セイランの館
静かな森の奥、風の通り道のようにひらけた丘の上に、一軒の館が建っていた。
王から「調和の使い」として任じられた真白に与えられた住まい。
セイランの館――古くから王国の狩猟用の別荘として使われていた場所である。
だが今は、狩りの気配もなく、庭は草に覆われ、池には睡蓮が咲き乱れていた。
鳥の声と風の音だけが響く。
真白は荷を下ろし、深く息をつく。
「ノワール。静かだね」
「人間の足跡が少ねぇからな。……ま、悪くねぇ」
黒猫のノワールは、館の玄関前の石段にぴょんと飛び乗り、しっぽを立てた。
「ここからが本番だぜ、真白。まずは住処の掃除と、ご近所の挨拶だ」
「ご近所……動物たち?」
「ほかに誰がいるってんだ」
真白は笑って、玄関の扉を押し開けた。
中は思ったより整っていた。埃は積もっているが、家具も道具も残っている。
大きな窓から差し込む光に、舞い上がる塵がきらめいた。
彼女は手を合わせ、小さく祈るように呟いた。
「ここで暮らさせてください。どうか、よろしくお願いします」
その言葉に応えるように、外で風がそっと吹いた。
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翌朝、真白は庭の草を抜き、枯れた木の枝をまとめていた。
森の端から見える湖の水面がきらきらと光る。
しばらくすると、どこからか小さな視線を感じた。
振り返ると、木陰に一羽の白い小鳥がいた。
羽の先がほんのり水色で、首を傾げながらこちらを見ている。
「こんにちは」
真白が優しく声をかけると、小鳥は一歩後ずさった。
だが、真白が屈んで手を差し出すと、ためらいがちに近づいてくる。
ノワールが屋根の上からそれを見下ろして言った。
「おい、無理すんなよ。森のやつらは人間を見ると逃げるぞ」
「大丈夫。怖がらせないようにするから」
小鳥は真白の指先にとまり、ほんの一瞬だけ羽を震わせた。
その瞬間、風がふわりと吹き、草の香りが強くなる。
真白は驚いて、笑みをこぼした。
「……風の、加護?」
「まさか。まだこの子が“信じて”くれただけだろ」
「信じてくれた……うん、それで十分」
小鳥は一声さえずって、森の方へ飛び去っていった。
そのあとを追うように、風が館の中に流れ込んできた。
窓辺のカーテンが揺れ、どこか嬉しそうに踊っている。
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昼になると、真白は台所に残っていた古い鍋を磨き、水を汲みに出た。
館の裏には、小さな泉がある。
石の間から湧き出す水は澄みきっていて、底の小石がくっきり見える。
桶を満たそうとしたとき、足元の草むらがかすかに揺れた。
覗き込むと、小さな茶色のうさぎがいた。
後ろ足を少し引きずっている。
「……大丈夫?」
うさぎはびくりと身を縮め、逃げようとした。
真白はその場にしゃがみ、声を落とした。
「ごめんね。怖がらせるつもりはないの。ただ、少しだけ見せて」
うさぎはしばらく迷っていたが、やがて動きを止めた。
真白はそっと手を伸ばし、傷ついた足を見つめる。
棘が刺さっているだけだった。
彼女は手ぬぐいで棘を抜き、泉の水で洗い流した。
その手の中で、うさぎが震えている。
「大丈夫、大丈夫だよ。すぐによくなるから」
ノワールが後ろから声をかける。
「まるで祈りだな」
「祈りっていうより、願いかな。痛くなくなれって」
しばらくして、うさぎの震えが止まった。
その瞳は、もう恐れではなく、柔らかな光を宿していた。
ぴょん、と小さく跳ねると、真白の膝に前足を乗せた。
「ありがとう、って言ってるみたい」
「言ってんだろ。そういうやつだよ、おまえが助けるのは」
うさぎは森の奥へ消えた。
その後、泉の水面が一瞬だけきらめいた。
波紋が円を描き、まるで小さな“約束”が結ばれたようだった。
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その日の夕暮れ、真白は館のテラスに座り、ランプの灯りを眺めていた。
ノワールが隣に座り、尻尾をゆらゆらと揺らす。
「……ねぇ、ノワール。動物たちって、ちゃんと覚えてるんだね」
「何を?」
「人間に、優しくされたこと」
「まぁな。だが、人間の方が忘れるのも早ぇ」
真白は少し黙り、ランプの炎を見つめる。
「忘れないようにしよう。私ができる限り、助けたい」
「欲張りだな」
「うん。でも、それでいい」
風がまた吹き抜ける。
館の周囲で、鳥や小動物たちの気配が少しずつ戻り始めていた。
カエルの声が遠くで響き、木の上ではリスが駆け回っている。
その穏やかな音に包まれながら、真白はノートを開いて書き記した。
――今日、風の小鳥と出会った。
――泉のうさぎに、ありがとうをもらった。
――ここで、生きていこうと思う。
書き終えたとき、外の風がやわらかくページをめくった。
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夜。
満月が湖を照らし、白い光が館を包んでいた。
真白はベッドに横たわり、天井を見つめながら微笑む。
ノワールが枕元で丸まり、目を細めて言った。
「この調子なら、すぐに森中の人気者だな」
「それはちょっと照れるかも」
「ま、悪くねぇ始まりだ。おまえの“約束”は、もう始まってる」
「うん。きっと、ここからだね」
真白のまぶたがゆっくりと閉じていく。
その夢の中で、風の小鳥が羽ばたき、泉のうさぎが跳ねていた。
夜の森はやさしく、静かに、彼女の眠りを見守っていた。




