森を出る日
朝の森は、まるで光そのものが息をしているようだった。
葉の一枚一枚が朝露を抱き、風が通るたびにきらめきを散らす。
真白は、腕の中で小さく丸まる子猫の寝息を確かめながら微笑んだ。
「よかった……もう震えてない」
木の上からノワールが軽やかに降りてきた。
(森がようやくお前を受け入れたようだ。)
「受け入れた?」
(この森は、命を試す場所。純粋なものしか奥まで進めぬ。)
真白は小猫の寝顔を見つめ、胸の奥に温かい痛みが広がるのを感じた。
「守られてたんだね……森も、この子も。」
ノワールは静かに尾を揺らした。
(そろそろ行くといい。人の住む村がある。お前を受け入れる者がいるはずだ。)
真白は少しだけためらった。
森を離れるのが、怖かった。ここは穏やかで、すべてが優しい。不思議と空腹も喉の乾きも感じなかった。
夜の風も真白の体温を奪うことはなかった。
でも、あの夢の声がまだ心に残っている。
——「たすけて」
あの言葉が、どこか遠くから、今も呼んでいる。
「……うん。行ってみる。手がかりは何もないけど、私ここで生きていかなきゃならないんだよね」
ノワールが先を歩く。森の木々が静かに揺れ、まるで彼女を見送るように道が開いていった。
小鳥が枝から枝へと飛び、リスが道端を横切る。
世界が少しずつ広がっていく音がした。
やがて木々の間から光がこぼれ、視界がひらけた。
そこには、石造りの家がいくつも並ぶ小さな村が広がっていた。
煙突からは白い煙がのぼり、遠くからは人々の話し声が聞こえる。
家の近くには畑のようなものも見える。馬が荷車を引いているのも遠くに確認できる。
初めて見る“異世界の日常”だった。
胸がどきどきと高鳴る。
ノワールが振り返った。
(気をつけろ。この世界では獣は“働くもの”とされている。お前のように声を聞こうとする者は、ほとんどいない。)
——同時に、胸の奥に小さな不安が灯る。
その言葉を聞いた矢先、村の入り口で怒鳴り声が上がった。
「動け、このノロマ!」
男が小さな荷車を引かせている犬を鞭で打った。
犬は高い声をひとつだけ響かせ、細い体を震わせながら、しっぽを丸めて耐えていた。
頭は地面に向かって項垂れて、その目には、痛みよりも“あきらめ”が宿っていた。
真白の足が自然と前に出る。
「やめてください!」
男が驚いて振り向いた。
「なんだお前は? 旅人か? この犬は仕事をサボったんだ!人の事情に他人が口を出すんじゃねぇ」
「でも、傷ついてるじゃないですか……」
男は鼻で笑った。
「傷ついてるからなんだ。働けない獣なんて、荷物にもならねぇよ」
その瞬間、真白の中で何かが弾けた。
胸の奥が熱くなり、言葉がこぼれた。
「そんな言い方、しないで……この子も、怖いだけなのに!こんなに痩せ細って、身体も傷だらけで、どうやって満足に働けと言うんですか!」
男が怒鳴り返そうとしたとき、風が突然吹き抜けた。
荷車の縄がほどけ、犬がふらりと体をよろめかせる。
そしてまっすぐに真白の方へ駆けてきた。
「だいじょうぶ、もう怖くないよ」
犬は真白の胸に飛び込み、荒い息を吐いた。
真白はその頭を抱きしめ、震える体を撫でた。
ノワールがその隣で低く唸ると、男は何も言えず後ずさった。
「……化け猫かよ……」と呟き、男は中の荷物だけを背負い、荷車を残して逃げていった。
犬の体は痩せていたが、瞳の奥に小さな光が戻っていた。
真白はノワールを見つめた。
「この子……私、助けていいのかな」
(助けたいなら、理由はいらん。)
その言葉に、真白はゆっくりと頷いた。
犬を抱えて、村の奥へと進む。
人々の視線が集まる。誰もが、黒髪の少女と黒猫と犬の奇妙な組み合わせに驚いていた。
ノワールが尾を揺らし、言った。
(“ソルナ”という宿を探せ。あの女は耳が良い。きっと分かってくれる。)
村の広場を抜けた先、小さな宿屋が見えた。
木製の看板には“ソルナの宿”と彫られている。
花の鉢が並び、窓からはパンの香りが漂ってきた。
扉を叩くと、中から女性の声がした。
「どうぞ——って、あら?」
現れたのは栗色の髪の女性だった。
白い頭巾を被り、ふくよかな体型の腰元には頭巾と同じであろう生地のエプロンをつけている。
彼女は真白と犬を見て、驚いたように目を丸くする。
「あんた……旅人かい? その犬、どうしたの?」
「森の手前で……助けたんです。怪我をしていて…」
女性——ソルナはしばらく見つめたあと、やわらかく笑った。
「そう。放っておけなかったんだね」
その笑顔に、真白の胸の緊張がすっとほどけた。
ソルナは犬を部屋の奥に案内し、
薬草をすりつぶして優しく塗ってくれた。
その手つきは迷いがなく、どこか懐かしい温もりがあった。
「ここではね、動物を“守る”人は少ないの。
みんな生きるのに精一杯だから……」
真白は言葉を失った。
その一言が、胸の奥に深く響いた。
ノワールが窓辺から外を見ていた。
(……珍しい女だ。調和の響きを持っている。)
「調和……?」
真白が小さく呟くと、ノワールはそれ以上言わなかった。
夜。
宿の部屋で、真白は犬の寝息を聞きながら目を閉じた。
窓の外では風がやさしく歌い、遠くの森が揺れていた。
——ありがとう。
どこからともなく、あの声が聞こえた。
夢かもしれない。でも、確かに耳に残った。
犬が小さく寝返りを打ち、穏やかな息を吐いた。
ノワールが月明かりの中で目を細める。
(お前の選んだ道は間違っていない。
だが覚えておけ。優しさはときに孤独を呼ぶ。)
「それでも……放っておけないんだ」
真白は静かに犬の背を撫でた。
指先に伝わる命のぬくもり。
それはこの世界で初めて、自分の存在を確かに感じた瞬間だった。
夜の帳が降り、灯りが消える。
その静けさの中、真白の心には小さな光が灯っていた。
まだ名前も意味も知らない“調和”という言葉が、
そっと胸の奥で形を作り始めていた。




