噂と調査隊
朝靄の向こうで、鳥のさえずりが聞こえた。
湿った土の匂いが、季節の変わり目を告げている。
真白は籠を抱えて畑を見回った。
陽の光を受けて揺れる小麦の穂は金色に輝き、風が通るたびにざわめいた。
「今日もよく実ってるね」
肩の上で黒猫のノワールが尻尾を揺らした。
月のような瞳が、朝日を受けてきらめく。
真白が東の谷の泉から帰ってきたあと、村の水は勢いを取り戻し、人々にも畑にも十分な恵みをあたえた。
もともと人の手と、一部の村人のお陰でたくさんの実りをつけていた畑は、更に勢いを増し、見渡す限りの豊作になっていた。
「ま、当然だろ。真白が手を貸した畑だからな」
「ふふ、私じゃなくて、みんなのおかげだよ。人も、動物も」
「おまえはほんとに謙遜が好きだな。もう少し自慢してもいいのに」
ノワールは目を細めて大きくあくびをした。
気まぐれなのか、心を許してくれたのか、今や人目も気にせず普通に会話をするようになった。
私もノワールも勇気をもらったからだろうか。
人と動物が再び共に暮らすようになったこの村――かつて荒廃していた“レイン村”は、今や周囲の村々の羨望の的だった。
東の谷の泉を力を取り戻し、勇気の加護を授かったこの村は、以前と比べ見違えるほど変わった。
生き物を忌み嫌っていた人も、畑や水が豊かになっていくのを目の当たりにし、今では村総出で野犬の世話をするほどだ。真白を怒鳴っていた人からも謝罪の言葉があった。
川沿いには再び魚が戻り、森ではリスや小鳥が木々を駆け回る。畑では小鳥たちが害虫を駆除し、村人たちは感謝の言葉を口にするようになった。
商人も多く出入りし、村で実った数々の野菜を買い取っていく。それでも村で食べていくには余るほどだった。
「ねえ、ノワール。動物たちがいると、畑の土が柔らかくなる気がするの」
「それは“気がする”じゃなくて本当だ。あいつらは土を掘り返して、空気を入れてくれるからな」
「ふふ、そうなんだ。私、まだ知らないことがたくさんあるね」
「知る必要があるのは“優しさ”の使い方だけさ。おまえはそれをもう知ってる」
真白は照れくさそうに笑い、籠いっぱいの野菜を抱えてソルナの宿へと向かった。
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その日の午後。
村の入り口に見慣れない馬車が止まった。
深緑の外套を羽織った数人の男たちが降り立つ。
「王都の調査隊だと?」
村の男が驚いた声を上げた。
男たちは礼儀正しく名乗りを上げる。
「我々はリュミエール王国より派遣された調査隊です。噂に聞く“加護の村”を調べに参りました」
その言葉に、村人たちはざわめいた。
“加護の村”――それは人々がこの村を呼ぶときの新しい呼び名だった。病が減り、作物が実り、冬を越えても飢える者がいないという。そんな奇跡のような話が、王都まで届いていたのだ。
調査隊の一行は、真白のもとにもやって来た。
「あなたが……“調和の使い”と呼ばれている方ですか?」
隊長格の男が問いかける。
真白は少し困ったように笑い、手を振った。
「私はそんな大層なものじゃありません。ただ、動物たちに助けられているだけです」
「しかし、あなたの手でこの村は救われたと聞きます」
「救ったのは、この村のみんなです。私は……きっかけを作っただけ」
ノワールがその様子を見て、そっと尻尾で真白の腕を叩いて小声で話しかける。
「おまえ、もう少し誇っていいって言っただろ」
「……でも、ね」
「ま、そういうとこが好きだけどな」
調査隊は村の暮らしを数日間観察し、住民に話を聞いた。動物たちが人の生活に溶け込み、互いに助け合っている。それは“奇跡”ではなく“共生”という名の仕組みだった。
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三日目の夜。
調査隊の副官・レオンが、焚き火のそばで真白に話しかけた。
彼は若く、真面目な目をしていた。
「真白殿。加護とは、どうすれば得られるものなのですか?」
「……たぶん、“助けたい”と思う気持ちの形、かな」
「助けたい、気持ちの……形?」
「うん。見返りを求めず、ただ目の前の命を助けようとしたとき、何かが応えてくれる。私はそうして、加護をもらったの。この村の人たちもそうだと思います。」
レオンはしばらく黙って炎を見つめ、それから静かにうなずいた。
「我々の国は、長く“自然を制する”ことを正義としてきました。けれど……それが、違っていたのかもしれませんね」
「制するんじゃなくて、寄り添うんです。人も、動物も、同じ世界に生きているから」
その言葉に、レオンは心の奥で何かがほどけるのを感じた。
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翌朝、調査隊は帰還の準備を始めた。
別れ際、隊長は真白に深く頭を下げた。
「あなたの教えを、王都へ持ち帰ります。
そして、他の地にもあなたのような共生の芽を広げてみせましょう」
「……はい。もし困っている村があるなら、私も行きます。動物を助けられるなら」
「それを聞けてうれしい。ではまた、きっと」
馬車の音が遠ざかり、真白は見送るように手を振った。
ノワールが肩の上で言う。
「これでまた忙しくなるな」
「うん。でも、少し楽しみ。きっと、まだ助けを待ってる声がある」
「そのときゃ俺もついてくぜ。おまえ一人じゃ危なっかしいからな」
「ありがとう、ノワール」
真白は空を見上げた。
雲の隙間から光が差し込み、森と村をやわらかく照らす。
その光はまるで、遠くで微笑む誰かの加護のようだった。
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それから数日後。
王都リュミエールの謁見の間では、調査隊が国王に報告を終えようとしていた。
「報告によれば、“調和の使い”真白という女性のもとで、荒廃した村が再生したと」
王は深く考え込むように顎に手を当てた。
「……人と動物の共生、か。古の記録にしか残らぬはずの言葉だ」
「陛下。彼女の行いは民を希望で満たしています。各地で真似をする者も現れています」
「面白い。ならば、彼女にもう一度会わせよ。国としても力を貸すべきだ」
こうして、真白のもとに再び王国の使者が訪れることになる。
その知らせを受けた真白は、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、次の旅の準備をしなきゃね、ノワール」
「まったく、落ち着く暇もないな。でも――悪くない」
真白は風にそっと髪をなびかせた。
あの夜に聞いた声――“たすけて”――が、今も胸の奥で静かに響いている。
あの声が導いた異世界で、今度は自分が“誰かを助ける声”になる番だった。




