約束を
人々は、名を与えた。
それは畏れからでも、崇拝からでもない。
ただ、そう呼ぶしかなかったからだ。
――神霊・真白。
森に近づけば、獣が逃げなくなった。
荒れた土地に足を踏み入れれば、風が道を示すことがあった。
だが、祈りに応えることはほとんどない。
「昔は、願えば何でも叶ったらしい」
「違う。あの方は、奪う願いには応えなかったそうだ」
語りは少しずつ歪み、やがて伝承となる。
神霊は気まぐれだ。
神霊は裁く。
神霊は人を選ぶ。
けれど、どの話にも共通していることがあった。
――嘘をつかず、願った者だけが、助けられた。
ガルドリア王は、最後まで理解しなかった。
土地が痩せ、民が離れ、
それでも彼は「力が戻る日」を待ち続けた。
「信じればいいのか? 祈ればいいのか?」
「そうすれば、あの力は戻るのか?」
誰に問うても、答えはない。
王は知らなかった。
信じるとは、結果を求めることではないと。
願うとは、支配を手放すことだと。
そして王の国は、ゆっくりと、確実に沈黙していった。
レイン村の外れ。
森に近い小さな家で、子どもが一人泣いていた。
大人たちは忙しく、誰も気づかない。
日が暮れ、風が冷たくなる。
「……かえりみち、わからない」
小さな声が、震えながら零れた。
そのとき。
黒い猫が、森の影から現れた。
金の瞳が、子どもをまっすぐに見る。
逃げもしない。鳴きもしない。
「……ねこ?」
猫はゆっくりと踵を返し、歩き出す。
振り返り、確かめるように尾を揺らす。
子どもは、迷った末に後を追った。
森は暗くない。
枝は道を塞がず、風は優しく背を押す。
やがて、見覚えのある小道に出る。
「あ……」
子どもが振り返ると、猫の姿はなかった。
代わりに、風がそっと頬を撫でた。
――だいじょうぶ
――ちゃんと、届いているよ
声は聞こえた気がした。
けれど、確信はない。
それでも子どもは、泣き止んでいた。
森と荒野の境。
真白はそこに立っていた。
人の姿ではない。
けれど、かつて人であった記憶は、消えていない。
「……願いは、まだある」
それだけで、十分だった。
すべてを救う必要はない。
信じない者を変える義務もない。
それでも、願いがある限り――
彼女は応える。
風は今日も、どこかへ向かって吹いていく。
小さな声を、運ぶために。
季節が巡り、名は伝承となった。
神霊・真白。
その名を口にする者は、もう多くない。
信じるには曖昧で、
恐れるには優しすぎる存在だったからだ。
森は今も森として在り、
荒野は、完全には戻らぬまま、ゆっくりと呼吸をしている。
ガルドリアの国境は薄れ、
かつての王の名を覚えている者も、ほとんどいない。
人々は言う。
「世界は厳しくなった」
「奇跡の時代は終わった」
けれど、それは半分だけ正しい。
奪えば、何も応えない。
支配すれば、沈黙が返る。
それだけのことだった。
森と荒野の境に、今日も風が吹く。
そこに立つ存在を、人はもう見分けられない。
影か、光か、ただの揺らぎか。
黒い影が、静かにその足元を歩く。
金の瞳が、遠くを見つめている。
「……今日も、声があったね」
返事はない。
けれど、風がわずかに強くなった。
それで十分だった。
真白は、もう名を呼ばれなくてもいい。
姿を知られなくても、恐れられても構わない。
ただ――
願いが、願いのままである限り。
森に迷う子がいれば、
荒野で膝を抱える者がいれば、
誰にも聞かれず、ただ助けを求める声があれば。
約束は、そこに在る。
今日も、どこかで。
小さな願いが、風に乗って森へ届いている。




