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追放された勇者は音楽家だったので、音楽で世界を変えることにします。  作者: 三門
第1章 追放と決断

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第21話 音を出す理由

 朝の街は、静かだった。


 昨夜の荒れた空気が嘘みたいに、通りにはいつもの人の流れが戻っている。

 ただ――どこか、薄い膜が一枚残っているような感覚があった。


 言い争いの当事者だった二人が、遠くで顔を合わせる。

 片方は視線を逸らし、もう片方は何も言えずに立ち止まった。


 壊れてはいない。

 けれど、元に戻ってもいない。


 奏は、その様子を少し離れた場所から見ていた。


 昨夜は弾かなかった。

 弾けば楽になっただろうと思う。

 自分も、この街も。


 それでも弾かなかったのは、逃げたくなかったからだ。


 ――音を出せば、考えずに済む。


 音を出せば、人の感情がほどける。

 ほどけてしまえば、痛みも、怖さも、うまく隠れてしまう。


 だから奏は、昨夜は弾かなかった。


 だが今、目の前の空気は別の形で固まっている。

 誰も怒鳴らない代わりに、誰も近づけない空気だ。


 その時だった。


 「……昨日、弾かなくてよかったと思いました」


 少し離れた場所から、控えめな声がした。


 振り向くと、あの人物が立っていた。

 いつも足を止めて聴いていく、あの女性だ。


 目立たない服装。

 派手な動きはない。

 けれど、視線だけは真っ直ぐだった。


 奏は何も言わずに見返した。


 彼女は、急がずに続ける。


 「昨日は……音があると、みんな、すぐ静かになります」

 「でも、静かになっただけで、気持ちが置き去りになる時がある気がして」


 奏の指が、無意識に握りしめられる。


 それは、奏自身が昨夜感じていたことと重なった。


 彼女は、言葉を探すように一度息を吸い――それから、少しだけ声を落とした。


 「……でも、今日は」

 「弾いてほしい人が、いるかもしれません」


 奏は、その言葉の意味をすぐに聞き返せなかった。


 弾いてほしい人。


 それは、街の誰かだ。

 けれど彼女がそう言う時、そこには「お願い」よりも「観察」が混じっている。


 奏は視線を流し、先ほどの二人を見た。


 片方が、何か言いかけて、口を閉じる。

 もう片方が、笑って誤魔化そうとして、顔が引きつっている。


 あの空気は、誰かを傷つけてはいない。

 だが、誰も救ってもいない。


 奏はゆっくりと息を吐いた。


 音楽は万能じゃない。

 それはもう分かっている。


 音を出せば全部が解決する――そんなふうに、この世界で生きるつもりはなかった。


 それでも。


 音が「戻るきっかけ」になることはある。


 奏は、足元の楽器へ視線を落とした。


 昨夜は、弾かなかった。

 今日は、弾く。


 ただし――大きな音じゃない。

 人を集める音じゃない。


 誰かを黙らせるための音でもない。


 奏は、少しだけ場所を移した。


 人通りの中心から外れた壁際。

 通りの端で、ちょうど風が当たらない場所。


 そこなら、聴きたい人だけが聴く。

 通り過ぎたい人は通り過ぎられる。


 奏は腰を下ろし、楽器に手を置いた。


 指先が触れた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。


 帝国の玉座の間。

 あの冷たい声。

 あの視線。


 ――居場所はない。


 それでも、奏は手を引かなかった。


 ここで音を出すのは、逃げるためじゃない。

 ここで音を出すのは、向き合うためだ。


 奏は、最初の一音を鳴らした。


 大げさな始まりではない。

 ただ、日常の中に滑り込むような、短い音。


 その一音で、空気が少しだけ変わった。


 通り過ぎる人が、ほんの一瞬だけ歩幅を緩める。

 店先の男が、口にしていた愚痴を途中でやめる。


 そして――言い争いの当事者だった二人のうち、逃げていた方が足を止めた。


 顔を上げる。

 視線が揺れる。


 すぐに謝るわけじゃない。

 すぐに笑えるわけでもない。


 それでも、足を止めた。

 戻る方向に身体が向いた。


 奏は、それだけでいいと思った。


 音楽は、人を変えるものじゃない。

 人が変わろうとする瞬間に、少しだけ隣に立つものだ。


 奏は短いフレーズを続け、そこで終わらせた。


 引き伸ばさない。

 酔わせない。

 求めさせない。


 音が消えると、街はまた日常に戻る。


 だが、戻り方が少しだけ違う。


 逃げていた方が、恐る恐る一歩踏み出す。

 残っていた方が、肩の力を抜く。


 謝罪の言葉は、まだ出ない。

 けれど、背中を向けて去ることもしない。


 奏はそれを見て、楽器から手を離した。


 隣に立っていたあの女性は、何も言わない。

 ただ、静かに頷いてから、目立たないようにその場を離れていった。


 ――この街には、聴く人がいる。


 それが奏には、不思議だった。


 誰かに価値を認められたいわけじゃない。

 まして、称賛などいらない。


 ただ、音が届くこと。

 それだけが、今の奏には必要だった。


 その時、視線を感じた。


 通りの向こう。

 人の流れの隙間に、ローブの人物がいる。


 顔は見えない。

 それでも、こちらを見ていると分かった。


 さらに少し離れた位置に、もう一人。

 街に溶けるように立ちながら、周囲を見張る女性の影。


 奏は、何も言わずに視線を戻した。


 ローブの人物は、一瞬だけ立ち止まり――そして、人の流れに消えていった。


 その背中を見送るように、奏は心の中で言う。


 ――今日の音は、逃げる音じゃない。


 誰かを黙らせる音でもない。


 戻るための音だ。


 奏は立ち上がり、楽器を抱え直した。


 次は、もう少しだけ。

 音と向き合える気がした。


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