第36話 机の上の用紙
ペン先が紙を走った。
奏は机の上に二枚の紙を並べ、左から順に書いていった。
一枚は楽器を直す手順。もう一枚は、練習用の指の順番。
奏が書いているのは、いま肩に掛けている『ヴァイオリン』についてだ。
金具の名前と向き、金具を締める量。どの金具を指で押さえてから回すか。
奏が紙に書いた文字は、この国で使われている共通の文字だった。
読み方が同じかどうかは関係ない。相手には、この国の言葉として意味が通じる。
奏の目には、日本語みたいに読みやすく見えるだけだった。
修理の方法を記した紙には、手順を間違えると壊れる場所だけはっきり書いた。
指の順番の紙には、音の名前を一切書かなかった。押さえる場所と順番だけを書く。
扉は少しだけ開いたままだった。
廊下の気配が、細い隙間から入ってくる。誰かが立ち止まれば分かる距離だ。
足音が一つ止まった。
奏は手を止めず、目だけを上げた。
扉の向こうで、足音が聞こえた。
足音が近づいてはまた離れる。扉の隙間をのぞく気配がした。
すぐに別の足音が鳴った。革の靴が床を打つ音だった。
「通るぞ」
ガイウスの声だった。
最初の足音が消えた。
奏は線を引き直した。
修理の紙の最後に、注意を書いた。
『駒が傾いたまま弦を強く締めない。』
『傾いていたら弦を少しゆるめて、駒をまっすぐに戻す。』
『ペグが重い時は力で回さず、少し押し込みながらゆっくり回す。』
『木やペグに油はささない。』
そう書き終えて、ペンを置いた。
奏は二枚の紙を重ねずに、机の上で揃えた。
どちらかが汚れれば、書き直しになる。それは避けたかった。
扉の隙間が少しだけ広がった。
護衛の女性が顔を出した。
「終わりましたか?」
護衛の女性は扉の前で足を止めたまま、低い声で聞いた。
「終わりました。二枚です」
護衛の女性は部屋に入らずに頷いた。
「殿下にお渡しします。紙はそのまま机に置いてください」
「分かりました」
奏は紙から手を離し、椅子から立ち上がった。
机から一歩下がり、両手を体の横に下ろした。
護衛の女性が扉を少しだけ開けた。
また一つ足音が近づいてきた。
アリアが小部屋の前で止まったが中へは入らない。
机の上の紙を見て、枚数と位置を目で確かめた。
そのアリアの半歩後ろに、護衛の女性が立った。
「紙は二枚ね」
「はい」
奏ははっきり答えた。
「まず、直し方の紙。これを読めば同じように直せる?」
「直せます。注意点も書きました」
「押さえる金具の場所も書いてあります」
「音の名前などは書いていない?」
「書いていません」
「練習用の指の順番のほうにも?」
「書いていません。押さえる場所と順番だけです」
アリアの口元が少しだけ緩んだが、すぐに戻った。
「よし」
短い言葉だった。
アリアは護衛の女性に目を向けた。
「その紙は、私が預かるわ。写しは出さないで」
護衛の女性が即座に答えた。
「承知しました。私がしまいます」
アリアは奏へ視線を戻した。
「この紙が外に出ると、勝手に写されて話が大きくなる。」
「あなたが望まなくても、あなたの名前で使われるかもしれない」
奏は頷いた。
「分かっています」
「今日はここまでにしましょう。」
「次に書いてもらう必要がある時は、私が机を用意するわ」
「分かりました」
廊下の奥で、布がこすれる音がした。
護衛の女性が扉の前に立ち、隙間を静かに閉じた。
アリアは小部屋から離れる前に、もう一度だけ紙を見た。
「……丁寧ね」
「ありがとうございます」
奏が短く返した。
「ここでの作業は終わり。この後はガイウスに案内させるわ」
「行くぞ」
ガイウスが短く言った。
奏は楽器の位置を直し、ガイウスの横についた。
廊下に出る前、護衛の女性が先に視線を走らせた。
誰がどこを見ているか。それだけを確かめてから、合図が出た。
奏とガイウスが歩き出した。
曲がり角の先に、紙を持った男が立っていた。昨日見た人物とは別人だ。
男は紙を胸に当て、目線だけで追ってきた。
ガイウスは歩幅を変えずに通り過ぎた。男は一歩だけ壁側へ寄り、道を空けた。
奏は視線を落とさず、前だけを見た。
奏が部屋を離れた後、リディアは紙を布で包んだ。
角が折れないように、二枚を別々に丁寧に紐で結んだ。
アリアはそれを見て頷いた。
「角が折れないように運んで。」
「はい、殿下」
外の通り。
工房の年配職人の弟子が、工房の前に立っていた。
胸の前に紙を押さえ、周りを見ていた。
弟子の前に、見慣れない男が二人寄ってきた。
片方が銀貨を見せ、もう片方が紙を指で示した。
弟子は首を振り、工房の中へ引っ込んだ。扉が半分だけ閉まった。
閉まる前に、弟子の口が動いた。
「写しは出せない」
その一言だけが、通りに残った。




