第33話 工房
朝の廊下は、夜より人が多い。
それでも声は低い。
大きな笑い声は聞こえない。
奏は門の手前で立ち止まり、肩に掛けた楽器の位置を直した。
手の動きは落ち着いている。
視線だけが、周りを拾う。
見られているのが分かる。
「行くぞ」
ガイウスが短く言う。
奏は頷き、歩き出した。
門を抜けると、王都の朝の音が重なる。
荷車の車輪が石をこすり、布が揺れ、靴音が続く。
それでも歌はない。
口笛もない。
少し離れたところで、王女の一行が歩いていた。
距離は近すぎない。
離れすぎてもいない。
アリアの歩幅が、奏に揃っている。
「奏」
アリアが呼ぶ。
声は小さい。
近くにいる者だけに届く。
「工房まで案内します。今日は、音は求めません」
「分かりました。音は出しません」
奏は短く答えた。
護衛の女性が、アリアの半歩後ろにつく。
軽装鎧。
視線は周りに置いたまま、奏を一度だけ見る。
工房の通りに入ると、匂いが変わる。
木と油と、金属。
入口の上に小さな看板が掛かっていた。
文字は古いが、読める。
「ここよ」
アリアが言う。
扉の前でガイウスが先に動く。
扉を押して、静かに開けた。
中にいた男が顔を上げた。
年配の職人だ。
手も胸元も汚れている。
男はアリアを見る。
膝を折りかけて、途中で止まった。
「今日は礼はいいわ」
アリアが先に言う。
職人は息を吐き、頭を下げた。
「……殿下。ここに何の御用で」
アリアは奏を見た。
「音を出さずに、何を見せられるのか。私はそれを確かめたいの」
職人の視線が、奏の楽器に吸い寄せられる。
眉が少しだけ動く。
「音は出しません」
奏が先に言う。
「楽器の具合を見せてください。固い所やズレている所を直します」
「直した箇所と、直し方を紙に書いて残します」
「紙に?」
職人が短く聞き返す。
「どの金具を、どの向きで、どれくらい締めるか。そういう修理の手順です」
職人は口を開けて、すぐ閉じた。
分からないものを見る顔だ。
アリアが静かに補う。
「紙に書くのは、ここでは禁じられていないわ」
「……そう、ですが」
職人は言葉を濁す。
奏は続けた。
「机をお借りできますか。道具を広げます」
職人はガイウスを見る。
次にアリアを見る。
「……どうぞ」
机の端が空けられた。
奏は椅子に座り、楽器を膝の上に置く。
ケースを開け、布と小さな金具、細い棒、油の瓶を並べた。
アリアは少し距離を取って見ている。
護衛の女性は入口側に立つ。
工房の奥で、弟子らしい若い男が動きを止めた。
視線が奏の手に集まる。
「まず、ここが少しズレています」
奏は細い棒で位置を示した。
「この金具です」
職人が近づく。
「触っていいですか」
奏は頷き、楽器を少し持ち上げた。
受け渡しはしない。
職人の手が届く位置にだけ寄せる。
職人の指が金具に触れる。
目が細くなる。
「……確かに。ここ、最近固いと思ってた」
「向きです」
奏は棒の先で角度を示した。
「この向きだと噛みます」
奏は布で金具を拭き、油を針の先ほど落とした。
布でひと撫でする。
金具の光り方が戻る。
「直し方は、紙に残します」
奏は紙を出し、炭筆を握った。
字を書く手が速い。
線がまっすぐだ。
職人の弟子が前に出かけて止まる。
職人が小さく手で制した。
奏は図を描く。
金具の位置。
向き。
力の入れ方。
注意点。
文は短い。
「ここを見れば、次から同じように直せます」
奏は紙を机に置いた。
職人は目で追う。
ゆっくり手を伸ばし、紙の端を押さえた。
「……助かる」
声は小さい。
弟子の視線が紙に落ちる。
アリアの口元が、少しだけ緩む。
すぐ戻る。
奏は次の紙を出した。
「次は、練習用の指の順番を書きます」
職人が肩を強ばらせる。
弟子が息を止める。
奏は紙を見たまま言う。
「音は書きません。指をどこに置くかと、動かす順番だけを書きます」
「指の動き?」
職人が聞き返す。
「どの指を、どこに置くか。順番です」
アリアが尋ねた。
「それで、何が分かるの?」
奏は少し間を置いた。
「順番が決まっていないと、途中で手が止まります」
「先に、指を動かす順番だけ決めます」
奏は紙に線を引き、指の番号を振った。
短い。
見れば分かる。
「これは練習用です。指が迷わないためのものです」
弟子が覗きたそうな顔をする。
アリアは護衛の女性を一度だけ見る。
護衛の女性が小さく頷く。
アリアは職人に言う。
「弟子さんも見ていいわ。奏が許すなら」
奏は顔を上げ、弟子を見る。
「見てもいいですが、声は小さめでお願いします」
「はい」
弟子が紙の近くに寄る。
職人も線を指でなぞる。
奏は道具を片付け始める。
並べた順に戻していく。
「今日は、ここまでです」
奏が言う。
「音を出さずにできることを、先にやりました」
アリアが頷いた。
「ありがとう。私が見たかったのは、それよ」
言い切る直前に、アリアは少しだけ言い淀む。
「……丁寧なやり方」
奏は笑わない。
「急ぐと壊れます」
短い返事だ。
職人が紙を胸元に寄せた。
弟子が、線をもう一度なぞった。
誰も音を求めていない。
それでも、手が動いている。
アリアは扉へ向かいながら、思った。
明日になっても、王宮の空気は変わらない。
変わらないなら、私が先に形を作る。
静かな場所で。
音を出さずに。




