隣国
王都の朝は、ざわついていた。
市場には人が溢れ、商人たちは声を張り上げる。
けれど、その空気の奥には、どこか焦りの色が混じっていた。
ここガルドリア王国は近隣の中でも広大な領地を持つ国だ。長きにわたり平和と富と築いていたが、その影も薄れ、人々は必死に日々を生きている。
原因は――今年も続く不作。
天候不順と病害で、農地の三分の一が枯れたままだという。冬の寒さに手足がかじかむように、王都から遠く離れた農業地域からその影響はじわりじわりと広がっていった。
過去には豊作だった地域も、作物が採れないわけではないが、生産量は年々じわじわと落ちている。
王国は穀倉地帯の減産に頭を抱えていた。
そんな中で、ひとつの報告が王城に届く。
「森の奥に、金色の畑が生まれた」
その報告を携えたのは、旅商人の兄妹――ユリウスとリゼットだった。
「こちらがその畑で採れた麦です」
リゼットが籠を開くと、室内にふわりと甘い香りが広がった。
大臣たちは目を見張る。
真白の作った畑で育った小麦は収穫したばかりの色をなくさず、まだ日の光を浴びているように煌めいていた。
「……見事な色だ。まるで陽の光を閉じ込めたようだな」
「一週間でここまで育つと?」
「はい。耕したばかりの土地からです。
その地を整えたのは、“真白”という名の女性です」
「真白……? どこの出か?」
「それが分かりません。リュミエールでもガルドリア出身でもないようで……。
ただ、森の動物たちと共に暮らし、風と土に感謝して耕しているそうです」
王の側に立っていた初老の宰相が、眉をひそめた。
「……風と土に感謝、だと? まるで古の精霊信仰ではないか」
「はい。しかし、その地では確かに作物が実っております」
「ふんっ。奇跡ではなく、“加護”か……」
重々しい声が広間に響く。
やがて、王が口を開いた。
「調査を命じよう。
もしその土地が本当に恵みをもたらすなら、国として保護すべきだ」
「はっ」
数名の兵と学者がその場で名を呼ばれた。
新たな調査隊の結成である。
リゼットは胸に手を当て、静かに言った。
「陛下、真白殿はその土地を“共生の地”と呼んでいました。
森や風が力を貸してくれるのは、奪わないからだと」
「……ふむ。奪わない、か」
王はしばし沈黙したのち、遠くの窓の外を見やった。
しかし、その場の全員が王と同じ思いだったわけではない。
議場の隅で、若い貴族が低く呟いた。
「……そんな女ひとりが、国より大きな実りを手にしたと?」
「もしそれが本当なら、ぜひ“国のために”働いてもらおうじゃないか」
その瞳には、欲と野心の影がちらついていた。
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風の匂いが変わった。
湖の面をなでていく風が、少しだけ乾いている。秋の風。 その微妙な違いを感じ取って、真白は箒を動かす手を止めた。
窓から差し込む陽光の筋に、ふわりと埃が舞う。
館の中はまだ完全にはきれいにならないけれど、
少しずつ“自分の家”になっていくのが嬉しかった。
床を磨き、風を通す。
木でできた窓枠から入る風は、まるで挨拶をするように彼女の黒髪をなでていく。
「ありがとう、手伝ってくれてるの?」
「風が、だろ? あいつら働き者だからな」
窓辺に座る黒猫のノワールが尻尾を揺らした。
「ほら、真白。外の畑、見てみなよ」
真白は箒を壁に立てかけて外に出た。
陽に照らされた畑の土が、金色に輝いている。
ほんの数日前に蒔いたばかりの種が、もう芽を出していた。
「……またこんなに早く」
驚きの声に、風がやさしく笑うように吹き抜けた。
小さな芽は光に向かって伸びている。
畑のあちこちで、まるで生命の囁きが響いているようだった。
「すごいな。普通ならひと月はかかるのに」
「ね、ノワール。これは……」
「“あんた”の加護だ。いや、森が応えてるんだろうな」
「森が……応えてる?」
「ああ。ここ、ティーアの森は昔から“聖域”と呼ばれてたんだ。けど、いつの間にか人が離れて、精霊たちの声も弱くなった」
「ティーア?セイランじゃなくて?」
「生き物って意味だ。セイランは王とか貴族がつけた館の名前だろ?」
真白はしゃがみ込み、小さな芽に指先をそっと触れた。
その温もりの中に、土の呼吸を感じる。
「……ありがとう。生きてくれて、うれしい」
その言葉に応えるように、風がひときわ強く吹いた。
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夕暮れになると、真白は湖のそばに座って小さな火を起こした。
王からいただいた銀貨で買い込んだ干し肉と穀物、
それに新しく芽吹いた畑のハーブを刻んで鍋に入れる。
森で採れたキノコと香草の香りが立ちのぼり、空気を満たした。
「うん、これで明日はスープにしよう」
「人間は大変だな。オレならネズミを追うだけでいいのに」
「それ、大事に食べてよね」
「冗談だよ」
ノワールがくすりと笑い、火の光に瞳が金色に輝く。
「ねぇ、ノワール。私この生活にもちょっと慣れてきたからさ、もう少し腕を伸ばしてみようと思うの。鶏をかって卵を食べたり、ミルクだって飲みたい。牛は…たくさんお乳がですぎちゃうから、たとえばヤギとか…。穀物も干し草もたくさんあるし、豊かになると思うんだ。」
「いいんじゃねぇか。おまえが気持ちさえ忘れなければ、それは調和の取れた生き方になる。やりたいと思うなら、やればいい。人間が我慢をしてちゃ意味がない」
真白の少し迷いを感じ取ったのか、導くものの役割なのか、視線だけを真白にむけながら答えた。
静かな夜だった。
湖に月が浮かび、森がざわめく。
虫の声が混じる風が、まるで歌のように耳に届いた。
そのとき、ふいにノワールが顔を上げた。
「……真白。森の向こう、聞こえるか?」
「風の音……じゃないね」
「馬の蹄の音だ。しかも、鉄の匂いが混じってる」
真白は立ち上がり湖の向こうに目を凝らした。
夜の森の奥で、かすかに灯が揺れている。
人の手による光――たいまつの明かりだった。
「この辺りに、誰か住んでたの?」
「いねぇよ。ここはリュミエールの国境地帯だ。
あるとしたら隣国ガルドリアの兵が来てるのかもしれねぇ」
「ガルドリア……」
真白は、王都で王から聞いた話を思い出した。
――北の国、ガルドリアでは作物の不作が続いているらしい。リュミエールも不作が続いていたが、ガルドリアほどではない。
土地が痩せ、民が飢えている。
だからこそ、真白のもとには「豊かさをもたらす者」としての役目が与えられたのだ。
「でも、どうしてこんな辺境に……」
「たぶん噂が届いたんだ。“森に黄金の畑がある”ってな」
「噂、か……」
真白は胸の奥が少しざわめくのを感じた。
森が育んだ実りを、争いの種にしてはいけない。
それだけは絶対に。
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翌朝、森の端に馬車の音が響いた。
現れたのは、鎧をまとった兵士たちと、文官の一団。
その先頭に立っていたのは、一組の兄妹だった。
「真白さん!」
声をかけてきたのは、旅商人のユリウスとリゼット。
かつて出会った二人が、再び姿を見せたのだ。
「お久しぶりです。お二人とも、どうしてここに?」
「それが……」
リゼットは困ったように笑った。
「王命でして。この辺りが“ガルドリア領かもしれない”と……調査隊が来ています」
「ガルドリア領? ここはリュミエールの森です」
「ですが、国境線が曖昧でして……」
真白の眉がわずかに動く。
ノワールが低く唸った。
「まさか、畑を見に来たってわけか」
学者風の男が前に出た。
「我らはガルドリア王の命により、この地を調査する。
あなたが“加護をもたらした者”と聞きました。
この土地がどうして豊かなのか、国のために調べねばならぬ」
兵たちは無言で周囲を見回している。
視線の先には、畑と湖、そして森の小道。
学者の男が帳面を開き、冷たい声で言った。
「これが……例の“奇跡の畑”ですか」
「奇跡ではありません。ただ、風や土が――」
「科学的説明のできぬものは、すべて検証対象です」
「けんしょう……?」
「はい。王命により、この土地の構造と成長過程を調べます」
リゼットが小声で言う。
「真白さん、ごめんなさい。私は止めたんです。でも……」
「大丈夫。王様が興味を持ってくれたなら、悪いことじゃないと思う」
ノワールが尻尾を立てて睨みつけた。
「おい真白。あの学者の目、嫌な光してるぞ」
「……わかってる。でも、まだ何も起きてないから」
学者たちは畑の土や水を採取し、何やら器具を使って計測を始めた。
真白はその様子を黙って見守る。
そのとき、風が強く吹いた。
畑の穂が一斉に揺れ、淡い光が空気に混ざる。
光の粒が兵士の頬をかすめ、消えていった。
「な、なんだ!?」
「見たか!? 光が――!」
「……落ち着いて。風の精霊です。ここに宿っているんです」
真白が静かに言うと、風が彼女の黒髪を撫でていった。その髪が陽に照らされ、闇のように深い輝きを放つ。
「……やはり、精霊との干渉が起きているのか」
学者が興奮気味に記録を取り始めた。
「この反応を解析できれば、自然の制御も夢ではない……!」
真白の胸に冷たいものが走った。
“制御”――その言葉だけは、どうしても受け入れられなかった。
真白は静かに言葉を選んだ。
「加護は“調べるもの”ではなく、“分け合うもの”です」
「……何を言う」
「この森は、生きています。
土も風も水も、皆で支え合っているんです」
学者の男は鼻で笑い、部下たちに指示を出した。
兵士たちは畑に入り、土や水を採取し始める。
大きなスコップを用いて、新芽など関係なく容赦なく地面を掘り起こす。
「やめてください。そんな乱暴にしたら――」
真白の声に、風が強く吹き抜けた。
麦の穂がざわめき、光が瞬く。
風に混じって、低い声が聞こえた。
――まもる。
ノワールの背が逆立つ。
「やべぇ……森が怒ってる」
「……止めなくちゃ」
真白は両手を胸の前で組み、深く息を吸った。
「風よ、どうか静まって。
この人たちは敵じゃない。まだ、知らないだけなの」
風がためらうように揺れ、光がゆっくりと収まっていった。学者たちは目を見開いてその光景を見つめる。
「これが……“加護”なのか……」
「違います。これは“約束”です。
森と、私たち人の間の……信頼の約束です」
真白が微笑むと、風はやさしく彼女の黒髪を撫でた。
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その夜。
調査隊は野営をしながら議論を続けていた。
「王に報告を上げねば。あの地は宝のようなものだ」
「だが、彼女はリュミエールの客人だ。下手に手を出せば外交問題に――」
「構うものか。生きるためだ」
「……この力を王家が独占できれば、隣国に食糧を売っても……」
「女を連れ帰って使役させれば――」
焚き火の火が揺れ、森の影がざわつく。
真白は館の窓辺に立ち、遠くの光を見つめていた。
「ノワール……森が不安がってる」
「当たり前だ。誰だって家を荒らされたくはねぇ」
「……争いにしたくないの。
この森が、誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることも」
ノワールは静かに尻尾を巻いた。
「真白。おまえのやり方、オレは好きだ。
でも、守るために立つ時が来る。
“調和の使い”ってのは、ただ優しいだけじゃ務まらねぇ」
その言葉に、真白はゆっくりとうなずいた。
夜風がまた吹き、湖面が揺れる。
その風の奥から、かすかに声が聞こえた。
――まもる。ともに。
それは森そのものの、祈りのような声だった。
「王都に手紙を書こう。助けてくれるかもしれない」
真白は急いでペンを手に取るとセリアス王に向けて、手紙を書く。できるだけ簡潔に、礼儀は欠かず。
「風の聖霊さん、お願いがあるの。近くにいる?」
窓をあけて呼び掛けるとまだ温かい風が頬を撫でた。
「この手紙を王都まで届けてほしいの。お願いできる?少し重いかしら」
ふわふわと空中をただよう便箋は不安定だ。
「近くに梟か、鴉がいたら一緒に届けてくれる?長距離を飛ばせることになるから、できれば鴉のほうがいいんだけど」
手紙をのせた風は、ふわふわと真白の回りを一周し、森の奥へと飛んでいった。




