影のさざめき
春のような風が吹いていた。
それは確かに、あの日の雨のあとから変わった風だった。
村の空気が、やわらかく、どこか軽やかに揺れている。
暑すぎる日差しもやわらかく、地面を照らしている。
真白が通りを歩くと、窓を開けた家から笑い声が漏れた。
森に動物たちの姿も戻ってきているらしい。多くはないがその村の人が満足に腹を満たせるくらいには狩猟もできている。
久々の新鮮な肉料理にソルナも腕をならしていた。
内蔵の一部は食べることはできないが、皮や脂、骨までも余すことなく利用する。
内蔵の一部や骨はしっかりと乾かして、粉砕すれば畑の栄養になるのだ。
村の中を走る子どもたちの頬には土の跡があり、畑では芽が次々と顔を出している。
ウサギを追っていたあの少年が、今は芽に水をやっていた。
「おはようございます!」
声をかけると、少年は少し照れくさそうに頭を下げた。
「姉ちゃん、この芽ね、昨日より伸びたんだ。父ちゃんがね、これなら近いうちに収穫できるって」
「ほんと? すごいね」
「……姉ちゃんの言った通り、ちゃんと“ありがとう”って言ったからかな」
真白は笑った。
「きっと、それが一番大事なんだよ」
風が畑の上を通り抜ける。
草の匂いと土の温もりが、胸の奥まで沁み込んでくるようだった。
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宿へ戻ると、ソルナが台所で野菜を刻んでいた。
「おかえり、真白。畑はどうだった?」
「みんな元気です。芽がたくさん出てきてて、子どもたちも笑ってました」
「そうかい。あたしも朝、畑の様子を見に行ってね。
なんとなくねぇ……久しぶりに祈りたい気分になったんだ」
ソルナは包丁を止め、にこりと笑った。
「まったく、あんたのせいで村が少しずつ賑やかになっちまったよ」
「わたしの、せい?」
「いい意味でさ。……ただ、浮かれてるのはあたしたちくらいかもね」
「どういうこと?」
ソルナは眉をひそめ、声を落とした。
「村の長老たちが、あんたのことを話してるって。
“異国の女が奇跡を呼んだ”だの、“獣の呪いを使った”だの。
ま、よくある話さ。人は変化を怖がるもんだよ」
真白の心臓がどくんと鳴った。
「……怖がってるのは、わたしかもしれない」
ソルナは包丁を置いて、真白の肩に手を置いた。
「あんたはあんたのままでいいんだよ。
人の心は簡単には変わらない。でも、時間をかければ風だって水だって岩を削る。そういうもんさ」
その言葉は、あたたかくも深く胸に染みた。
夜。
ノワールが軒下で丸くなりながら、ゴロゴロと喉をならしている。
真白に頭を撫でられるのが気持ちいいみたいだ。
突然頭をあげ、低く呟いた。
(風の匂いが変わったな。少し、ざらついてる)
「ざらついてる?」
(森の奥で、何かが騒いでる。長く眠ってたものが、少しずつ目を覚ましてる気配がする)
真白は空を見上げた。
星がひとつ、またひとつ、雲の向こうで揺れていた。
「ねえ、ノワール。あなたは……昔からこの世界にいるの?」
(…長い間、いろんな“使い”と旅をしてきた)
「使いって、わたしみたいな?」
(似てるけど違う。……きみみたいな子は少なかった)
ノワールは少し目を細めた。
(ある“使い”は人を信じすぎて滅んだ。
別の“使い”は力を恐れて逃げた。
ぼくはそれを見てきた。だからもう、人を信じないって決めてたんだ)
「なのに、わたしにはついてきてくれた」
(きみの手に触れた時、懐かしい温もりを感じた。
それが何かは、まだわからないけどね)
風がノワールの黒い毛を揺らした。
真白はノワールの頭に手を戻しながら、少し笑った。
「ありがとう、ノワール。あなたがいてくれてよかった」
ノワールは目をそらしながら、
……まったく、素直な子だねと呟いた。
その夜の半ば、村の外れから獣の叫びが響いた。
地鳴りのような唸りと共に、犬たちの吠える声が重なった。
ソルナが戸を開ける。
「なんだい、今の音……!」
「森の方です!」
真白は急いで靴を履き、外へ飛び出した。ノワールが後を追う。
森の入り口では、数頭の鹿が怯えたように駆けていくのが見えた。
その奥に、赤い光がちらりと見える。
「……火?」
ノワールが耳を伏せた。
(違う。これは“怒り”の光だ)
森の中に踏み入れると、空気がざわざわと震えていた。
地面の下から脈打つような鼓動が伝わる。
真白は思わず耳を塞いだ。
(怖い……けど、逃げちゃだめ)
木々の間に、影のようなものがうごめいている。
それは獣の形をしているようで、どこか違った。
目が赤く光り、まるで何かに苦しんでいる。
「ノワール、あれは……?」
(かつて加護を失い、心をなくした獣——“歪み”だ。
加護を忘れた土地では、こうして命が壊れていく)
「助けられないの?」
(普通は、無理だ。だが——)
真白の足元に、あの本からこぼれた文字のような光が広がった。
風が彼女の髪を持ち上げる。
心の奥で、あの声が再び響いた。
——『思い出して。呼んであげて。』
真白はそっと両手を胸にあてた。
「……どうか、もう苦しまないで」
光が広がり、森全体を包み込んだ。
赤い影がゆっくりと形を失い、溶けていく。
代わりに、そこに小さな芽がひとつだけ残った。
ノワールが低く息を吐く。
(……やっぱり、きみは“調和”を呼ぶ子だ)
「ちがうよ。ただ……放っておけなかっただけ」
(それでいい。きみはそれでいい)
風がやんだ。
森の奥から、夜鳥の鳴く声がした。夜が明けた。
森の奥から鳥の声が聞こえ、陽が地面の露をきらめかせていた。
けれど、村の空気はどこか張りつめていた。
人々はざわめきながら広場に集まっている。
真白の姿を見つけた老人のひとりが、杖を突きながら声を上げた。
「見たぞ、昨夜の光を……! あの女がまた何かやったんだ!」
「森の獣が消えた。あれは神の怒りじゃねぇのか?」
「いや、あの子のおかげで助かったんだよ!」
「だが、加護を持たぬ者が“光”を使うなんてありえん!」
怒声と不安とが入り混じり、空気が渦を巻く。
真白は立ち尽くした。
何を言えばいいのか、わからなかった。
「そこまでにしな!」
その声に人々が振り向いた。
ソルナだった。
腰に手を当て、堂々と前に出る。
「昨夜、あたしも見てたよ。
あんたらが言う“神の怒り”なんかじゃない。
あの光で、森は静かになったんだ。見りゃわかるだろ?」
「ソルナ、おまえ……異国の女に肩入れするのか?」
「肩入れ? 笑わせるねぇ。
あんたら、自分の目で見て確かめることもせずに、
噂だけで人を責める。
加護を忘れちまったのは、あんたらのほうじゃないのかい?」
一瞬、沈黙が落ちた。
風が吹き抜け、乾いた土が舞う。
ソルナはそのまま真白の腕をとって歩き出した。
「ほら、行くよ。こんなところに長居したって、何も変わらない」
宿に戻ると、彼女は大きくため息をついた。
「まったく、村の連中は都合のいい話だけは信じたがるんだから……」
「ソルナさん、ごめんなさい。わたしが、何か……」
「謝ることじゃないさ。
あんたが何かを“呼んだ”のは確かだろうけど、それは悪いもんじゃない」
ソルナは湯気の立つお茶を真白に渡した。
「人はね、目に見えないものを恐れる生き物だよ。
だけどあたしは、あんたの目の中にあるもんを信じたいね」
真白は小さく頷いた。
心の奥が少しあたたかくなったような気がした。
---
その夜。
ノワールは屋根の上から星を見ていた。
真白も隣に腰を下ろす。
「ねえ、ノワール。
この村はどうして、こんなに“加護”を忘れてしまったんだろう」
(昔、人は神と近かった。
でも、力を手に入れるほどに神を遠ざけたんだ。
“加護”もまた、都合よく願う道具にされていった)
「……だから、動物たちは離れていったの?」
(そうだ。けれど、完全には消えていない。
加護の記憶は、風にも、木にも、命にも残っている。
きみがその“声”を聞くのは、その記憶がきみに応えているからだ)
真白は星を見上げた。
「……じゃあ、あの影も、誰かの記憶の名残なのかな」
(もしかしたらね)
ノワールの声が、夜風に溶けていく。
(けれど、きみがあの光を放った時——
“誰か”が目を覚ました気配がした。
遠い昔、調和を守っていた存在。
その名は、風の奥でまだ眠っている)
真白は目を閉じ、耳をすませた。
草の音、虫の声、遠くの川のせせらぎ。
その中に、微かな囁きが混じっていた。
——『ありがとう。』
心の奥で、涙が滲む。
「ノワール……わたし、これからどうしたらいいのかな」
(焦ることはない。
助けたいと思う心がある限り、道は自然に現れる)
ノワールの瞳が、やわらかく輝いた。
(ただ——その道の先で、きみは“選ばなきゃ”ならない。
光か、影か。あるいは、そのどちらでもないものか)
真白はその意味をまだ知らなかった。
けれど、夜空の星々は彼女の小さな決意を照らしていた。
翌朝。
ソルナが真白に、古びた地図のようなものを差し出した。この村とその周辺の地図らしい。
「これね、あたしの店の物置にあったんだけど、
昨日、棚を片づけてたら出てきたのさ」
地図の端には、古い文字がかすれて刻まれていた。
「……これ、どこへ続いてるんだろう」
「昔、動物たちと人が共に祈りを捧げた場所があるらしい。
でも、今じゃ誰も行こうとしない。
森を抜け、丘を越えた向こうの“沈黙の泉”——」
真白は地図を見つめた。
風がまた、やさしく頬をなでる。
「行ってみたい。……もしかしたら、何か思い出せる気がする」
「そう言うと思ったよ」
ソルナは笑い、手ぬぐいで手を拭いた。
「だったら、食料と毛布と薬草も少し持っていきな。
あんたが帰ってくるまで、あたしの宿はちゃんと残しておくから」
真白は深く頭を下げた。
「ありがとう、ソルナさん。必ず、戻ってきます」
「ふん、約束だよ」
その声は、少しだけ震えていた。
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真白はノワールとともに、村のはずれを歩き出す。
朝の光が森の入口を照らしていた。
土の匂いが新しい旅の始まりを告げている。
ノワールが尻尾を揺らし、振り返った。
(また誰かがきみに“声”を送るかもしれない)
「うん。そのときは、ちゃんと聞こえるように心を静かにする」
(それでいい)
ノワールがにやりと笑う。
(さて、行こうか。加護の眠る場所へ)
木漏れ日の中、二人の影がゆっくりと森に消えていった。
風がその背を押すように吹き抜け、
遠くで、フクロウの鳴き声が響いた。
——それはまるで、失われた知恵が再び目を覚ます合図のようだった。




