予期せぬ恋のはじまり
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現代を舞台にした小説は初となります。
そして読者様が苦手とする、または不快になるような何かしらの要素が含まれている可能性がありますので、何でもOKという方のみ、読み進まれることを推奨させていただきます。
「あ~やっぱりついて来なければよかった‥‥‥」
私は眼下に広がるコブの斜面を見ながらそう呟いていた。
その斜面を覆い尽くしているボコボコたちを、まるで足つぼマットのようだと思ってしまったのはきっと疲れのせいだ。
だがこんなところでずっと立ち止まっているわけにもいかない。
先ほどこのコブの斜面を優雅に滑走していく皆の背を見送ってからすでに数分が経過している。足手まといの自分を気にする同僚の先輩たちに、ゆっくり行くので大丈夫ですから気にせず先に行ってくださいと告げたのは私自身である。
私以外の三人は上級者のコースをなんなく滑走できる技量を持っている。
そして私はというと、初心者ではないが、中級コースをようやく楽しめるようになってきたくらいのレベルで当然彼らと一緒に滑るなど考えもしていない。よって今回のスキーへの誘いも最初から皆とは別で単独練習滑走という条件の元、参加を了承しているのだ。
それなのに、同僚男性の迂回すれば初心者コースに行けるから大丈夫という親指を立てたグッドサインを信じてついてきた私の目に飛び込んできたのは初級コース閉鎖中という無情な注意書きだった。私は登りになってもかまわないから他の初級コースへの迂回をと、せめてもの期待をしたが、どうやらそこからは上級コースを抜けない限り、麓へ戻る手立てはなさそうだと三人の申し訳なさそうな顔が私を見ていた。
でもその時はまだたとえ上級コースで優雅に滑ることが叶わなくとも、いざとなれば一生カニ歩き横滑りでなんとか乗り切れるだろうと気楽に考えることができていたのだ。実際、先の見えない下りの手前でこれを見てしまう前までは‥‥‥
さて、そろそろ覚悟を決めてなんとかここを滑り降りていかなければならない。
私は恐る恐るスキー板の先を前方へと滑らせながら滑走をスタートした。だがやはりコブだらけの斜面ではパラレルターンを駆使して滑走しなければ転倒は免れない。すぐに転倒してしまった私はため息をつきながら被ってしまった雪を払って起き上がった。だがそこは急斜面である。立ってバランスをとり続けるだけでも体力を消耗してしまう。
私はまだずっと先に見えるコブ斜面の終了地点を見て完全に絶望していた。
だからと言ってここを降りきらなければどうにもならない。この残酷な状況に半ば笑えてきてしまい、もはや人目などは気にしていられないとなんちゃってパラレルを駆使しながら数えきれない転倒とともに移動を繰り返し、コブ斜面の終了地点へと徐々に近づいていった。
そしてあともう少しというところまできた時、ここからはもう転ばずに一気に滑り降りようと気合を入れ滑り出した。が、次の瞬間、もの凄い衝撃が私を襲い、気づけば片方のスキー板が外れた状態でストックも手から離れ雪面に倒れ伏していた。なにが起こったのだろうと混乱しながらも、なんとか体勢を立て直そうとしていた時、すぐ近くから声がかけられ腕をとられた。
「大丈夫ですか?ぶつかってしまい申し訳ありませんでした。私の方に体重を乗せながらゆっくりでいいので立ってみてください」
そう言う見ず知らずの男性の手を借りながらなんとか立つことができた。
だがその場所は他のスキーヤーの邪魔になり、危ないということでそのまますぐに端の方へと半ば抱えられるような形で移動した。
「あの、ありがとうございました。それと、私とぶつかったんですよね?あなたに怪我はありませんでしたか?」
「私はどこも怪我していません。大丈夫です。それよりもあなたの方が心配です。どこか痛むところはありませんか?私の不注意で本当に申し訳ありません」
彼は自分の不注意だと言い続けたが、どう考えてもあんな中途半端なところで転び立ち止まっていた私にも原因がある。だからそう言ってもう先に行ってもらおうとしたが、彼的には私の足、脛付近に自分のスキー板を直撃させてしまった感覚があるらしく、骨に異常がないかとしきりに気にして救護を呼んでくるとまで言い出した。
「えっと‥‥この寒さで感覚があまりなくて‥‥でも、立って動けているので骨の異常はないと思います。だから救護は必要ないです」
なんとなく鈍い痛みだけは感じていたが、それは骨ではなく、恐らく打ち身の痛さだろうと考えそう告げると、周囲には仲間がおらず、一人で麓まで滑らなければならない状況の私を心配した。ならばせめて麓までは一緒に滑って様子を見ると言う彼に断るのを諦めた私は振り返ってもう二度と滑ることはないだろうそのコブ斜面を一度見上げてからゆっくりと麓に向かって滑り出した。
「ここまで付いてきてくださりありがとうございました。どうやらまだ誰も来ていないようなのですが、ここで待ち合わせているのでそのうち集まってくると思います。ですので私はもう大丈夫ですからあなたも仲間の皆さんのところに戻ってください」
麓の休憩小屋に到着し、中に入ると暖かな空気に包まれほっとしていた。
混雑しつつあるその場所で、隣に立っていた彼にそう告げた。
「そうですね‥‥これから滑りに戻って皆と合流します。でも、本当に足の方は大丈夫ですか?一応救護でみてもらったほうが‥‥」
「ご心配ありがとうございます。でも本当に大丈夫です。寒いので何か温かいものでも飲んで皆を待つことにします」
「わかりました。では‥‥‥これを」
彼は取り出した財布の中から何かをつまみ出して私の前に差し出した。
「名刺?」
よく見るとそれは名刺であった。
「ここに会社の連絡先と携帯の番号、アドレスも記載されています。もしも足の調子が悪くなって病院へ行くことがあったらその際にかかった費用のすべてを私に請求してください」
彼はそう言って軽く頭を下げた後、小屋を出て行った。そして去ってゆく彼の背中を窓から見送り、彼に渡された名刺を見ていると、突然肩をポンと叩かれ驚き、振り返ってその手の主を確認した。
「あやさん⁉も~びっくりするじゃないですか?普通に声をかけてくださいよ!」
「え~だってナンパされてたみたいだからなんとなく?でもこのご時世に名刺?携帯という便利なものがあるのにねえ?」
「は⁉何勘違いしちゃってるんですか?あり得ませんよ、ナンパなんて。もうこの際、恥を忍んで白状しますが、あの悪夢の上級コースで派手に転んでみんなの邪魔をしまくり、挙句の果てにはこの名刺の彼とぶつかってしまって足を痛めたんです」
私は本当は黙っていたかったあの恥ずかしい汚滑りの件を話さなくてはならない状況になってしまったことを心から悔やんでいた。
「え⁉ちょっと待って!怪我したの?そんな大事なことはもっと早く言いなさい!救護にはもう行った?」
「いえ、大丈夫です。そんなにい‥‥‥‥」
そんなに痛くはないからと言おうとしてふと気がついてしまった。
スキーウエアの上からだとまったくなにもなくてわからないが、右足の脛部分の痛みが強くなっていた。外にいる時は寒さで感覚が鈍っていたせいか、あまり痛いとは感じなかったが、小屋に入り暖かい場所でリラックスしている間に痛みを感じるセンサーも正常化されたのかもしれない。
「あやさん、私、今からトイレに行って足の傷の確認をしてきます。動けるので骨には異常はないし、ただの打ち身だと思っていたのですが、もしかすると傷があるのかもしれません‥‥」
私は先ほどまでは単に打ち身だと思っていたその足の痛みがジンジンと出血をともなう切り傷の痛みに変化していることに少し動揺していた。しかも椅子から立ち上がった瞬間、強烈な痛みに悲鳴を上げそうになってしまったのだ。うまく誤魔化しきれなかったソレを決して見逃さなかった彼女はすぐに救護へ連れて行くことを決め、私はもう一度椅子に戻された。
そこでタイミングよく二人の同僚男性も合流し、あやさんからの的確な情報伝達により、彼らに付き添われながら救護室へと向かうことになった。そしてそこでの応急処置の際、まずは傷口の確認ということでウエアを脱ごうとしてその傷のあたりで何かがべっとりと張り付いていて脱げないことに気が付いた。それはどす黒い血と膿で、すでに一部が乾燥し始めていた。
ウエアの色が黒だったことに加え、破損がなかったことが災いした。
自分でその惨状を目にして意識が飛びそうになった。
それほどまでに酷い出血と膿で、傷の状態を確認するのも困難だった。
救護室勤務の看護師の方にすぐに傷の縫合をする必要があるため病院へ行っていただかなければならないと告げられ、救急車を呼ぶという選択肢も提示されたが、それを聞いた同僚男性がすぐに自分の車で連れて行くと言ってくれたおかげでそこから連絡を受け待機してくれていた近くの病院で無事縫合を済ませることができた。
病院の医師からはよくこんな状態で衝突場所から麓まで滑っておりたよね?と呆れられてしまった。さらには縫合はうまくいったものの、パックリやってから時間が経過していて乾燥しかけていたのでもしかすると完全に傷口が閉じずに開いてしまうこともあるかもしれないと言われてしまった。そして今日から抜糸までの一週間はできるだけ動かないように安静にしていることと、ここは私の生活圏とは離れすぎているため抜糸は近くの病院でやってもらえるように紹介状を書いて持たせてくれることが伝えられた。あとは毎日患部の消毒とガーゼと包帯の交換が必要になるが、それも近くの病院でやってもらうように言われたので、それだけなら自分でやれると返したところ、患部の状態の確認もあるのでもしも勤務している会社の中に医務室があって常勤の看護師でもいるのならそこでもよいという譲歩案が提示された。
スキーをしにきてまさかの病院行きに落ち込んでいた私はあやさんに慰められながら病院を後にした。私の横で一緒に医師からの説明を聞いていたあやさんは、待ってくれていた同僚男性たちに私は重症であり、できるだけ動いてはいけないという医師からのお達しがあるためおんぶでの移動を依頼した。私は慌ててそんな恥ずかしいことは絶対にしませんからと言ってさっさと歩き出した。
もうその頃には痛みはだいぶ引いていて、縫合による引きつるような違和感を感じるだけでもう大丈夫だと思っていたのだ。だから本当に大丈夫なのかと気にする彼らに笑顔を向け大きく頷いた。
それから間もなく夕食の時間であったがそれまでは各自部屋で休むことになり、同じ部屋のあやさんと座って話をしていた。
「そういえば、さっきのナンパじゃなかったあの人は、どうしてさくちゃんに名刺なんか渡していたの?」
「あ~それはもしも私の足の調子が悪くなって病院へ行くことになったらその費用を請求してくださいって渡されたんです」
「‼そういうこと?じゃあさくちゃん、早速請求の連絡しないと!」
冗談なのか本気なのかよくわからない感じの言い方でどうしようかと迷ったが、結局素直に連絡なんてしませんよとだけ返した。すると何か考えるそぶりを見せたあやさんは、その名刺を見せてほしいと言ってきたのでポケットの中から取り出した名刺をテーブルの上にのせた。
彼女はそれを手に取りじっと眺めていたが、突然「あっ⁉」と声をあげて私の方に視線を戻し、ぐっと顔を近づけてきた。
「この会社って私の友達もいる会社で同じ区内にあるし、近いと思う」
「‥‥‥あやさんのお友達ですか?同じ区内って私たちの会社がある区と同じということでしょうか?」
「うん、そう。私の高校時代の友人でね、何度か駅で偶然会って一緒に飲みに行ったこともある子。一応言っておくけど、その子は男だけど彼氏とかではないからね?」
「‥‥‥‥」
まあ、あやさんはお友達は多そうだし男性の友人だっているだろう。
それにしてもスキー場という遠く離れた場所でこんな偶然が起こるものだろうか?たくさんのスキーヤーがいる中で、たまたまぶつかってしまった相手が自分の会社の近くの会社勤めでそこには先輩同僚の友人も勤務している‥‥‥
「場所的には駅を挟んであっちとこっちみたいな感じになるけど、距離は近いと思うよ。だってその友人の子とは本当によく駅で会うしね。だからもしかするとさくちゃんもこれから偶然駅でその彼とばったり!なんてこともあるかもしれない」
なぜかとてもうれしそうに興奮している様子のあやさんには申し訳ないが、私は絶対にそんな偶然などありはしないと冷めた気持ちで湯気がたちのぼる湯呑にそっと口をつけた。
翌朝、本来なら早朝から昼過ぎまで滑りを楽しむはずであったが、自身の怪我によりそれは叶わなくなった。だが自分のせいで三人まで半日ぶんのスキーのチャンスを断念せざるを得ないなんてそんな理不尽を通すわけにもいかず、私は困惑する三人を必死に拝み倒して予定通り半日スキーへむかわせたのだ。
ただ、やさしい彼らは昼前までには滑り終えてここを出ようと言った。
それは明らかにホテルロビーでぼっち待ちをする私への気遣いからであったが、彼らはさらに帰りの道中においしいカレーを出すレストランがあるからそこで一緒に昼食を取りたいからだと庇ってくれた。
そんな彼らのやさしさに感謝しながら私は一人救護室へ向かっていた。
消毒とガーゼの交換をお願いするためだ。
昨日と同じスタッフと看護師の方がいて、私は彼らに深く頭を下げ、昨日のお礼を述べた。皆一様に心配してくれており、無事縫合が済み、痛みも治まっていることを喜んでくれた。
消毒も済み、救護室を後にした私は一面ガラス張りの外が見渡せるロビーへとゆっくり歩を進めていた。するとその廊下の先に見える奥の方から見覚えのある男性が荷物を持ってこちらの方向に歩いてくることに気づいた。その男性は私が今まさに向かっているロビーのソファーに持っていた荷物を下ろすと、その中から何かを探るような様子を見せた。そしてその男性が来た同じ方向からスキーウエア姿の四人の男女が駆け寄ってきて彼を取り囲んだ。
なにやら楽し気に話をしているその集団の後方を静かに通り過ぎ、私は売店に向かった。昨晩は貧血気味で、ちょっとしたショック状態に陥っていたようで食べ物を受け付けなかった。今朝もほとんど口にしていなかったので、待っている間に空腹を感じたら何か食べようと思いついたのだ。
棚に並ぶ品を見繕いながら、私はその男性のことを考えていた。
彼は名刺の男性だ。
昨日彼との衝突があってから、実はかなり冷静さを装っていた。
本当は彼の容姿があまりにも自分のドストライクすぎて動揺していたのだ。
出会った瞬間にビビッときて運命を感じましたとか、そんな話を耳にしたこともあるが、あれは単にものすごく自分好みの容姿で動揺しただけなのだと思う。
彼はとても紳士なうえ、本当に私を気遣ってくれているのがわかった。
だからこそ心底困って私は女優と必死にクールを装うことで精一杯だったのだ。
こんな時、女の子は頬を赤らめ、ドキドキしている姿を素直に見せた方が絶対に好感を持たれるのだと思う。でも私には絶対にできない、無理なのだ。以前そんな私のことを同級生だった男友達からはお前は隙がなさ過ぎて男は寄りにくいのだと言われたことがあった。さらにはそのままだと一生独身だとも告げられその時はさすがに落ち込んだ。
それでも私はやっぱり素直に好意を悟らせるようなことなんてできないのだ。
だからこんな面倒くさい素直になれない自分を受け入れてくれる器の大きな男性が現れなければ、まあ確かにおひとり様コースまっしぐらということになってしまうのだろう。
ぱっと目を引いたミニサイズのどら焼きが入ったかわいらしい絵柄のパッケージを手に取った。そして練梅のおにぎりとコーヒーも買って店を出たが、これから向かう場所には彼がいる。まだいて欲しいと願う気持ちと、もういなくなっていれば考えることもなくなるという思いが複雑に絡み合い足取りは重くなる。
そしてロビーが見える場所まで来ると、先ほどまで彼がいたソファーにはもう誰も座っていなかった。思わずさっとその周囲に視線を巡らせ彼の姿を探してしまう。
そのことにはっとして私は何をしているのだと自嘲しながらゆっくりと窓際のソファーへと向かい腰を下ろした。窓の外、白銀が広がる景色の中に、色とりどりのウエアに身を包んだ人々が楽しそうに行き交っている。
私は知らず「よし!」と、小さく口から声が漏れ出ていた。
なぜそんな気合を入れたのか、理由なんてわからなかったが、とりあえずあのかわいらしいどら焼きでも食べてみようと袋から取り出して包みを開いた。が、「あの、すみません‥‥」と、遠慮がちにかけられた声に反応してそちらへと視線を移した。
「⁉‥‥‥‥‥‥」
「昨日、上で私がぶつかってしまった方ですよね?ここにいるということは、やっぱり足の調子が良くないのですね。本当に申し訳ありません!足の状態はどんな感じですか?」
彼が話していることはしっかりと聞こえているし、理解もしている。
でもそれよりもすでにここを去っていってしまったはずの彼がどうしてまだここにいるのかと混乱していた。だから返事ができずに固まっていたのを私が迷惑に感じていると勘違いしたらしい彼は失礼しましたと言って頭を下げて去ろうとした。
「待って!あっ、違うんです!その‥‥すみません、でもちょっと待ってもらえませんか?」
私は慌ててそう彼を引き留めたものの、直後にそれでよかったのかと後悔し始めていた。それは彼の困惑した表情と今の自分の状況が彼にとっては重荷になってしまうのではないかと危惧したからだ。それでも怯んで逃げ出してしまいそうになる弱い自分をぐっと押し込め勇気を出して口を開いた。
「実は少し前にここを通った際にお見掛けしていたのですが、声をかけずに通り過ぎました。それでここへ戻ってきた時にはもういらっしゃらなかったので、てっきりお帰りになられたとばかり‥‥」
「あ~そうでしたか?確かにこれから帰るので一度車に荷物を入れに行ったのですが、板と靴がまだ乾燥室にあったのでそれを取りに行ってきたところなんです」
確かに彼は板を支えているし靴も足元に置いている。
「なるほど?‥‥では、今からお一人で帰られるのですか?」
「はい、そうです。本当は皆と半日一緒に滑ってから帰りたかったのですが、明日から出張なので先に帰ることにしたんです」
そう告げた彼は徐に邪魔にならないよう気を付けながら板を下に置き、少しスペースを開けた私の隣にストンと腰を下ろした。
「それ、多分お揃いです」
そう言って彼はポケットからミニどら焼きを取り出して見せた。
「さっき同僚から車の中で片手でも食べられるからともらいました。迷惑でなければ今ここで一緒に食べてから帰ってもいいですか?」
『よいに決まってるじゃないですか!』と、心の中では叫んでいたが、実際は「はい。もちろんかまいません」と冷静に返していた。それでも彼は微笑みながらありがとうございますなんて言ってくれるのだ。
その後私は自分から名乗り、名刺の住所と同じ区内に自分が勤めている会社もあり、近い場所にあるということを話した。彼はそのことにとても驚いていて「そんな偶然、あるんですね‥‥」と感心していた。そして結局私は病院へ行ったことも縫合が必要な傷を負ったことも話さなかった。明日から出張だという彼をあまり長くここに留め置いてはいけないと、そればかり考えていたせいもある。
でも彼が去っていったこの場所で、私は今フワフワとした心地でとても気分がよかった。
それは最後の最後で彼の方から会社が近いのでもしよければ今度皆で飲みにでもいきませんか?という誘いがあったからだ。私はそれをいいことにちゃっかり彼に連絡先も教えている。
彼は皆でと言っていたから何人かで飲みに行く計画が立てられるのだろう。それでも私はうれしくてうれしくて脳内ではすでにその日に着ていく服のことやダイエット構想が練られていた。
そして私は右足の脛に目を向けた。
今はスパッツの下に隠れているその傷が今はなぜかとても愛おしく感じられた。
痛いのはもちろん嫌だ。それでももしこの傷が残ってしまったとしても、それはきっと私にとっては彼に恋をした懐かしい思い出として在り続ける。
私は予期せぬ恋をした。
もう二度とないだろうと思っていた特別な恋を‥‥
お読みいただきありがとうございました。感謝いたします。
この続きとなる話は別の短編として執筆中です。
今後もお付き合いいただけますと幸いです。