心の声を聞く者
はじめて文字書いてます。わくわく
その声を最初に聞いたのは、春の終わりの夜だった。
薄く開けた窓から、夜風がカーテンをゆらす。
雨上がりの匂いが漂い、街の明かりがぼんやりと滲んでいた。
この時間が一番好きだ。仕事も小さな心配ごとも忘れられる。眠る前に外の風を感じて、心を落ち着けさせる。
その静けさの奥から、かすかな声が聞こえた。
——たすけて。
——だれか、たすけて。
――おもいだして。
目をパチリとあけた真白は、胸の奥がひどくざわつくのを感じた。
夢にしては、あまりにも現実的な響きだった。
確かに目を閉じてはいたが、眠るほど意識を手離してはいない。
耳で聞いたのではなく、心に直接触れられたような感覚。
それからというもの、彼女は何度も同じ夢を見た。
霧のような空間の中で、名前も姿もない声が泣いている。
日に日にはっきりと聞こえるそれを放っておけず、夢の中で手を伸ばしても、いつも指先は空を切った。
朝になっても、胸の奥にその声が残っていた。
仕事へ向かう電車の中で、街のざわめきにまぎれて、
ふと同じ響きを耳にすることさえあった。
——きこえる?
——そこにいるの?
「……幻聴なんて、あるわけないよね」
自分に言い聞かせても、どこかで確信していた。
これはただの夢ではない。
誰かが、本当に助けを求めていると。
そんな日々が続いたある夕暮れのことだった。
仕事帰り、空は茜と群青の境を揺らし、
街灯がひとつ、またひとつと灯りはじめる。
真白はふと、帰り道の途中で足を止めた。
(……こっちだよ。……きて。)
胸の奥をくすぐるような、あの声が聞こえた。
振り向くと、いつもは気づかない細い路地があった。
夕陽の残光が奥のほうまで差し込み、まるで道標のように光っている。
「……待って!」
気づけば足が動いていた。
一歩踏み出すごとに、街の音が遠のいていく。
細い路地の奥は、不思議なほど静かだった。
やがて古びた門が現れた。
蔦に覆われ、半ば崩れかけている。
それなのに、そこだけがやわらかな光をまとっていた。
(——こっち。)
その声に導かれるように、真白は門に手を伸ばした。
指先に触れた瞬間、光が波のように広がり、風がふっと吹き抜けた。
次の瞬間、重力が消えた。
風の匂いが変わる。
アスファルトの匂いが消え、森の緑と土の香りが満ちていく。
目を開けると、そこは深い森の中だった。
高い木々が空を覆い、沈みゆく夕陽の光が優しく揺れている。
どこか懐かしいような、それでいて息を呑むほど美しい光景。
「……夢、なの?」
頬にあたる風も、指に触れる草も、あまりにも現実的だった。
驚きよりも、胸の奥に広がる安らぎが勝っていた。
まるで、ようやく“帰るべき場所”に辿り着いたような——そんな感覚。
そのとき、すぐそばで何かが動いた。
かさり、と草の音。
振り向くと、黒い毛並みの猫がこちらを見ていた。
金色の瞳が、夕陽の残光をうつしている。
「……あなた、どこから来たの?」
猫は小さく喉を鳴らした。
その声が不思議なほど心に響く。
(やっと来たのか。)
真白は息をのんだ。
声が、聞こえた。はっきりと。
「……今の、あなたが……?」
猫は目を細め、静かに尾を揺らした。
(どうだろうな。ここでは、思いが形になることもある。)
「思いが……形に?」
(そうだ。だが、いまはまだ知らずともいい。
お前が歩くうちに、見えるものがあるだろう。)
そう言って、猫は踵を返した。
その毛並みが月明かりに照らされ、やわらかく光る。
真白は思わずそのあとを追った。
森の中、足元の草花がふわりと光を放つ。
まるで、夜空の星が道になったみたいだった。
どこへ行くのかもわからないのに、怖くなかった。
ただ、胸の奥で確かに感じていた。
——この道の先に、“あの声”の答えがある気がする。
猫が振り返り、低く鳴いた。
(名はノワール。……お前は?)
「……真白。」
(そうか。いい名だ。)
ノワールが再び歩き出す。
真白はその背中を追いながら、ふと空を見上げた。
森の向こうに、満ちかけの月が浮かんでいる。
その光の下で、遠くからまた声がした気がした。
——。
それが風の音か、幻の声か、真白にはわからなかった。
ただ、胸の奥が静かにあたたかくなる。
歩くたびに、世界が少しずつ、やさしく滲んでいった。




