第20話 弾かなかった理由
夜の街は、いつもより落ち着きがなかった。
通りを歩く人々の足取りが速い。
小さな言い争いが、あちこちで起きている。
酒場から聞こえる声も、どこか荒れていた。
奏は、それを少し離れた場所から見ていた。
――弾けば、静まる。
分かっている。
この街では、もう何度もそうだった。
音を出せば、人は耳を傾け、言葉を止める。
奏の足元には、いつもの楽器があった。
指を伸ばせば、すぐにでも音を出せる距離。
それでも――奏は、動かなかった。
胸の奥に、冷たい感覚が残っている。
帝国での光景。
玉座の間。
音楽家と示された文字。
――居場所はない。
あの言葉が、まだ消えていなかった。
「……今日は、弾かないんですか?」
少し離れた場所から、声がした。
いつも、足を止めて聴いていく人物だった。
控えめだが、よく通る声。
期待と不安が入り混じった視線が、奏に向けられる。
奏は、しばらく考えたあと、首を横に振った。
「今日はやめておく」
それ以上は、説明しなかった。
その人物は、少し戸惑ったように視線を落とし、
やがて何も言わず、その場を離れていった。
夜は更けていった。
誰かが仲裁に入り、
誰かが肩をすくめ、
誰かがその場を離れる。
音がなくても、街は壊れなかった。
奏は、その様子を静かに見つめていた。
音楽があれば、楽になる。
自分も、周りも。
けれど、それは逃げでもある。
音を使えば、考えずに済む。
向き合わなくて済む。
――それは、まだできない。
奏は楽器から手を離し、夜空を見上げた。
星は、変わらずそこにあった。
音がなくても、世界は続く。
だからこそ。
使うなら、
逃げるためではなく、
向き合うために。
奏はそう心に決め、その夜は音を出さなかった。




