第35話 静かな部屋
私室の扉が閉まると、廊下の足音が薄くなった。
灯りは二つだけだった。
机の上の蝋燭と、壁の燭台。
火は小さく、部屋の端に影が溜まっている。
アリアは机の前に立ち、紙を二枚並べた。
修理の手順の紙と、練習用の指の順番の紙。
角を揃えると、目線が迷わない。
リディアは扉の近くに立ったまま、部屋の奥へ視線を動かした。
窓。
廊下側。
机の周り。
気配を拾う動きだけが続いた。
「殿下」
低い声だった。
近くにいるアリアだけに届く。
「工房の紙は、もう外で噂になり始めています」
アリアは紙から目を離さなかった。
「どんな内容?」
「まだ噂は固まっていません。ただ、紙の写しを欲しがる者が出ています」
「写しを?」
「はい。紙を見たいのではなく、手元に残したいようです」
アリアは紙の端を指で押さえた。
「これは修理の順番。これは指の順番。どちらも音ではないわ」
リディアが静かに返した。
「それでも怖がる者はいます。音に繋がる、と決めつけます」
アリアは紙の線を目で追った。
金具の向き。
締める力。
注意点。
短い文で、手が動くように書かれている。
「音が禁忌でも、楽器の直し方は許される」
アリアの声が少しだけ低くなった。
「私は、この線引きが不自然に見える」
リディアは一拍置いてから尋ねた。
「殿下は、その不自然さを変えたいのですか?」
アリアはすぐに答えなかった。
紙の端を揃え直した。
指先が止まらなかった。
「変える、と言い切るほど簡単ではないわ」
息を短く吐いた。
「私は、奏を道具にされたくない。誰かの都合で、奏の立場が決められるのは嫌」
リディアの目が細くなった。
警戒ではなく、次の確認だ。
「殿下は、奏を信じますか?」
アリアは視線を上げた。
「……信じたい、だけでは動けないわ」
言葉を選ぶ間があった。
「私は確かめる。確かめた上で、奏が楽に動ける範囲を作る」
「承知しました」
アリアは紙を重ねず、机の端に分けて置いた。
「明日、机を一つ用意する」
「場所はどちらに?」
「王宮の中。人が集まらない場所。出入りを絞れる場所」
アリアは言い切った。
「王宮の中で、奏が楽に動ける場所を作りたいの。」
リディアが一歩だけ動いた。
「すぐに手配します。」
「机と紙だけでいいわ」
「承知しました」
リディアが扉の外へ出る前に、アリアが呼び止めた。
「あとひとつだけ」
リディアが振り返った。
「奏の前で、あなたの名前は出さないで」
一瞬だけ、リディアが目を伏せた。
「はい、殿下」
扉が静かに閉まった。
部屋に残ったのは、火が揺れる小さな気配だけだった。
アリアは椅子に座らず、紙を見たまま立っていた。
どこまでなら残していいか。
どこから先が、奏を縛る線になるか。
紙の上で確かめていた。
翌朝。
廊下は昨日より静かだった。
アリアはリディアと並んで歩き、曲がり角の先でガイウスと合流した。
「殿下」
ガイウスが頭を下げた。
「用意できた?」
「小部屋を一つ。机と椅子だけです。出入りできる人数は二人に絞りました」
「分かった。奏に伝える」
奏は王宮の外へ出る前の場所で待っていた。
楽器は肩に掛けたまま、手元は落ち着いている。
ガイウスが先に言った。
「殿下の呼び出しだ」
奏はアリアを見て、はっきり聞いた。
「私は何をすればいいですか?」
「今日は演奏ではないわ。音は必要ない」
アリアは言葉を短く整えた。
「ただ、昨日の続きとして、あなたに二つお願いしたい」
奏が頷いた。
「二つ、とは?」
「ひとつは、修理の手順の整理」
アリアは紙を見せなかった。
袖の中で握り、視線だけを奏に戻した。
「どの金具を、どの向きで、どれくらい締めるか。」
「あなたの言葉で短くまとめて、紙に書いてほしい」
奏はすぐに答えず、頭の中で順番を揃えてから言った。
「分かりました。」
「もうひとつは、練習用の指の順番」
アリアは一拍置いた。
「音の名前は書かなくていい。指をどこに置くかと、動かす順番だけを書いてほしい」
奏は小さく頷いた。
「それならできます」
アリアの口元がわずかに動いたが、すぐ戻った。
「小部屋を用意したけど、落ち着いて書ける?」
「書けます。机があれば十分です」
「分かったわ」
アリアはリディアへ視線を送った。
リディアが小さく頷き、先に歩き出した。
奏はガイウスの横につき、距離を守ってついてきた。
廊下の途中、柱の影に男が一人立っていた。
文官の服ではない。
男は目線だけで一行を追っていた。
誰が先で、誰が後ろか。
どの扉に入るか。
紙に書かずに覚えていた。
アリアは立ち止まらなかった。
ここで男を押さえれば、誰が男に指示しているのかが分からなくなる。
それは、奏に余計な負担を増やす。
だから、見ていないふりをした。
奏も同じように、視線を流した。
小部屋の前で、リディアが扉を開けた。
中は他の部屋に比べて狭い。
部屋には机と椅子が一つ。
アリアは扉の前で言った。
「この部屋です。終わったら、私にだけ見せて」
奏が頷いた。
「分かりました。」
アリアは一度だけ目を伏せた。
「……ありがとう」
リディアが、隙間が残るように扉を少しだけ閉めた。
中を確認できるだけの隙間だ。
アリアは廊下に戻り、歩幅を崩さずに進んだ。
小部屋では、奏が黙って紙を書いている。
修理の手順と指の順番などが記された紙。
外では、前例のないその紙を確かめようとする者が増えていく。
新しいものは、それだけで注目を集める。
奏にこれ以上、余計な視線を浴びせたくない。
だから、奏が落ち着ける場所だけは守る。




