
「一緒に並ばせるな」
兵士が槍の先をほんの少し動かし、外の右側を指した。
槍先が石を擦る音が一回。
リアナは指示された右端へ歩いた。
三歩。
布包みを抱えたまま止まる。
門から三歩分、距離ができる。
そこへ、別の足音が二つ来た。
男の靴。
門の外の左側から、若い職人風の男が現れた。
肩に木箱。
蓋の留め金が光る。
リアナは視線を動かさなかった。
目は門へ戻したままだ。
男が門へ近づく。
兵が槍を横に倒し、通路を塞ぐ。
「止まれ」
「工房の者だ。昨日も来たはずだ」
「今日は楽器を持ってきた」
男は木箱を少し持ち上げた。
蓋が鳴らない。
腕の筋だけが動く。
兵は言う。
「お前本当に工房の関係者か?」
「工房からは何も連絡はきていない」
「話を通してから来い」
男の眉が動く。
口が開く。
「昨日の年寄りが、ここで直してもらったと言ったのを聞いた」
「順番があるなら、俺も——」
槍が一歩、前へ出る。
男の靴が石を擦って止まる。
リアナが小さく息を吸った。
布包みを抱える腕が上にずれそうになり、肘で押し戻す。
門の内側で、ガイウスが短く言った。
「お前は工房の者ではないな?」
「嘘を付くな」
「今日の枠は取っていないぞ」
男が木箱を抱え直す。
留め金が指に当たり、金属が一回鳴った。
「俺は工房の実務じゃない」
「でも——」
「帰れ。さもないと逮捕するぞ」
ガイウスの声は短い。
男は一瞬だけ門を見上げた。
次に、リアナを見る。
視線が布包みに落ちる。
「ちっ、そいつが先か」
「お前、運がいいな」
リアナは返事をしない。
目線を門へ固定したまま、足先の向きを変えない。
男は木箱を肩に戻し、来た方向へ歩き出した。
靴音が遠ざかる。
兵が槍を立て直す。
石に槍先が当たる音が一回。
ガイウスがリアナへ言った。
「まだ布をほどくな」
「中身は見せるな」
「はい」
リアナの返事は昨日より短い。
門の内側で、護衛の女性が一歩だけ動いた。
奏の前へ出る形。
門の隙間と奏の間に体が入る。
奏は動かなかった。
昨日と同じく外へ出ない。
外へ出る理由がない。
ガイウスが言った。
「リアナ。中身は誰のものだ?」
「父のものです」
「最後に触ったのは?」
「昨夜、私が触りました」
奏の胸の前で、空気が一度だけ詰まった。
護衛の女性の呼吸が、短く一回。
奏は指先を見た。
自分の右手。
弦を弾く動きはしない。
門の内側の石畳に、別の靴音が近づいた。
走りではないが速い歩きだ。
隙間の向こうへ、影が一つ映り込む。
細い靴。
一拍遅れて、柔らかい声が聞こえた。
「外が騒がしいのね」
奏は視線を横へ動かさない。
護衛の女性の肩が少し上がった。
次に、肩が落ちる。
ガイウスが言った。
「殿下。裏門の外に一人」
「壊れた楽器を持っています」
「年配の職人が言ってた少女です」
返事は短い。
「そう」
その声が、少しだけ詰まる。
喉で止めた音が一回。
「中へ入れてもいい」
「でも、奏には無理をさせないで」
護衛の女性が、返事をしないまま視線を門へ戻す。
奏の横顔を見ない。
ガイウスが言った。
「奏。今日は無理に触らないでいい」
「聞き取りだけする」
奏はうなずいた。
首の角度だけで返す。
門の隙間の向こうで、リアナが背筋を伸ばす。
布包みの結び目を見て、指を止める。
その時。
別の足音が、戻ってきた。
さっきの男とは違う。
踵が重い。
歩幅が広い。
門の左側へ、男が一人入った。
布袋を肩に担いでいる。
袋の底から木の角が突き出している。
男は門の前で止まり、口を開いた。
「王宮の中のヤツに言え」
「昨日、直したはずのヴァイオリンが、今朝は余計に曲がっていた」
槍が横に倒れる。
兵が一歩前へ出る。
「止まれ」
男は槍を見ない。
視線を門の隙間へ刺した。
「中で何をした」
「触って壊したのか」
「弁償しろ」
リアナの喉が鳴った。
布包みを抱える腕が固くなる。
門の内側で、ガイウスが言う。
「名を名乗れ」
「名は関係ない」
「俺は見た」
「工房の年寄りが、あれは直ったと言った」
「だが今朝は——」
ガイウスは返さない。
扉の隙間の向こうで男の息だけが荒い。
「見たと言った」
「どこで見た」
「工房の前だ」
「箱を開けた瞬間に見えた」
「駒が——」
ガイウスが言う。
「工房の前で箱を開けた?」
「誰の箱だ」
「工房の箱だ」
「俺は少し見ただけだ」
「工房の箱なら、留め金はいくつだ?」
「答えろ」
男が黙る。
舌打ちが一回鳴った。
「そんなの覚えてねえ」
ガイウスは声を落とした。
「見たなら答えられる」
「お前は見ていない」
扉の隙間の向こうで、男が一歩動いた。
靴が石を擦る音がする。
ガイウスが続ける。
「工房の年配職人の名は?」
「昨日来たのは誰だ」
「知らねえ」
「年寄りだろ」
ガイウスが言う。
「嘘だ」
ガイウスは門番へ短く命じた。
「押さえろ」
「布袋ごと取れ」
「腕を固めろ。口はそのままでいい」
槍の柄が鳴った。
外で男の声が跳ねる。
「何だよ!」
「離せ!」
兵士二人が男の腕を固めた。
男の肩が壁へ押される。
布袋が引かれた。
布が擦れる音が続く。
男が袋へ手を伸ばす。
兵の手が先に腕を押し返す。
ガイウスが言う。
「そのまま中へ」
「裏門の詰所まで連れて行け」
男の息が荒く鳴る。
言葉は切れ切れになる。
「俺は——」
「関係ねえ——」
兵が男の背を押す。
靴音が遠ざかっていく。
リアナは門の右端で動かなかった。
布包みを抱えたまま、目だけが兵の背を追う。
まばたきが一回遅れる。
門の内側で、護衛の女性が奏の前へ半歩出た。
奏は外へ出ない。
視線を門の隙間へ置いたまま止める。
ガイウスがリアナへ言った。
「今のが片付いたら殿下に話を通す」
「それまで待て」
「はい」
リアナの返事は短かった。
しばらくして、門の内側の足音が戻ってくる。
ガイウスが一度だけ扉の近くで止まる。
「奏。立ち会え」
「詰所で話を聞く」
「お前は男に話しかけなくていい」
奏はうなずいた。
護衛の女性が先に歩き出す。
廊下の石が靴底に押される音が一定の間隔で続く。
奏もその後ろへ付く。
詰所の小部屋。
木の机が一つ。
椅子が二つ。
壁際に兵が一人立つ。
男は椅子に座らされていた。
手首は兵の手で机の縁へ押さえられている。
奏は部屋の入口で止まった。
護衛の女性は奏の斜め前に立つ。
ガイウスが男へ言う。
「もう一度聞く」
「工房の箱の留め金はいくつだ?」
男が目を逸らす。
口が開く。
「……知らねえ」
ガイウスが言う。
「お前は見ていないな」
「工房では今朝も箱を開けていないはずだ」
「お前は噂を聞いて来たな?」
男の肩が小さく揺れる。
喉が鳴る。
ガイウスが奏へ視線を向ける。
「奏。箱を開けた痕が残る場所はどこだ?」
「一つだけ言え」
奏は男を見ない。
机の上を見る。
「留め金の受けに指が当たるから」
「跡が残ります」
ガイウスが男へ言う。
「お前の指だ」
「布袋を触った回数も合わない」
男の唇が歪む。
「ちが——」
ガイウスが言葉を切る。
「黙れ」
「お前は誰に言われた?」
部屋の空気が止まる。
男の喉が二回鳴る。
ガイウスが兵士へ言う。
「続きを聞け」
「外の件はこれで終わりだ」
「俺は殿下に話をしてから裏門に戻る」
――
裏門。
扉の片側だけが開く。
人が一人通れる幅。
リアナが布包みを抱えたまま入る。
兵士が後ろへ回り、扉を閉める。
蝶番が一回鳴った。
リアナは足を止めた。
目線を上げない。
ガイウスが言う。
「殿下からは許可が出た」
「直せるか分からないが」
「全ての指示を聞くように」
「はい」
リアナは返事を飲み込み、うなずいた。
布包みを机の端へそっと寄せる。
結び目に指が触れそうになり、途中で止めた。
王宮内の小部屋。
奏は椅子を引かない。
立ったまま、机と布包みの距離だけを詰めた。
護衛の女性が横に残る。
視線はリアナの手と結び目に落ちている。
奏は小さく言った。
「ほどかなくていい」
「俺が言ってからにしてくれ」
リアナの指が膝の上で一度握られ、ゆっくり開いた。
「はい」




