第16話 記録される音
昨日の音が、まだ耳の奥に残っている。
奏は朝の街を歩きながら、そんなことを考えていた。
怖さは消えていない。
けれど、完全に拒むほどでもなかった。
それが、少しだけ不思議だった。
境界の街は、いつもと変わらない。
行商人の声。
荷車の音。
朝の冷たい空気。
それでも、どこか違和感がある。
見知らない顔が増えていた。
旅人にしては、動きが揃いすぎている。
服装も、どこか整っている。
奏は深く考えなかった。
考えないようにした、と言った方が近い。
今日は、弾かない。
昨日は、少しやりすぎた気がしている。
あれ以上続ければ、また音が怖くなる。
奏は、街の端にある壁にもたれて立ち止まった。
ヴァイオリンは持っているが、ケースは開かない。
無理をしない。
それが、今の自分にできる精一杯だ。
通り過ぎる人々は、奏に興味を示さない。
それでいい。
しばらくそうしていると、遠くで短い口論が聞こえた。
すぐに収まり、何事もなかったように流れていく。
――この街は、相変わらずだ。
奏はそう結論づけて、その場を離れた。
知らないままでいいこともある。
今は、まだ。
一方その頃
グラディウス帝国の中央城、深い場所にある記録室では、
淡々とした声が響いていた。
「境界付近の街で、不審な人物が確認されました」
報告しているのは、帝国監察院所属の男。
名を、リオネル・クルスという。
机の向こうに立つのは、帝国軍総司令官――ゼクト・ハインツ。
「不審、とは」
「職業不明。戦闘行動なし。
ただし、楽器を所持し、音を発している形跡があります」
その言葉に、室内の空気がわずかに沈んだ。
「……音楽か」
ゼクトは、眉一つ動かさない。
「召喚勇者の失敗記録と照合しました。
条件が一致します」
書類が一枚、机の上に置かれる。
名前の欄は、空白のままだ。
「生存確認、ということか」
「はい。記録上は、すでに処理済みの個体です」
ゼクトは、書類に目を落としたまま言った。
「問題ない。放置しておけ」
即答だった。
そのとき、低く平坦な声が続く。
「記録は、更新されるべきです」
淡々と告げたのは、リオネルだった。
玉座の側に立つ男――
グラディウス帝国皇帝、ヴァルド・グラディウスは、
そのやり取りを、ただ黙って聞いている。
「音を発した時点で、誤差ではなくなります」
リオネルは続ける。
「監察を入れますか」
皇帝は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
そして、言う。
「……入れろ」
短い一言。
それで、すべてが決まった。
「接触は不要だ。
まずは、観測と記録に徹しろ」
「承知しました」
リオネルは一礼し、踵を返す。
部屋を出る直前、彼は小さく呟いた。
「……音は、消えるものではありません」
その言葉を、誰も拾わなかった。
帝国の記録は、静かに更新される。
まだ名も持たない音楽家の存在が、
ただの文字列として、刻まれただけだ。
その頃、境界の街では――
奏が、自分が見られていることに、まだ気づいていなかった。




