約束
秋の風が、枯れ葉を巻き上げていた。
旅立ちの朝、真白は村の人々に見送られながら、ゆっくりと馬車へと歩いた。
「ソルナさん、短い間だったけど、今までありがとうございました。」
「お礼を言わなきゃいけないのはこっちのほうさ。
真白、あんたがいなきゃこの村は何も知らないままだっただろうよ。」
「そんな…私をかばってくれたのも、宿を貸してくれたのも、全部ソルナさんが見ず知らずの私を、信じて助けてくれたからです。
あなたがいてくれたから、この村は変わるきっかけになったんですよ」
ソルナさんは少し懐かしむような顔をして、目にうっすらと涙をためた。
「次も誰かを助けにいくんだろ。あんたならやれる。頑張っておいで」
「はい!」
宿は開けておくからねという声に背中を押されながら、村を後にする。
肩の上にはいつもの黒猫――ノワール。
その尻尾が別れの寂しさを紛らわせるように優しく揺れる。
「気がつけば、すっかり人気者だな」
「ううん。みんな優しいだけだよ。……この村のこと、忘れない」
「おまえは忘れっこないさ。けど、泣くなよ?」
「泣いてないよ」
そう言いながら、真白は空を見上げた。
澄んだ青に、雲がゆっくりと流れている。
――行ってくるね、と心の中で呟いた。
---
調査隊の馬車は、レイン村からから北へ二日ほどの道のりにある“灰の谷”へと向かっていた。
かつて豊かな森と泉に囲まれた地だったが、数百年前の地震のあと、動物が一匹もいなくなったという。その後十数年起きに、同じような地震が続いている。
草木も枯れ、雨も降らぬ不毛の地――人々はそこを“呪われた谷”と呼んでいた。
「この辺り一帯は、昔“風の聖霊”の庇護を受けていたらしい」
レオンが地図を見つめながら言った。
「だが、災厄のあと、聖霊は姿を消した。以来、風が止まり、森が死んだ」
「……聖霊は怒ってしまったのかな」
「わからない。ただ、もしあなたなら、何かを感じ取れるかもしれない」
真白は静かにうなずいた。
頬に触れる風の冷たさが、まるで何かを訴えているように思えた。
---
三日目の夕方。
谷にたどり着いた一行は、言葉を失った。
そこには、命の気配がなかった。
木々は灰色に枯れ、川は干上がり、風一つ吹かない。
音のない世界――ただ沈黙だけが広がっていた。
真白は足元の土に膝をつき、そっと触れた。
冷たい。まるで眠っているようだ。
「……この土地、泣いてる?」
小さな声でつぶやいた瞬間、ノワールの毛が逆立った。
「真白、待て。何か来る」
次の瞬間、谷の奥から冷たい風が吹いた。
砂塵が舞い、空気が震える。
風の音が言葉を持ったかのように、真白の心に響いた。
『なぜ、ここへ来た……』
風の中心に、淡い光が揺れていた。
それは牡鹿の形をしているようで、けれど明確な輪郭はない。
光の衣をまとったその存在――“風の聖霊”だった。
---
「あなたが……この谷を護っていた聖霊さん?」
『護っていた……かつては、そうだ。だが今は、誰も風を必要としなかった』
「必要としてるよ。今も、この土地を思ってる人たちがいる」
『だが、彼らは風を忘れた。風と共に生きることをやめた。我らは人に忘れられれば、ただの囁きに還る』
聖霊の声は、悲しみに沈んでいた。
真白は胸の前で手を組み、まっすぐに見上げた。
「じゃあ……思い出します。
人も、風も、また一緒に生きられるって」
『何故、そう願う? おまえはこの地の者ではない』
「誰かが“助けて”って言った声を聞いたから」
その言葉に、風が一瞬止まった。
聖霊の光が揺れる。
真白の瞳はまっすぐで、揺るぎなかった。
『おまえの中に……古き加護の匂いがある。
それは、獣たちの祈り。森の声。
ならば問おう――この地を再び風の流れる場所にできるか?』
「できるかはわからない。でも、“約束”ならできる」
『約束……だと?』
「あなたがこの地を見守ってくれるなら、私も人がもう一度風を思い出せるように動く。その約束を、守る」
静寂の中で、聖霊の光が少しずつ明るくなった。
風が頬をなで、砂が舞う。
『――よかろう。ならば、風は再び息を吹き返そう』
光が爆ぜた瞬間、乾いた谷に風が走った。
灰が舞い、冷たい大地が揺らぐ。
どこからともなく鳥の鳴き声が響き、小さな芽が地面を割って顔を出した。
「……見て、ノワール。風が喜んでるみたい」
「まったく……おまえってやつは。いつも無茶をする」
ノワールはあきれたようにため息をついたが、その目は優しかった。
風の聖霊は再び現れ、淡く光りながら言った。
『真白。おまえの“約束”を、風は覚えていよう。
人が再び傲慢に戻れば、我はまた眠る。
だがその時も、おまえの名を呼ぶだろう。風の加護の名として』
「……ありがとう。風の聖霊さん」
聖霊の姿が薄れていく。
風が再び谷を渡り、遠くで花の蕾が開いた。
---
その夜、焚き火のそばでレオンが言った。
「真白殿、あれが……聖霊、だったのですね」
「うん。でも、“聖霊”っていうより……誰かの想いの形みたいだった」
「想いの、形……」
「この世界は、想ってもらうことで生きているんだと思う。風も、動物も、人も。だから私は、忘れないって約束したの」
レオンはその言葉を胸に刻むようにうなずいた。
ノワールは焚き火を見つめながら、ぽつりと言った。
「……まったく、約束の多いやつだ」
「うん。でも、ね」
真白は夜空を見上げた。
満天の星の中に、ひときわ強く瞬く光があった。
風の聖霊の気配が、そこにある気がした。
「風が吹いてるうちは、きっと大丈夫」
ノワールが目を細め、彼女の肩に頭を預けた。
夜の風が二人の髪をなで、谷の上を静かに駆け抜けていった。
それは、世界がまた一歩“調和”へと歩き出した証だった。




