忘れられた加護
朝靄がまだ村の屋根を包むころ、真白は宿の裏手で桶に水を汲んでいた。
行き場のない真白は、宿を借りるという条件で、ソルナの仕事を手伝っていた。
冷たい水が手のひらを打ち、かすかに光を反射する。
真白が来てからの数日、村の空気は重く、乾いていた。
夏が近づいているというのに風が吹いても土埃が舞うだけで、雨の気配はまるでない。
「……この村、前はもっと緑があったんだよ」
そう言ったのは、宿の主であるソルナだった。
料理をするために薪を取りにきたらしい。
彼女は笑おうとして、少しだけ目を伏せた。
「でももう何年も、畑は痩せる一方で。動物たちも森に帰ってこない。狩りをする男手が食料を手に入れようと何度も森には入っていたんだけどね。みんな、神様に見放されたって、村をでていく人もいた。」
真白は手を止め、指先から落ちる水をじっと見つめた。
見放された、という言葉が心に刺さる。
(……見放されたんじゃなくて、きっと……)
何かが離れていったような、そんな感覚が胸の奥でざわめいた。
ノワールは縁側で丸くなりながら、半分目を閉じている。
(人は勝手なものさ。加護をもらっていたことすら、もう覚えちゃいない)
「加護?」
真白が顔を上げると、ノワールは欠伸をしてから静かに尾を揺らした。
(この世界の動物たちは、昔“神の使い”と呼ばれていた。
それぞれが人の心に寄り添い、世界を豊かにしていた。
……でも、今じゃ信じる者なんてほとんどいない)
「神の使い……」
真白は口の中でそっと繰り返した。
夢の中で聞いた声がふと蘇る。
——『たすけて』
——『思い出して』
あの声も、もしかしたら。
「ノワール、その加護って、今も残っているの?」
(……さあね。信じる心がなければ、風だって止まる。
でも、きみの手は少し違うみたいだ)
「わたしの手?」
(きのう倒れてた子犬に触れたろう? あの子、翌朝には立ってた。普通じゃない)
真白は胸の前で手を見つめた。
「そんな……ただ、温かくなってほしいって思っただけなのに」
ノワールは短く鳴いた。
(それで充分さ)
そのあと、真白は宿の手伝いを始めた。
掃除、洗濯、料理の下ごしらえ。
働く代わりに食事と寝床を与えられる。
動物の世話を買って出ると、ソルナは少し驚きながらも嬉しそうに頷いた。
「この村では珍しいね。みんな、もう動物を怖がってばかりで」
ソルナのお使いで、村の通りを歩くと、どこかに疲れが滲んでいた。
家々の壁はひび割れ、井戸の水は少なく、子どもたちの笑い声も短い。
ときおり野良犬が姿を見せると、大人が慌てて石を投げる。
真白の胸はきゅっと縮んだ。
(どうして……こんなに優しいはずの世界が、こんな顔をしているんだろう)
その夜、ノワールは屋根の上から星を見上げていた。
(この空も、むかしはもっと澄んでた)
「知ってるの?」
(長く生きてるからね。ぼくたちはずっと、見てたんだよ——思いや願い…信仰が消えていくのを)
風が少し吹き、真白の髪を撫でた。
星々の間に、どこか懐かしい囁きが混じる。
——『思い出して』
真白は思わず立ち上がった。
「いま、聞こえた……」
ノワールが目を細める。
(また“声”か?)
真白は頷く。胸の奥がざわざわと波立つ。
夢の中だけでなく、現でも聞こえるようになっている。
まるで誰かが、境界の向こうから呼んでいるように。
翌朝。
ソルナと物置を掃除していると、真白は埃をかぶった古い本を見つけた。
表紙は裂け、金の文字がほとんど消えている。
「これ……」
ページをめくると、動物の絵と共に古い文が並んでいた。
「あら、懐かしいじゃないか。この本ね、あたしが小さい頃に祖母によく読んでもらってたんだよ。よくあるむかしむかしってやつさ。」
この世界が暗闇に包まれていたころ。人間はひっそりと暮らしていた。
そこへ動物がやってきて、光をもたらした。
その光は様々で、水を通わすものもいれば、力をくれるものも、勇気をくれるものもいた。一番大きな影響をくれたのは風だった。
風はどこにでもあり、どこへでもいける。
暗闇は少しずつ消え去り、光をもたらした動物のことを加護の獣と人は呼び、助け合いながら人間は繁栄することができた。
ざっくりとした本の内容をソルナから教えてもらう。
「“加護の獣”……」真白がそっと呟く。
その文字を指でなぞった瞬間、ふっと温かな風が頬を撫でた。
どこからともなく花の香りがした。
(おいおい……本が息をしてるじゃないか)
ノワールが目を丸くした。
真白の指先は微かに光を帯びている。
「これ……読めないはずなのに、何となくわかる気がするの」
“共に生きる者、祈りを忘れし時、加護は眠る”……そんな言葉が浮かんでくる
ノワールは尻尾を揺らした。
(それは“記憶を呼ぶ書”。古の祈りが刻まれてるんだ)
真白は本を抱きしめた。
そのぬくもりが、どこか人の心に似ていた。
昼下がりの陽射しはやわらかく見えて、どこか頼りなかった。
真白は宿の裏庭で、洗い桶の中の布を絞っていた。
手は赤くなり、水はひんやりと冷たい。
屋根の上からノワールがのびをして、欠伸をひとつ。
「よく働くねぇ、あんたは」
背中からソルナの声がした。
振り向くと、腰に手を当てて立っている。
髪に混じる白が夕陽に照らされて、柔らかく光っていた。
「手が慣れてきたじゃないか。水の扱いも上手いもんだよ」
「ほんとですか?」
「うん。あたしも最初は、桶をひっくり返してばっかりだったさ」
ソルナは声を立てて笑った。
その笑い声に、真白の胸の奥の硬いものが少しずつほどけていく。
「そういえばね、村の子らがウサギを追いかけてたよ。
ほら、北の畑のほう。どうせいたずら半分だろうけど……」
ソルナはため息をついた。
「あんた、気になるなら行ってきな。
あたしは洗濯の続きをしとくから」
真白は頷いた。
「ありがとう、ソルナさん」
北の畑へ行くと、子どもたちが二、三人、石を投げていた。
その先には、小さな白いウサギが怯えながら丸くなっている。畑の端に追いやられ逃げ場をなくしたようだ。
毛が泥で汚れ、呼吸が速い。
「やめて!」
真白の声が風を切った。
子どもたちは驚いたように振り返る。
「どうしてそんなことするの!」
「だって、こいつ畑の芽を食べたんだ! 父ちゃんが殺せって!そしたら今日の食い扶持にも困らないって!」
少年の手には小石が握られていた。
真白はゆっくり近づく。
「……ねえ、命を奪うなら、祈ってあげて」
「い、祈る?」
「そう。生きてるものを食べるなら、“ありがとう”を言うの。この子たちは、昔からそうやって人と生きてたんだよ」
子どもたちは顔を見合わせた。
誰も何も言わなかったが、少年が小石を落とした。
その瞬間、ウサギがぴくりと耳を立てた。
真白が手を伸ばすと、白い毛並みが指に触れる。
ふわりと風が流れ、ウサギは穏やかに森の方へ跳ねていった。
「……ほらね、もう怖くない」
真白が笑うと、子どもたちの顔も少しだけ緩んだ。
「変な人だなぁ、姉ちゃん」
「うん、でも、なんかきれいだった」
夕方。
空気が少し湿っていた。
久しぶりに、雨の匂いがする。
「真白、戻ったかい?」
ソルナが火を焚きながら声をかけた。
「うん、ウサギ、無事に森に帰ったよ」
「そうかい。……あんたが来てから、風が変わった気がするね」
「え?」
「さっきから、妙に空気が軽いんだよ。あたしの膝まで痛くない」
ノワールが笑ったように尻尾を揺らす。
(それが“加護”ってやつかもね)
夜になると、窓の外で静かな雨が降り始めた。
土の匂いが立ち上り、屋根を叩く音が優しく響く。
ソルナは暖炉の火を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……あたし、小さいころに聞いた話を思い出したよ」
「本のこと?」
「ああ。動物たちはね、昔、神さまの息吹を分けてもらってたんだって。それを“加護”って呼んでた。人と心を通わせてた時代さ」
「どうして、今は違うの?」
「欲が強くなったからだろうね。
恵みをもらうのが当たり前になって、“ありがとう”を言わなくなった。
あたしらも、いつのまにか祈りを忘れたんだ」
ソルナは火の揺らぎに照らされていた。
その顔は優しく、けれどどこか寂しそうだった。
「真白。あんたが来てから、みんなの心が少し変わった気がするよ」
「そんなこと……」
「あるさ。あんたがウサギを助けたあのから、畑に芽が出た。枯れてた土に、小さな緑が顔を出したんだ」
真白の胸が高鳴った。
「……ほんとに?」
「嘘言ってどうするのさ。あたしはこの目で見たんだ。
もしかして、加護が戻りはじめたのかもしれないね」
ノワールがゆっくり瞬きをした。
「小さな祈りが、世界を少しずつ起こす。……そんなものさ」
真白は火の揺れを見つめた。
雨音が屋根を伝い、静かな旋律を奏でる。
胸の中にあの声がふと蘇る。
——『思い出して。みんな、忘れてしまっただけ』
「……だれ、なの?」
呟いても、答えはない。
ただ、雨がやさしく、あたたかく降り続いていた。
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翌朝。
夜の雨で湿った地面から、小さな芽が一面に伸びていた。
畑に集まった人々がざわめく。
「奇跡だ」「まさか本当に……」
その中には昨日ウサギに石を投げようとしていたこどもの影もあった。
ソルナが腕を組んで空を見上げる。
「真白、あんた。これ、あんたのしわざかい?」
「わたし、なにも……」
「はは、そう言うと思ったよ」
ソルナは笑って、真白の肩をぽんと叩いた。
「でもね、“なにもしてない”ように見えて、
人は一番大事なことをしてるもんだよ」
ノワールが畑の端から静かに言った。
(目覚めの一歩さ。忘れられた加護が、また息をし始めた)
真白は空を仰ぐ。
雲の間から光が差し、村の屋根を金色に染めていた。
手のひらの温もりが、まるで何かの鼓動のように脈打っている。
(——みんな、忘れてしまっただけ。
だったら、思い出せばいい。
優しさも、祈りも、ここにちゃんとある)
風が吹いた。
ノワールの毛並みが光を受けてきらりと揺れる。
(さあ、次はどんな声を聞かせてくれるのかな、真白)
真白は笑った。
その笑顔の先に、まだ知らない未来が続いていた。




