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追放された勇者は音楽家だったので、音楽で世界を変えることにします。  作者: 三門


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第11話 名を問うということ

 今日はまだ、弾いていなかった。


 奏はヴァイオリンを手にしたまま、境界の街の通りに立っている。

 弓も持っている。構えれば、すぐに音は出せる。


 それでも、鳴らさない。


 理由を考えるのが嫌で、考えないまま、そこにいた。


 来るかもしれない。

 来ないかもしれない。


 どちらでもいい、と自分に言い聞かせながら、

 足だけが、その場所を離れなかった。


 演劇小屋の古い壁。

 雑音に溶ける通り。


 ここで音を出すことが、生き延びる手段だと分かっているのに、

 今日は、その気になれなかった。


 ――馬鹿だな。


 奏は、自嘲気味に息を吐く。


 そのときだった。


 人の流れの中に、微かな違和感が生まれる。


 音もなく、空気が変わる感覚。


 視線を上げると、いた。


 深いフードを被ったローブの人物。


 昨日より、少し近い。


 近づいてきたわけではない。

 最初から、その距離にいたような、そんな位置。


 奏は、無意識に姿勢を正した。


 弾いていないのに、弓を持つ手に力が入る。


 しばらく、互いに何も言わなかった。


 街の音だけが流れる。


 荷車の音。

 呼び込みの声。

 遠くの笑い声。


 その雑音の中で、奏は口を開いた。


 「……寒くないのか」


 自分でも意外だった。


 音楽でも、名前でもない。

 ただの一言。


 ローブの人物が、わずかに首を傾ける。


 「……平気です」


 声は落ち着いている。

 だが、どこか柔らかい。


 「……無理して来るなとは言わない」


 奏は続ける。


 「でも、ここは長居する場所じゃない」


 それは忠告でも、命令でもない。

 ただの、率直な言葉だった。


 ローブの人物は、すぐには答えなかった。


 一拍の沈黙。


 そして、静かに言う。


 「あなたも、同じでしょう」


 奏は、言葉を失った。


 否定できない。


 自分も、ここにいるべき人間じゃない。

 居場所をなくして、流れ着いただけだ。


 それでも、ここにいる。


 沈黙が流れる。


 奏は、背後の気配を感じていた。


 視線。

 距離。

 存在感。


 見えないのに、分かる。


 ――護られている。


 その事実が、はっきりと胸に落ちる。


 奏は、息を整えた。


 逃げない。


 今回は、逃げない。


 「……それでも」


 声を低く、静かに。


 「名前くらいは、知りたい」


 ローブの人物の動きが止まる。


 フードにかかる布が、わずかに揺れた。


 彼女は、フードに触れかけて、止める。


 背後の気配が、ほんの一瞬だけ動いた。


 空気が、張り詰める。


 しばらくの沈黙。


 街の音が、遠く感じるほどの静けさ。


 やがて、静かな声が返ってきた。


 「……今、名を明かすと」


 一拍。


 「あなたを、巻き込んでしまいます」


 奏は、その言葉を受け止めた。


 理由は聞かない。

 深掘りもしない。


 それが、本気の言葉だと分かったからだ。


 「……そうか」


 それだけ言って、頷く。


 「なら、いい」


 踏み込まない。

 距離も詰めない。


 だが、距離を取ることもしなかった。


 ローブの人物は、深く頭を下げる。


 それは、客に対する礼ではない。

 演奏者に対する礼でもない。


 一人の人間に向けた、静かな礼。


 彼女は一歩下がる。


 背後の気配も、自然に動く。


 去る準備。


 その背中に向かって、奏は言った。


 「……それでも、来たなら聴いていけ」


 声は低い。

 感情も乗せていない。


 ただの事実として。


 ローブの人物が、立ち止まる。


 一瞬だけ。


 そして、振り返らずに、歩き出した。


 人の流れに溶けていく。


 奏は、その背中が見えなくなるまで、動かなかった。


 胸の奥に、奇妙な感覚が残っている。


 踏み込んだのに、踏み込んでいない。


 知ろうとしたのに、知らなかった。


 それでも。


 それでも、関係だけは、確かに変わっていた。


 名も知らない。

 身分も知らない。

 正体も分からない。


 それなのに。


 「……面倒な関係だな」


 小さく呟いて、息を吐く。


 だが、心の奥では分かっていた。


 もう、無関係ではいられない。


 音を“聴く人”がいる限り。

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