第1話 音が怖くなった天才
ステージの上で、ピアノはいつも通りそこにあった。
黒く艶やかな蓋、磨き上げられた鍵盤、客席を映してしまいそうなほど整えられたボディ。照明が当たれば、まるで夜の湖面のように光を返す。
それなのに。
相原奏は、椅子に腰掛けた瞬間から、喉の奥がひりつくのを感じていた。
――静かすぎる。
ホールの静寂は、観客が息を潜めることで生まれる。いつもなら、それは祝福だった。自分の音を待っている空気。自分の一音目に、千人の集中が吸い込まれていく感覚。奏は、それが好きだった。
けれど今日は違った。
静けさが、薄い膜みたいに肌へ張り付いてくる。
その膜の向こうに、音がある。小さくて、逃げ場のない音が――ありすぎる。
客席の誰かが喉を鳴らす。
どこかで靴底が床をこする。
空調の微かな唸りが、天井裏で長く伸びる。
照明の熱が、じりじりと頬を焼く。
奏は息を吸い、指を鍵盤の上へ置いた。
第一音。
この一音が決まれば、あとはいつも通りだ。
そう信じて、指を落とす。
――カン。
音が鳴った。
だがその瞬間、奏は眉をひそめた。
違う。
音が、違う。
正しく鳴っているはずなのに、どこか濁って聴こえる。
透明な水に、ほんのわずかな砂が混じったみたいに、輪郭が曖昧だ。音程が狂っているわけじゃない。ホールの響きが悪いわけでもない。
なのに、気持ちが悪い。
奏は、次の音を重ねようとして――指が止まった。
絶対音感。
この耳は、幼い頃から奏を助けてきた。どんなピアノでも、どんな会場でも、どんなコンディションでも、音の世界に戻してくれた。聞こえた音を正確に捉え、理想の形へ調整し、完璧な演奏へ導いてくれるはずの能力。
けれど今は、それが刃になっていた。
濁り。
微細なズレ。
人の耳には気づかれないような“違い”が、痛みとして胸に刺さる。
――怖い。
奏は、自分の中から出てきたその感情に、いちばん驚いた。
怖いって、何が。
音が。
音楽が。
自分の武器だったはずのものが。
奏はぎこちなく笑いそうになって、笑えなかった。
自分が今、何をしているのか。
今日のプログラムは、何だったか。
このホールはどこで、客席にどんな人がいるのか。
全部、分かっている。分かっているのに、視界の中心から少しずつずれていく。
指が震える。
呼吸が浅くなる。
奏は立ち上がりたくなった。ピアノから離れて、舞台袖へ逃げたくなった。
――逃げる? 俺が?
それが、いちばん許せなかった。
相原奏。二十七歳。
世界が「天才」と呼ぶピアニスト。
十代で国際コンクールを総なめにし、二十歳で海外の名門オーケストラと共演し、二十五で世界ツアー。日本の音楽雑誌は、奏の特集号を組み、評論家たちは「次代の巨匠」と持ち上げた。
けれど、奏自身にとっては、ずっと同じだった。
ピアノの前に座る。
音を鳴らす。
完璧に仕上げる。
それだけ。
小学生のころから、生活はほとんど変わっていない。
学校が終われば練習。休日は練習。コンクール前は練習。失敗したら練習。褒められたら練習。誰かと遊ぶより、誰かと付き合うより、音を積み重ねるほうが正しかった。
恋愛経験なんて、ない。
必要だと思ったこともない。
音楽があれば、それでいいと信じていた。
音楽が、奏の価値だった。
音楽が、奏の居場所だった。
その音楽が、今――怖い。
舞台の上、たった一人。
数えきれない視線が、奏へ注がれているのを感じる。
期待。
崇拝。
消費。
それらが、音よりも重くのしかかってきた。
奏はもう一度、鍵盤へ指を落とした。
息を止める。
濁りを消すために、音を整えるために、自分の中の“いつもの機械”を回そうとする。
カン。カン。カン。
単音を繰り返す。
調律が悪いわけではない。
だとすれば――問題は自分だ。
自分の耳。自分の神経。自分の心。
そして、自分の人生。
ふと、奏は思う。
音楽じゃない人生って、どんなものだろう。
音が気にならない人生。
誰かの咳に心臓を掴まれない人生。
舞台の静寂に、飲み込まれない人生。
そんなものが、本当にあるのか。
奏は、喉の奥で乾いた笑いを殺した。
ない。
あるわけがない。
自分は、音楽だけでここまで来た。音楽しか知らない。音楽しかできない。
もし、音楽がなくなったら――。
その問いの先は、暗い。
何者でもなくなる。
価値がなくなる。
誰からも必要とされなくなる。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
――俺は、もう、いらないのか?
自分で自分を追い詰めるような思考に、奏は気づいていた。けれど止められない。止める術がない。音楽しか知らないから、音楽の中で溺れるしかない。
そのまま、時間が過ぎた。
ステージの上の奏の演奏は、客席から見れば「素晴らしい」だった。
いつも通りの技巧。いつも通りの表現。いつも通りの精密さ。
拍手が起きる。
アンコールの声が上がる。
奏は立ち上がり、頭を下げる。
世界が求める“天才”を演じるのは、得意だった。
けれど頭を上げた瞬間、奏の目の前の景色は、少し揺れていた。
照明が眩しすぎる。
拍手の音が痛い。
歓声が、耳に刺さる。
奏は舞台袖へ引っ込むと、スタッフの言葉も半分しか聞こえないまま、楽屋へ戻った。
扉を閉める。
鍵をかける。
やっと一人になった。
鏡の前に立つと、そこにはいつも通りの自分が映っていた。
整えた髪。黒いスーツ。汗のない顔。
完璧に見える――空っぽの男。
奏は洗面台に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
「……もう、やめたい」
声は小さく、情けなかった。
自分でも聞こえないふりをしたくなるほど。
でも、その言葉は確かに自分の口から出た。
やめたい。
弾きたくない。
音を聴きたくない。
音楽を捨てたら、何が残る?
何も残らない。
だから怖い。
だから逃げられない。
奏は目を閉じた。
もし。
もし、音楽じゃない人生があるなら。
もし、ここではない場所があるなら。
「一度でいいから……そこに行ってみたい」
その瞬間だった。
耳鳴りがした――のではない。
世界から、音が消えた。
空調の唸りが消える。
壁の向こうの気配が消える。
自分の呼吸すら、遠くなる。
完全な静寂。
それは、ホールの静けさとは違った。
誰かが息を潜めて作る静寂ではない。
世界そのものが、息を止めた静寂だった。
奏は目を開いた。
鏡の中の自分が、ぼやけて見える。
輪郭が溶け、影が滲み、空気が白く濁っていく。
「……なに、これ……」
言葉が震える。
恐怖というより、理解できないものへの本能的な警戒。
白い光が、楽屋の天井から降ってきた。
いや、降ってくるというより――内側から世界が白く塗り替えられていく。
奏は逃げようとした。
だが足が動かない。
音がない世界で、身体だけが置き去りにされる。
白が、視界のすべてを覆った。
そして――。




