第32話 王女の私室
扉が閉まると、廊下の気配が遠のいた。
部屋の灯りは二つだけだ。
机の上の蝋燭と、壁の燭台。
火は大きく揺れない。
窓が閉まっているからだ。
布が擦れる音が、やけに目立つ。
アリアは椅子に深く寄りかからず、背筋を立てたまま座っていた。
姿勢を崩すと、呼吸が緩む。
その緩みが、考えの切れを鈍らせるのを知っている。
机の端に、薄い報告の紙束が置かれている。
字は整っている。
余計な言葉がない。
感情が混じっていない。
「リディア」
呼ぶと、すぐ後ろで影が動いた。
金具の音を立てない歩き方だ。
護衛の訓練が、体に染みている。
「はい、殿下」
「市場の様子を教えてください。あなたの主観でかまいません」
リディアは頷き、言葉を短く整える。
「視線が増えました」
「誰に集まったの?」
「最初は楽器です。次が奏。最後に殿下です」
最後、という順番が胸に引っかかる。
だが顔には出さない。
「噂は?」
リディアがすぐに答える。
「まだ形にはなっていません。ただ、形にしようとしている人間はいます」
「形にするなら、どんな言葉を使うの?」
「前例がない、危険だ、必要だ。……この三つです」
必要だ。
その言葉は便利すぎる。
必要だと言えば、扱える。
必要がなくなれば、切れる。
前例がないと言えば、止められる。
危険だと言えば、縛れる。
アリアは紙束の端を指で揃えた。
揃う感触があると、考えが散らばりにくい。
「奏は、今日も何もしていない?」
「はい、殿下」
リディアは言い切った。
「音は出していません。派手な動きもしません。視線を集めないようにしています」
「それでも、視線は集まる」
「集まります。殿下が招いたと、誰もが知っていますから」
責める声ではない。
事実を、ただ置いただけの声だ。
アリアは息を吐き、机の上の火を一度だけ見た。
火は黙って燃える。
黙っているのに、部屋の中心になってしまう。
黙っていても、目立つものがある。
奏もそういう種類なのかもしれない。
「私は、急がないと言った」
「承知しています」
「待つとも言った」
「承知しています」
リディアの返事は短い。
アリアは少し間を置いてから尋ねた。
「私が待てる理由を、あなたは分かってる?」
リディアはすぐに答えた。
「急いだ結果、取り返しがつかないことになる。殿下はそれを経験しています」
アリアは目を伏せ、紙束をもう一度揃え直した。
経験、という言葉でまとめると軽い。
けれど、ここで詳しくは言わない。
過去を説明しても、今の空気は変わらない。
「待つのは、優しいからじゃない」
アリアは小さく言った。
「急げばすぐに壊れてしまう。だから待つ。それだけ」
リディアは頷いた。
「はい、殿下」
窓の外は暗い。
ガラスに映る自分の顔は、王女の顔のままだ。
アリアは窓に近づき、指先で縁をなぞった。
冷たい。
冷たいものに触れると、熱を持った考えが少し落ち着く。
「音が禁忌なら」
アリアは窓の外ではなく、自分の声の響きを確かめるように言う。
「私たちは、何で心を整えてきたの?」
リディアは迷わず答える。
「祈りと規律です」
正しい答えだ。
けれど、正しいだけでは足りない夜がある。
アリアは首を振らず、ただ目を細めた。
「それで救われない事もある」
リディアの声が少しだけ低くなる。
「……あります」
アリアは窓から離れ、机へ戻った。
紙束の一枚に、短い追記がある。
文官の筆だ。
『殿下は寛大すぎる、との声あり』
寛大。
その言葉も便利だ。
寛大だと言えば、責任を押し付けられる。
アリアは追記を裏返し、見えない位置に置いた。
見えなくしても、消えないのは分かっている。
それでも今は、視界から外す。
アリアは紙束から目を離さずに尋ねた。
「文官長は、動くと思う?」
リディアは即答した。
「動きます。直接ではなく、流れを作ります。噂と手続きで、殿下の足元を固めてくるかと」
足元を固める。
動けないようにする、という事だ。
アリアは頷いた。
「王宮は待ってくれない」
「はい」
「だからこそ、私が先に動くべきね」
リディアの目がわずかに細くなる。
警戒ではない。
次の手を確認している目だ。
「殿下は奏に、何を求めますか?」
アリアは少しだけ考える。
音はまだ要らない。
音を出せば波はもっと大きくなる。
今はその段階ではない。
「音の代わりに、別のものを見せてほしい」
「代わり、とは?」
リディアが問い返す。
問い返し方が丁寧だ。
意図を確かめている。
「譜面でもいい。指の動かし方でもいい。楽器の仕組みでもいい」
アリアは言葉を区切り、余計な飾りを削る。
「音を出さずに、奏がどんな人なのか。私はそれを確かめたい」
リディアは頷いた。
「どこで確かめますか?」
「工房がいい。静かで、人が少ないところ」
「王宮の外にしますか?」
「外のほうがいい」
アリアは机の端に指を揃えて置いた。
癖を抑える。
音を増やしたくない。
「奏に伝えてください。明日は、音は要らないと」
「承知しました」
少し間があって、リディアが続ける。
「殿下。ひとつ確認してもよろしいですか?」
「何?」
「殿下は、奏に特別な感情を抱いているのですか?」
アリアはすぐに答えなかった。
「……困る質問ね」
紙束の端を揃え直す。
指先がほんの少しだけ強くなる。
「私がその事を言った瞬間、周りが特別扱いだって騒ぐでしょ?」
「奏を、そういう噂に巻き込みたくないの」
リディアは頷いた。
「分かりました」
アリアは声を落として言う。
「だから、先に確かめるべきだと思う」
「音が鳴る前に。音が鳴らなくても。奏が何を変えるのか」
灯りが小さく揺れる。
部屋の影が少し濃くなった。
明日になっても、王宮の空気は変わらない。
変わらないなら、私が先に形を作る。
静かな場所で。
音を出さずに。




