小さな命のこえ
夜が明けると、森は光の粒で満ちていた。
葉の隙間からこぼれる朝陽が、露を照らしてきらめく。
遠くでは小鳥たちが短い歌を交わし、
どこまでも澄んだ風が森をやさしくなでていく。
真白は木の根もとで目を覚ました。
頬に当たる風の感触が、現実の証のように感じられる。
「……本当に、夢じゃなかったんだ」
周りを見渡すと、見たことのない植物が群れ咲いていた。
青い花弁の中に光の粒が宿り、触れるとふわりと空へ溶けていく。
まるで息づく星の欠片のようだった。
その光景を呆然と見つめていると、草むらの向こうからノワールが姿を現した。
金の瞳は、夜と朝のあいだを渡る光のように静かだった。
(起きたか。人間のくせに、よく眠る。)
「……おはよう、ノワール」
(挨拶を覚えたか。ふむ、悪くない。)
口調はそっけないが、どこか楽しんでいるようにも見える。尻尾の先がふわりと揺れる。
真白はくすりと笑った。
「ここは、どこなの?」
(アルメリアの森。この世界の“境”のひとつだ。)
「境……?」
(世界と世界のあわいだ。お前がいた場所と、こちらとを隔てる。
だからこそ、お前のような異界の者がたどり着く。)
ノワールの声は淡々としているのに、不思議と安心する。
どこか遠い記憶を語るような調子だった。
そのときだった。
かすかな鳴き声が、風の中に混じった。
「……今の、聞こえた?」
(ああ。森の奥だ。)
真白は声のする方へ駆け出した。
枝が髪に触れ、草が足元で揺れる。
近づくにつれて、鳴き声が弱くなるのがわかった。
小さな開けた場所に出ると、そこには一匹の白い小猫がいた。
足に罠のような蔦が絡まり、身動きが取れなくなっている。母猫や兄弟たちの姿は近くにない。
呼吸が浅く、瞳は不安で震えていた。
「大丈夫……怖くないよ」
真白はしゃがみこみ、そっと蔦をほどこうとした。
触れた瞬間、冷たい痛みが手に走った。
蔦が生きているように、ぎゅっと締めつけてくる。
「離して……この子、苦しんでるの」
蔦は一瞬、ためらうように揺れた。
その瞬間だった。
胸の奥で、あの“声”がふっと響いた。
——お願い。たすけてあげて。
真白は目を閉じ、息を整えた。
恐怖よりも、何かあたたかいものが体の中に満ちていく。
その手を再び伸ばすと、蔦の力が少しずつゆるんでいった。
やがて蔦は音もなく枯れ、土の上に崩れ落ちた。
小猫は怯えたように小さく鳴いたあと、真白の手に顔をすり寄せてきた。
「……よかった」
涙が頬を伝った。
痛みも疲れも、今はどうでもよかった。
ただこの命が助かったことが、何より嬉しかった。
少し離れた木の枝の上で、ノワールがその様子を見ていた。
金の瞳に映るのは、どこか複雑な光。
(……やはり、感じ取るのか。
この森の“声”を……)
真白は気づかぬまま、小猫を抱き上げた。
体温が小さく震えている。
その鼓動を確かめるように、胸の前で包み込む。
「もう大丈夫。痛くないね」
小猫はふにゃりと鳴き、真白の掌に顔をうずめた。
その仕草が可愛くて、思わず笑みがこぼれる。
目と目の間を優しく撫でると、大きなあくびをして目を細める。
ノワールが枝から軽やかに飛び降りた。
(お前、人間にしては奇妙なものを持っているな。)
「奇妙?」
(声なき声に応じる力。
この世界の者でも、そう多くはない。)
「……よくわからないけど、放っておけなかっただけ」
(ふむ。そういうものかもしれんな。)
ノワールは興味深げに鼻を鳴らし、真白の傍らに座った。
その横顔は、どこか優しく見えた。
やがて風が吹き、森の光がまたきらめく。
抱きかかえた小猫がまたあくびをして、目を閉じた。
その瞬間、真白はふと思った。
この世界に来て、まだ何も知らない。
けれど、誰かの“たすけて”に応えられるなら——
ここで生きていく意味が、少しだけ見える気がした。
ノワールが小さくつぶやいた。
(……その手が、どこまで届くか。見ものだな。)
真白はその言葉の意味を聞き返さず、ただ小猫の頭を撫でた。
柔らかな毛並みに、命の鼓動が確かに宿っていた。
——それが、この世界で最初に救った命だった。




