第12話 第三王女アリア
その日、奏は弾かなかった。
弾けない、ではない。
弾かないと決めたわけでもない。
ただ――音を出す前に、胸の奥で何かが引っかかった。
昨日の、あの言葉。
「今、名を明かすとあなたを巻き込みます。」
それが耳の奥に残って、指がうまく動かない。
弓を握る手に、余計な力が入る。
奏はヴァイオリンを抱えたまま、いつもの壁際に立っていた。
周囲は相変わらずだ。
荷車の軋む音。
呼び込み。
笑い声。
湿った石壁に反射する足音。
境界の街は、何も変わらない。
変わらないはずなのに。
自分の中だけが、妙に落ち着かない。
――待ってる。
その自覚が、腹立たしかった。
馬鹿らしい。
名も知らない相手だ。
正体も知らない。
それでも、来るかもしれないと、どこかで思っている。
奏は息を吐く。白い息が、淡くほどけた。
そのとき、空気が変わった。
説明のつかない変化。
喧噪の中に、わずかな隙間ができるような感覚。
人の流れが、ほんの少しだけ避ける。
奏は、視線を上げた。
いた。
深いフードを被ったローブの人物。
今日も顔は見えない。
けれど、昨日より近い。近づいたというより、最初からそこにいたような距離。
奏の喉が、小さく鳴った。
何を言うべきか分からない。
昨日、気づいたら名前を聞いていた。
答えは、得られなかった。
今日は――。
奏が口を開く前に、ローブの人物の背後で、気配が前に出た。
見えないままではなく、今度ははっきりと。
女性だった。
背筋が伸び、動きに無駄がない。
街に溶ける服装なのに、存在が浮く。
――刃物みたいだ。
奏は直感した。
その女性は、奏の前に立つでもなく、ローブの人物の半歩前に滑り出る。
視線は奏に向けられているが、声の温度は低い。
「これ以上の接触は控えてください」
命令ではない。
しかし、拒否の余地を残さない言い方だった。
奏は、反射的に笑いそうになった。
「……控えろって。何だよ、それ」
自分でも驚くほど、声が荒くなった。
苛立ちの正体は分かっている。
巻き込む、と言った。
なのに、向こうから来た。
近づくな、と言うなら、最初から来るな。
奏はローブの人物を見る。
フードの影の奥は、動かない。
女性は、ほんのわずかに眉を寄せた。
「あなたが危険だと言っているのではありません」
淡々とした声。
「あなたの周囲が危険です」
奏は、言い返そうとして止めた。
周囲が危険。
それは、自分自身がいちばん知っている。
帝国に追放された。
野盗に襲われた。
この街は放置され、秩序は薄い。
それでも。
それでも――。
奏は、ローブの人物に向けて言った。
「……だったら、何しに来た」
ローブの人物が、わずかに肩を揺らした。
寒さではない。
迷いの揺れ。
女性が、少しだけ首を傾ける。
「……お戻りください」
その言葉は、ローブの人物に向けられていた。
奏は、そこではじめて理解する。
護衛と、護られる側。
この関係は、ただの“用心”ではない。
ローブの人物は、静かに首を振った。
拒否の動きは小さい。
けれど、意志は強い。
女性が一歩、さらに前へ出かけた瞬間――。
「……アリア様」
呼び名が落ちた。
たったそれだけの音が、
街の喧噪を一瞬だけ遠ざけた。
奏の中で、何かが止まる。
アリア、様。
敬称。
呼び捨てではない。
親しみでもない。
上下のある呼び方。
奏の背中に冷たいものが走った。
視線がローブの人物に吸い寄せられる。
フードの影が、急に“壁”みたいに感じられる。
――王族。
頭の中で、言葉が勝手に組み上がる。
だから、店主は緊張した。
だから、街の人の流れが避けた。
だから、護衛がいる。
繋がってしまった。
奏は息を呑んだまま、動けない。
ローブの人物――アリアと呼ばれたその人物は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと手が上がる。
フードの縁に触れ、ためらいの間。
そして――外す。
髪が、冷たい風にわずかに揺れた。
露わになった顔は、想像より幼い。
小柄な体格。
それに似合わない落ち着いた目。
視線が真っ直ぐで、逃げない。
奏は、言葉を失った。
綺麗だとか、そういう感想は遅れてくる。
今はただ――“確かに身分が違う”という圧があった。
アリアは、目を伏せないまま言った。
「……隠していました」
謝罪の形はしている。
だが、媚びも怯えもない。
「あなたが怒るのは当然です」
奏は、喉の奥が痛くなるのを感じた。
怒り。
そうだ、怒るべきだ。
巻き込むと言った。
名乗れないと言った。
なのに、来た。
なのに――。
奏は、言葉が出なかった。
怒りより先に、冷えたものが胸に溜まる。
まただ。
ここでも、結局“立場”が壁になる。
帝国で切り捨てられた。
この街で、ようやく息ができると思った。
それすら、身分に押し潰されるのか。
奏の指先が、震えた。
アリアが、続ける。
「でも」
その一語に、奏は目を上げた。
アリアの声は小さい。
けれど、よく通る。
「音を聴いたことに、偽りはありません」
「……」
「あなたの音は、苦しい。でも、濁っていない」
それは、最初の一言と同じだった。
そして、同じくらい刺さる。
アリアは一歩、前に出る。
護衛の女性が反射的に動こうとして、止まる。
アリアは視線を逸らさない。
「私は、あなたを“勇者”だとは思いません」
奏の胸が、ひくりと鳴った。
「……なら、何だ」
絞り出すような声。
アリアは少しだけ息を吸う。
「音楽家です」
その言葉は、帝国のそれとは違った。
嘲りではない。
価値を測る刃でもない。
ただの、認識。
ただの、肯定。
奏は視線を落とした。
自分の手を見る。
弓を握り、弦を鳴らしてきた手。
どこへ行っても、音楽家でしかない。
そして、どこへ行っても、その一点で切り捨てられてきた。
アリアは、静かに言った。
「名を明かすと、あなたを巻き込むと言いました」
「……」
「今も、それは変わりません」
護衛の女性が、わずかに息を吐く気配がした。
アリアの言葉の危うさを理解している。
奏は、顔を上げた。
「……だったら、何で名を呼ばせた」
アリアは一瞬だけ、目を伏せる。
それは弱さではなく、決意を固める仕草だった。
「呼ばれたのではありません」
「……?」
「あなたが、名を問うたからです」
奏の喉が詰まる。
第11話で、自分は言った。
名前くらいは知りたい、と。
それを、向こうは受け取っていた。
アリアは言う。
「名を名乗らずに、音だけを聴くのは……失礼だと、思いました」
奏の胸の奥が、少しだけ痛む。
失礼。
帝国では存在すら失礼だと言われた。
なのにこの王女は、“礼”を口にした。
奏は、膝を折るべきなのかと一瞬だけ考えた。
――違う。
そうしてしまったら、また同じになる。
身分が壁になって、音が消える。
奏は、ヴァイオリンを抱え直した。
跪かない。
距離も変えない。
ただ、言う。
「……アリア、様?」
敬称が喉に引っかかった。
護衛の女性が一歩踏み出しかけて止まる。
アリアの視線が、その動きを押しとどめた。
奏は言い直す。
「……アリア」
たったそれだけで、胸が少し苦しくなる。
アリアは、驚いたように目を瞬かせた。
けれど怒らない。
「……はい」
返事が、柔らかい。
奏は、息を吐いて、言った。
「だったら、あんたは……聴く人だ」
敬意でも、挑発でもない。
ただの事実として。
アリアの口元が、ほんの少しだけ緩む。
護衛の女性が低い声で言った。
「アリア様。これ以上は――」
アリアは小さく首を振る。
「大丈夫」
その一言に、護衛の女性の表情がわずかに硬くなる。
だが、引く。
従うのではなく、信じるように。
アリアは奏に向き直った。
「……今日、弾かないのですか」
奏は、すぐには答えなかった。
弾けば、何かが変わる。
弾かなければ、何も変わらない。
変わるのが怖い。
でも、何も変わらないのは、もっと怖い。
奏は弓を取った。
指先が冷たい。
でも、握る。
音を出す。
今日の音は、売るためじゃない。
生き延びるためでもない。
――聴く人がいるから。
その理由だけが、胸の奥で立つ。
奏は弓を置いた。
一音目が、静かに街に落ちる。
雑音に溶けるはずの音が、
なぜか、溶けなかった。
アリアは動かない。
ただ、聴いている。
護衛の女性の視線は、街の端を刺すように巡り続ける。
何かを警戒している。
奏も気づいていた。
通りの向こう。
こちらを見ている目。
いつもの野次馬とは違う。
“見定める”目。
弓を引くたびに、背中が冷える。
――巻き込む。
あの言葉の意味が、遅れて胸に落ちる。
それでも、奏は止めなかった。
最後の音を落とす。
喧噪が戻る。
アリアは、息を吐いた。
その息は、白い。
「……ありがとうございます」
奏は、首を振った。
礼を言われることに慣れていない。
慣れていないのに、嫌ではなかった。
護衛の女性が、短く言う。
「……行きます」
アリアは奏を見る。
「また」
約束の言葉ではない。
挨拶にも似ている。
でも、確かに“続く”言葉だった。
奏は答えなかった。
答えられなかった。
アリアはフードを戻し、再びローブの影に身を沈める。
小柄な背中が、人の流れに紛れる。
護衛の女性が、最後に一度だけ奏を見た。
冷たい視線ではない。
警告だ。
奏は、その意味を理解した。
――ここから先は、簡単ではない。
アリアが去った通りの向こうで、
先ほどの“見定める目”が、静かに消えていく。
風が吹く。
境界の街は、何も変わらない。
変わらないはずなのに。
奏の中で、何かが決定的に変わっていた。
名を知ってしまった。
そして――その名を呼んでも、否定されなかった。




