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沈黙の泉

 東の谷は、思ったよりも近かった。

 最初に訪れた時の風の匂いが変わったのを、真白は光の中で感じた。森を包んでいた土の香りが、どこか湿り気を帯び、遠くから冷たい気配を運んでくる。

 青の光をまとった花の群生も見つけた。相変わらず不思議で、とてもきれいな花だ。


 森は真白たちを案内するかのように、風や小動物たちが、先へ先へと駆け抜けていく。

 東の谷は真白が初めて訪れた森の、その先にあった。

 鬱蒼と生い茂る森を掻き分けるようにして、奥へ進んでいく。

 歩みを進めるごとに空気は冷たくなり、動物たちの姿は見えなくなり、風が止み、世界が色を失っていくように感じられた。

 地面は乾ききってひび割れ、かつて水が流れていた跡と、かすれた足跡が残っていた。


「……動物の足跡?」

 真白がしゃがみ込み、土を指でなぞる。


「犬の群れだな。」ノワールが低く呟く。

「最近のものだ。けど、何かから逃げたような跡がある。」

「怯えていたの……?」

 足跡の周りには爪が深く刻まれ、地面がえぐれていた。

 逃げるような軌跡。けれどその先は、谷の奥の暗がりへ消えている。


「行こう。もしかしたら、助けが必要かもしれない。」

 真白は胸の奥が疼くのを感じながら、一歩を踏み出した。



谷の奥は、冷たく静かだった。

 水音もなく、空気が凍るように澄んでいる。

 やがて、倒れた木の陰で微かな鳴き声がした。


 真白は急いで駆け寄る。

 そこには、痩せ細った茶色の犬が横たわっていた。

 脚に傷を負い、毛は泥にまみれている。目はかすかに開いて、警戒するように光を宿していた。


「大丈夫。私は……敵じゃないよ。」

 ゆっくりと手を伸ばす。

 ノワールが静かに後ろで見守る。


 犬は唸りを上げかけたが、真白の手がそっと頬を撫でた瞬間、震える体を小さく丸めた。

 その瞳に、怯えと安堵が同時に浮かぶ。


 真白はソルナさんに持たせてもらった薬草を手のひらですりつぶし、傷にあてて包帯をまきつけ、水を少しだけ飲ませた。

「仲間は……どこ?」

 犬は弱々しく首を振る。

 その仕草を見て、真白は悟った。

 ——仲間を失ったのだ。


「……行こう、ノワール。仲間を探そう。」


 その言葉に、ノワールの尻尾が静かに揺れた。


 そのときだった。

 低い唸り声が、岩陰から響いた。


「……!」


 真白は立ち止まり、目を凝らす。

 すると、影の中から一匹、また一匹と、犬たちが現れた。

 痩せこけ、毛並みは乱れ、片足を引きずる者もいる。

 十数頭ほどの群れだが、皆、警戒の眼差しを真白に向けている。


「大丈夫……怖がらないで」


 逸る心臓を抑えながら、真白がゆっくりと手を差し出すと、犬たちは一斉に牙をむいた。

 そのとき、ノワールが彼女の後ろから飛び出て、静かに犬たちの前に立つ。


 黒い猫と荒れた犬たち。

 一瞬の沈黙ののち、ノワールが低く鳴いた。

 それは、人の耳には届かない、獣同士の挨拶だった。


 群れの先頭にいた大きな犬――黒に近い灰色の毛をした若い雄が、一歩前に出る。身体は他の個体より一回り大きかったが、群れと同じようにところどころに傷があり、毛並みも美しいと言えるものではなかった。

 その瞳には、警戒よりも迷いがあった。


 真白はそっとしゃがみ込み、かばんから水袋を取り出す。残りわずかな水を落ち葉に注ぎ、地面に差し出すと、犬は躊躇いながらも舌を伸ばした。


 その様子を見ていた他の犬たちも、次第に近寄ってくる。先程真白が手当てをした犬に駆け寄っていくものもいた。

喉を鳴らしながら、互いに匂いを確かめ合い、やがて一頭が真白の膝に鼻先を押しつけた。


 その温もりに、真白の胸がじんと熱くなった。


「あなたたち……泉に何があったの?知ってる?」


 犬たちは言葉を持たない。けれど、ノワールが一度だけ目を閉じ、心に響く声が届く。


『彼らは“恐れ”を見た。

泉の奥に棲む影が、勇気を奪っていったんだ。』


「恐れ……?」


『勇気の加護は、長い間、ここに眠っていた。

けれど、人がその存在を忘れ、信仰が消えたとき……恐れが根を張った』


 真白は犬たちを見渡した。

 その目には痛みと、何かを守ろうとする意志が見える。


「……泉を、取り戻そう。一緒に行こう」


 犬たちは一瞬ためらったが、群れのリーダーが吠えると、皆がその背を追った。

 風がわずかに吹き、乾いた谷に命の気配が戻る。





 谷の奥に進むほど、音が消えていった。

 鳥も虫もいない。風すらも沈黙している。

 やがて、視界が開け、そこに泉があった。

 泉は透きとおり、しかし底が見えない。

 水面には光も映らず、まるで空そのものを閉じ込めたようだった。

 水はあるのに、その回りの大地は少しの緑をのぞいて、乾いていた。


「……綺麗……でも、息が苦しい」


 真白がそう呟いた瞬間、泉の中心から波紋が広がった。

 胸の奥で、何かが囁く。


『戻れ……お前は、まだ早い……』


「誰……?」


『恐れるな……それは……お前の――』



 声は霧のように薄れ、周囲に影が立ちのぼる。

 それは人の形をした黒い影。

 恐れと後悔、悲しみの欠片が形を持ち、真白の周りを取り囲む。


 犬たちは唸り声を上げたが、恐怖に足がすくみ、後ずさる。ノワールが真白の前に立ち、毛を逆立てる。


『これは“恐れ”そのもの。泉を覆う呪いだ』


「でも、こんなの……どうすれば……」


 真白の喉が震える。手が冷え、膝が力を失いそうになる。そのとき、泉の奥からかすかな光が差した。


 真白は拳を握りしめ、犬たちを見た。


「怖いのは、私も同じ。でも……誰かを助けたいって気持ちは、その先にある」


 その言葉に呼応するように、灰色の犬が一歩踏み出した。 次の瞬間、彼は吠えた。

 鋭く、澄んだ声が、闇を震わせる。


 犬たちも続き、吠え声が谷に響く。

 その波が霧を裂き、光が差し込む。


 私も、強く願う。強く。

 

 祈るようにして組んだ両手からも、光が溢れだしてくる。


 霧が晴れると、泉の中央に一匹の巨獣が横たわっていた。水がはっているのに沈むことはなく、呼吸にあわけて少しの波紋を響かせていた。

 白銀の毛並み。月光のような輝き。

 それは――白狼だった。


 ゆっくりと目を開ける。瞳は深い琥珀色。

 真白を見つめ、静かに言葉を放つ。


「勇気の焔は、まだ絶えてはいなかったのだな」


 白狼は静かに歩み寄り、泉の縁で立ち止まった。

 真白は恐れを抱えながらも、まっすぐに見上げた。


 犬たちは頭を垂れ、白狼の前に跪いた。

 白狼は彼らを見回し、柔らかく目を細める。


「恐れを抱くことを恥じるな。

真の勇気とは、恐れを抱えそれでもなお、誰かのために歩むこと、立ち向かうことだ」


 白狼は真白に視線を移す。


「汝の心が恐れを包み、恐れが勇気を呼び覚ます。願いと祈りは聞き入れた。」


 その声とともに、泉が光を帯びた。

 水が流れ出し、谷の裂け目を伝って森の奥へと、村の方へと帰っていく。乾いた土が潤いを取り戻しはじめ、風が再び歌い出す。


 白狼はノワールに目を向けた。


「……黒き月の眷属よ。お前もまた、この子を導く役目を持つ」


『昔は、そんな呼び名で呼ばれたこともあったな』とノワールは小さく呟いた。


「近くの人の住む場所で、深い恐れを感じたものがいる。それが強かったのだろう、ここまで影響があったようだ。おまえならそれを取り除ける。人の子よ、調和を保つのだ」


 白狼は静かに微笑み、霧のように溶けて消えていった。残された泉には、穏やかな光の環が漂っていた。




谷を抜けると、空が広がっていた。

 遠くの木々が揺れ、村の方向から煙が上がる。

 風がやわらかく頬を撫でた。


「……私、少し怖かったけど、行ってよかった。」

 ノワールが肩で丸くなる。


「お前は本当に不思議な人間だな、真白。恐れを抱いてなお進むなんて、普通はできん。」


 真白は微笑んだ。

「でも、犬たちは勇気をくれた。きっとあの泉は、試したんだと思う。私が本当に“信じて進めるか”を。」



 真白が村へ戻ると、子どもたちが歓声を上げた。

 井戸から水が溢れ出し、人々が壺を抱えて走っている。

 ソルナが腕を組んで立ち、にやりと笑った。


「やったねぇ、真白。泉がまた歌い出したよ」


「……よかった。本当に、よかった」


 真白は力が抜けるようにその場にしゃがみ込み、ノワールを抱き寄せた。

 犬たちも後ろで吠え、村の空に声を響かせる。


 その音は、まるで祝福のようだった。


「ノワール……また、誰かを助けたいって思えるかな」

(それはもう、勇気ってやつの一部だろ)


 夕陽が沈みかけ、村を金色に染める。

 泉の光が遠くで瞬き、白狼の声が風に混じった。


「調和の使いよ――まだ見ぬ加護が、汝を待つ」


 真白は静かに空を仰ぎ、胸の奥でそっと呟く。

「ありがとう。……次も、きっと、誰かを助けに行く」


 風が優しく頬を撫でた。

 それはまるで、勇気そのものが微笑んだかのようだった。




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