4>> わたくしとお父様
─【 遂にラスボスへ 】
今日は朝から強い雨が降っています。
この国の雨は自然のものだけではありません。強い魔法士ならば国全体を覆う雨雲くらい作ってしまいます。ですので今の雨を降らせている雨雲が自然のものなのか誰かが雨を降らせているものなのか判断は付きません。
わたくしもいつかこのくらいの大雨を降らせられるようになるでしょうか……
朝から降っている雨は止むことなく日が暮れてからも滝のような雨を降らせていました。
ザァザァと窓の外から聴こえてくる雨音に、何故かわたくしの心は勇気を貰えています。力強い雨が『わたくしは大丈夫』だと思わせてくれます。
カッシム様が後継者から外されたことで、遂に正式にわたくしの家にワゼロン侯爵家からわたくしたちの婚約解消の話がされました。お父様は渋り、今日のお昼過ぎにパーシバル侯爵邸に来たワゼロン侯爵を長時間引き留めていた様です。ですが遂に説得はできず、夕食頃にはワゼロン侯爵は帰路につかれました。そしてわたくしはお父様の執務室へと呼ばれました。
お父様も疲れたのか、呼ばれた時間はだいぶ遅い時間でしたが、わたくしには逆に“丁度良い時間”な気がします。
メイドたちも自室に戻った時間帯……
わたくしは誰にも姿を見られることなく、お父様の執務室へと行きました。
「ロンナです」
扉を2回ノックした後に室内に声を掛けると低い声で「入れ」と聞こえました。
わたくしはお父様の執務室へと入り、お父様が座る執務机の前に立ちます。
そういえば、一度もこの部屋の椅子に座った事がありませんでしたね。
そんな事を思っているわたくしを一瞥して、お父様はワインを自ら注ぎ呷りました。
「……お前とカッシム君の婚約が解消になった」
「はい」
「……どうにかお前を貰ってやってはもらえないかと頭を下げたのだが、カッシム君の体調的には無理だと拒否されてな。
逆に違約金を増やすから婚約解消してくれと頭を下げられたよ……
……はぁ〜……ただでさえ欠陥品だと言うのに婚約解消という傷が付くとはな……
お前はどれだけこの家に迷惑を掛ければ気が済むんだ……」
そう言ってお父様はまたワインを呷られました。
お父様からすればワゼロン侯爵家の方から婚約解消をされた事でも“わたくしの所為”になるのです。
わたくしは溜め息を吐きそうになるのを抑えてお父様に頭を下げました。
「申し訳ありません。
これ以上パーシバル侯爵家にご迷惑をお掛けしない為にも、
どうぞわたくしを勘当してください」
わたくしはやっと、
ずっとずっと言いたかった言葉をやっと言えました。
お父様が小さく息を吸った音がします。驚いたお父様がわたくしを凝視しているのが下げた頭の上からでも分かります。
コトン、とお父様が手に持っていたワイングラスを机に置いた音が響き、窓を叩く雨音がやけに大きく聴こえます。
わたくしは少しだけ期待してしまいます……
お父様の答えは…………
「何を言っているんだ、ロンナ。
そんな事をする訳がないだろう?
婚約が解消になったからといって、実の娘を勘当するなど、
私がそんな酷い父親だと周りから思われたら困るじゃないか。
欠陥品でもここまで育てたんだ。
そんな簡単に手放す訳がないだろう?
私はお前の父親なんだぞ?」
困ったような優しい声で、そんな事を言うお父様の心配事は、やはりわたくしの事ではなく御自分の事でした。
◇ ◇ ◇
─【 お父様への反抗】
下げていた頭を上げて見た父の顔は、やけに優しい眼差しをしていました。
「ロンナ。可哀想な私の娘よ。
そんな思い詰める事はない。
お前のような無能で無価値で、一人では何もできない欠陥品が、この家を出て行ってどうやって生きられるというのだ。そんな不可能な妄想を考えるのは止めなさい。
お前だって娼婦になったり行きずりの男に犯されて無惨に殺されたくはないだろう?
泥水を啜ってゴミを食べ、寝ているところをネズミや虫に齧られたくはないだろう?
家を勘当されるということはそういう事なんだよ。
そんな目に我が子を合わせる親が居る訳がないじゃないか。
安心しなさい、ロンナ。
お前はそんなに悲観する事などないんだ。
お前にはまだまだ利用価値がある。
だから、お前はこの家に居ていいんだよ」
優しく我が子を愛おしむ父親の顔で、目の前の男からは悪夢のような言葉が紡がれます。
その言葉が本当に『労りの言葉』だと信じているのだと、その声音からも分かってしまい……虫酸が……走りました…………
眼差しだけは立派に愛情を滲ませる目の前の男は、寛大な自分の言葉に満足しているのか少しだけ口角を上げた表情でわたくしを見ながら、またワインをグラスに注いで口に運びました。
『利用価値があるから、この家に居ていい』
そんな言葉に感動すると、本気で思っているのでしょうか?
わたくしは自分の体の血が少し温度を上げたのを感じました。腹の中が沸き立つような息苦しさを感じます……それでも、平静なフリをしてお父様を見つめました。
「……、っ!?」
お父様が慌てます。
わたくしは何も言わずにただ、
お父様が飲んでいるワインを操って、
お父様の口と鼻をワインで覆いました。
「……?! ……?!?!」
何が起こったのか分からないお父様が、自分の口と鼻を覆い空気を遮断するワインを取り払おうと両手を動かします。
だけどワインは液体なのでお父様の指には掴めません。ただもがくだけしかできないお父様をわたくしはジッと無感情に見つめました。
お父様のお顔が真っ赤になった頃にわたくしはワインを操る魔法を解きました。
お父様の口と鼻を覆っていたワインは重力に従って下に流れてお父様の服を赤く染めます。
「っ……、はっ、はあっ……っ!?
ゴホッ……! ……?!
な、何だ今のはっ?!」
ゴホゴホと息をしながら慌てふためき、そしてわたくしと目が合ったお父様は困惑した表情で、それでもわたくしを睨んできました。
そんなお父様に首を傾げて答えます。
「どうされたのですか?」
とぼけてみせるわたくしにお父様は怒りの表情でわたくしを更に睨みました。
「い、今のはっ!?
お前が何か、したのかっ!?!」
「何か、した……ですか?
お父様。
……わたくしに、『何ができる』と言うのですか?」
「っ、……そ…………っ!?」
わたくしの問にお父様は苦虫を噛み潰したような顔をして言葉に詰まりました。
今まで散々わたくしの事を出来損ないで欠陥品で無能だと言ってきたのです。『何もできない』わたくしを散々罵ってきておいて、今更『何をした?』は、なんだか滑稽な言葉ですね。
とぼけるわたくしをただお父様は憎しみの篭った目で睨みつけ、歯をギリギリと噛み締めています。
「い、いつからだ……」
「はい……?」
「いつからそんな力が使えるようになったっ!?」
「そんな……とは?」
「とぼけるな!! 今やった事だ!!
ここ最近アレックスやキャリビナやララーシュの体に起こっていた問題もお前がやっていた事なのか!?
ま、まさか、カッシム君の病気もお前の仕業か!?
お前は何を考えているんだ!?!」
ダンッ、と机を叩いて騒ぐお父様に、わたくしは困った様に首を捻って答えます。
「お父様が何を仰られているのか分かりませんわ……」
「えぇい! とぼけるのは止めろ!!
自分がやったかやってないか、お前が自分で分かるだろう!!」
「そんな……
無能なわたくしに、一体何ができると言うのですか?」
「っ!!」
言葉に詰まったお父様は我慢できなかったのか、ガタンッと音を立てて椅子を倒し、両手で強く机を叩いて立ち上がりました。その振動でワインボトルが倒れて机の下に落ち中身を床に零します。
そんな事をされても、今のわたくしには恐怖心は湧きませんでした。
あんなに怖かったお父様が。
大きな声を出されただけで心が凍ってしまうんじゃないかと思う程に恐れていたお父様に。
いつ叩かれるかと怯えていたお父様に対して。
今のわたくしにはただ呆れた感情しか湧きませんでした。
「お父様……
わたくしはお父様が何を言っているのかが分かりませんわ。
わたくしに、何ができると言うのでしょうか?」
◇ ◇ ◇
─【 お父様との対決 】
「何がっ、……何ができるかなど聞いていない!!
お前が『何かしている』と言っているんだ!! お前がしたに決まっている!!
よくも父にこんなことをしたな!
分かっているのか!!!」
怒りのままに叫んだお父様が魔力を溜めるのが分かりました。
お父様が得意なのは風の魔法です。
魔力で風を操り、物を浮かせて飛ばしてきたりします。
今もお父様はわたくしに向かって物を投げようと魔力を使用しました。
「……………」
わたくしはただ冷静にお父様を見つめます。
きっと無表情で無感情な顔をしていることでしょう。
「っ!? ……ぐ、ぐあああぁあ!!!」
お父様が叫んで、手で顔を覆いました。
悶えるように体を屈めて叫びます。
しかしその声は、きっと外には聞こえないでしょう。
だって外の雨は嵐のようです。
窓を叩く雨の音も大きくて、お父様の声をかき消します。
「まぁ……お父様。
どう、されたのですか?」
右目を押さえて悶えるお父様にわたくしは声を掛けます。
抑揚のない声で。
苦痛に歪んだ、それでも憎しみの篭った顔で、お父様が左目だけで睨んできます。
「き、貴様……、何をしたっ!!!」
「ですから、先程から聞いているではないですか。
わたくしが、何をしたと、言うのですか?
……いえ、言い方を変えますね。
わたくしに、何ができると言うのですかお父様。
わたくしを、ずっとずっと無能だと、何もできない出来損ないだと言ってきたお父様が、
わたくしに『何ができる』と思っているのですか?」
「…………っ!!」
血を吐きそうなくらいに歯を噛み締めたお父様をわたくしはただ冷めた目で見返します。
ただ言えばいいのです。
その身に起こっている事を、そのまま感じたままに言葉にすればいいのです。
それだけの事を……お父様はされません。
きっとプライドの問題なのでしょう。
『無能』だと蔑んでいた娘が無能では無かった。
それを自分の口から認める事ができないのでしょう。
わたくしの口から言わせて『そんな事をしたのか酷い奴め』と言いたいけれど、自分の口から言って『お前はこんな酷いことをした』と、わたくしにはそんな酷いことができるのだと自らの発言で認めたくないのでしょう。
そんなお父様に、わたくしは今までお父様に見せたことはない、呆れた表情を作ってお父様と目を合わせます。
「……はぁ……
わたくしを無能だ欠陥品だ出来損ないだと散々言ってきたのに、何か問題が起これば全てわたくしの所為になさる……
“何をした”かも分からないのに“わたくしが何かした”と、こんな時だけ『わたくしにはその能力がある』と仰るのですね……」
「っ……ならお前のその態度はなんだ!?
慌てることもせず! 驚きもせず!!
その顔は“何が起こっているのか分かっている”者の反応だ!!」
そう騒ぐお父様の初めて見るその姿に、わたくしは何だが可笑しくなって少し笑ってしまいました。
そんなわたくしの姿にお父様は更に頭に血を上らせ顔を赤くします。
しかし、一度グッと奥歯を噛まれたと思うとハアァァァと大きな溜め息を吐かれて、自分の高ぶった気持ちを落ち着かされました。そして取り繕うように落ち着いた顔を作り、怒っていた表情を今度は少しだけ困った様な表情にして、わたくしに左目を向けました。
「ロンナ……、父はお前を責めている訳ではない。
お前はきっと勘違いをしているのだ。
無能だと言われた事を怒っているのだろう?
でも仕方がないではないか。事実だったのだから。
だがどうやら今のお前は違うようだ。お前の身に何があったかは分らないが、お前が魔法を使えるようになった事はただただ喜ばしいことだ。
私は嬉しいよ。
そうだな。“何をした”“何ができる”など、今はそこまで重要なことではない。
お前が魔法を使えるようになった。その事こそが重要だ。
無能だと邪険にされて拗ねてしまったかな? 力を示して私に認められたかったのだな。
この痛みがロンナの心の痛みなら、父として私も受け入れよう。
なに、怪我なら回復魔法で治る。お前が気にすることではない。
父はな……」
右目を押さえながら何か語りだしたお父様がよく分からずに、わたくしは何だか単純に不愉快になりました。
こういう、お父様の『受け入れてあげている』というスタンスで『何も理解していない』ところが昔から嫌いでした。
わたくしは苛立ちのままに魔法を発動します。
先程と同じ魔法を。
お父様の右目の眼球の中の水分や目玉の周りに張った水の膜がグッチャグチャになるように……
「あぁああああああ!!!」
痛みでお父様が叫びます。
ですがわたくしは魔法を止める気にはなりませんでした。
◇ ◇ ◇
【26>> お父様とわたくし 】
お父様の右目から湧き出る涙や血までも操ってわたくしの魔力はお父様の右目の中で暴れます。きっと眼球内や目玉の周りの神経や毛細血管を巻き込んでグチャグチャになっている事でしょう。失明すればいいと思ってやりました。
わたくしにはもうお父様を父親と思って慕う気持ちなんてありませんもの。『お父様』という呼び方も、もうただの名称や記号と同じ意味でしかありません。この方はわたくしをただ支配して使うだけ。口先だけで愛情を口にして、その実一度も愛情をくれたことなどございませんわ。自分を『人』として扱ってくれない方に、わたくしも持つ『情』などありません。
お父様には痛みに悶えることしかできません。魔法を使うには冷静さが必要だとされています。痛みに苦しむお父様にはもう自慢の風魔法は使えません。
「ぐっ…、止め……なさい…………っ!」
右目を押さえながらお父様は呻きます。
あんなに怖くて抵抗心すら一度も湧くことのなかったお父様が、今は弱く、とても矮小なものに思えます。
「お父様。
お願いです。
わたくしを、この家から勘当してください」
最後のお願いを、わたくしはお父様に伝えました。
腰を折り、頭を下げます。
お父様が机の上にあった紙を握ったのかグシャリと紙が潰れた音がしました。
「な、何故だ……
こんな力が、あるのなら……、
出ていくことはないではないか……!」
お父様が声を荒らげます。
本当にわたくしが、何故勘当されたがっているのか分からないのでしょう。
「何故と、聞かれる……
それこそが答えだと思います……
わたくしからすれば、何故“今まで虐げられていたわたくしが手に入れた力で反抗しないと思うのか”が、理解できませんわ」
「し、虐げられていた、などと……
今まで育ててもらっておいて! なんという言い草だ!!
お前がそのような立ち振舞ができるのも、私がお前をちゃんと侯爵家の娘として育ててやったからだろう!」
「えぇ、“使える道具”として、しっかり教育されましたし、“家の付属物”としてどこに見せても恥ずかしくないように育てていただけました。
お父様が周りから“欠陥品でも見捨てずに育てる心優しい父親”として褒められ一目置かれる為にわたくしが生かされた事は理解しています。
ですがわたくしは魂のない人形ではありません。
自分を否定し、わたくしの心を壊されてまでここに居たいとは思いません」
「何を言うかと思えば。
貴族として生まれた娘が“家の所有物”なのは当然だろう?
それが嫌なら貴族になど生まれなければいい。女になど生まれなければいい。
貴族の娘として生まれた時点でお前の命は当主である父親の物だ。
それに反抗するなど許されない」
「許されなければ……どうなるのですか?」
「…………お前は物分りが良く、欠陥品でなければ自慢の娘になっていたよ。
私はお前がただ、幸せな嫁入りをしてくれればそれでいいと思っていたのだ……それなのにその思いが何一つお前に伝わっていなかったのかと思うと悲しい……
お前をこんなにも愛している父を……お前は裏切るというのか?」
悲しみを顔に浮かべる父を、前世を思い出す前のわたくしが見たならばきっと心が揺れて、悲しい気持ちになっていたかもしれません。
自分に愛を訴えるお父様に、『その愛に気づかなかった自分』を責めたかもしれません。
何一つ、お父様との幸せな記憶などありませんが、弱者で劣等感しかなく愛に飢えていた以前のわたくしだったら、今のお父様の言葉を聞いて未来に期待をしたかもしれません。
……お父様から愛される未来を……
でも今は。
「裏切る、ですか?
その言葉は先に“信頼”や“期待”があってこそ成り立つものですよね?
一体どこにそんなものがあったのですか?」
首を傾げて問い返すわたくしに、お父様は憎しみの籠もった眼差しを返してきます。
「なんと薄情な娘だ!
魔力を一つしか持たずに生まれた欠陥品の自分を棚に上げて、育ててもらった恩さえ感じていなかったとは!」
お父様はわたくしを責めます。
今のお父様にはそれしかできないからです。
本当なら、怒りのままにわたくしを魔法で傷つけて、動けなくさせた後に人を呼んで地下牢にでも放り込みたいところでしょう。できるなら、わたくしをさっさと拘束してこの口を閉じさせたいでしょう。
でも、できません。
今のお父様には痛みに震えて、怒りに吠える事しかできないのです。
フフ、立場が逆転するって、こういう事なんでしょうね。
◇ ◇ ◇
─【 お父様との決別 】
「お父様。
わたくしは小さな頃から欠陥品だと蔑まれ、生まれてきた事を非難されてきました。人から愛情を貰った記憶すらないのです。お父様がわたくしに向けるそれは愛情などではありません。自分の所有物を手放したくないだけです。
わたくしが生きる上での衣食住を満たしてくださり、必要な教養を付けさせて下さった事には心から感謝しております。
しかし人は、それだけでは生きてはいけないのです。
心を壊されてまで、自分に悪意しか向けてはくれない場所に居続けたいとは思えません。
わたくしは、この家や貴方に恩など感じたことはありません。ですからもう何を言われてもわたくしが心を変えることはありません。
生まれた時点で家の恥であり、婚約すら解消されて傷物になったわたくしがこの家に籍を置いていてもパーシバル侯爵家が馬鹿にされ続けるだけです。
どうか、お願いです。
わたくしを正式に勘当してください」
2回も最後のお願いを言ってしまいました。
最後の手段をわたくしに使わせないでほしいという気持ちが強くて、心では無駄だろうなと思いながらも言葉は口をついて出てしまいます。
しかしそんなわたくしの言葉はやはりお父様には伝わらない様で、お父様はただただ腹立たしそうにわたくしを睨んできます。
「っ……駄目だ駄目だ。馬鹿なことを言うな!
お前がどう思おうと関係ない!
お前に魔法が使えると分かった今! お前は私の娘として完成したのだ!!
やっとちゃんとした娘となったお前を、私が勘当などする訳がないだろう!
カッシム君なんかより良い男を私が探してやるから機嫌を直しなさい! 少し歳上になるが良い家を知っている! きっとお前を可愛がってくれるぞ!」
そう言って口元をニヤつかせたお父様のそのお顔に、あまりにもゾッとして、わたくしは嫌悪感しか感じませんでした。
「…………もういいです」
自分でも無意識に口から出ていた言葉でした。
「ん?」
お父様が聞き返してきます。
そんなお父様にわたくしはしっかりと目を合わせて覚悟を決めました。
「もういいです、お父様。
わたくしはこの家と絶縁いたします」
「な、何を言う?!
そんな事を許すわけがないだろう!!」
「もうお父様の許可はいりません。
できれば絶縁状を書いてもらい、記録に残していきたかったのですが、お父様と話していても平行線にしかなりませんもの。
もういいですわ。
わたくしは出ていきます」
「駄目だ、っ?!?!」
叫ぶお父様の心臓の血の流れを一瞬止めました。
左手で心臓の辺りを押さえたお父様の体がふらつき、喘ぐように口を開いたと思うと、お父様の体は崩れて床に膝を突かれました。咄嗟に机に腕を突いたお父様が驚愕した目でわたくしを見てきます。
「わたくしはこの家と絶縁して今夜この邸を出ていきます。
お父様なら追いかけてくるでしょうけれど、二度とお会いする気はありません。
お父様も“欠陥品”で“出来損ない”で“無能”だと言い続けてきた者を、追いかけるなんて格好の悪い真似はなさらないでくださいね」
「そ、そんな事は、ゆ、許さん……ぞ……っ!」
立つことさえままならない状態で、まだ高圧的な態度のお父様を少し尊敬します。
「もうお父様、いえ、パーシバル侯爵閣下に許していただくことは何もありません。
いままで、お世話になりました」
わたくしは最後にお父様に向けて貴族の令嬢としての最後のカーテシーをしました。
そしてお父様の首から上の血を意識を失う程度に下げました。
「ロンナっ……っ!、…………」
ガタリッ、と音を立ててお父様は倒れました。机にもたれるように倒れられたのでララーシュの時の様に頭を打たれた事もありません。
「さようなら、お父様……」
流石に殺しはいたしません。
殺人犯での指名手配は嫌ですもの。
わたくしは一度大きく息を吐いて体の緊張を解きました。
やっぱりこうなったかという謎の納得感がわたくしの中にありました。
それでもできれば穏便に、お別れがしたかったです。悲しくはありませんがなんとなく寂しい気持ちになりました。
だけどもそんな気持ちに浸っている時間はありません。一番の問題は片付きましたが、これで終わりではありませんもの。
ここから、わたくし……いえ、私の冒険が始まるのです!
まずは逃げないとっ!
◇ ◇ ◇
─【 最後の仕返し! 】
私は誰にも見られずに自室に戻ると着ている服を脱いで鞄から平民の服を取り出して着替えました。
元々私は普段着にしていた簡易的なドレスを一人で脱ぎ着していたのでなんら問題はありません。
私に専属の侍女を付けたくなかったお義母様が子供の私が一人でも脱ぎ着できるように、見た目は普通のドレスに見える特殊なドレスを服屋に作らせたのです。今でも技術の無駄遣いだと思いますわ。そんなドレスだけを与えられていたので私は着替えを一人でできるのです。
流石にパーティー用のドレスは違いましたけどね。
そしてこの平民の服ですが。
なんとお義母様とララーシュからの誕生日プレゼントでした。
平民の服と下着が3枚ずつ。布の靴に木の皿とお椀とスプーンが一つずつ。タオルが2枚に石鹸一つ。火打石──魔力の少ない平民用に作られた物です──に小型のナイフ。チリ紙と針と糸。
平民の旅行用荷物一式が大きめの鞄の中に詰まっていました。
『お誕生日おめでとう!
これでいつでもこの家を出ていけるわね!』
と家族から笑顔で言われた時は心臓が止まった気がしました。そして家を追い出されるかもしれない恐怖で数日間眠れぬ夜を過ごしたものです。
そんな義母たちの嫌がらせの道具が今の私にはとても役に立つのですから皮肉なものですね。
服などはどれも市販品で私には少し大きいのですが、小さくて着られないよりは全然マシです。これがあったから簡単に家を出ていくなんて発想になったのかもしれません。
そしてお金は今さっきお父様の執務室から少し拝借してきました。
盗んだのではありません。手切れ金です。
綺麗事なんて言っていられませんからね。これから私は平民として生きていくのです。
誰にも見られずに邸を出た私は、真夜中の夜空を見上げました。
大雨を降らせる分厚い雨雲の所為で世界は本当に真っ暗です。
でも怖くはありません。
冷たいはずの雨が、私にはとても温かく思えるのです。
屋根のある部分から一歩足を踏み出せば、頭の上から強い雨が全身に降り注ぎます。
ですが私は濡れません。
魔法で雨水を全て体に当たらないように流しているのです。透明の傘を差している状態の私は、更に足元に魔法を発動しました。
水魔法の上級魔法。氷です。
一気に水の温度を魔法で奪い氷の板を作ります。そして私はその上に乗りました。
そしてここからは私のオリジナル魔法です。
目を閉じてイメージを固めます。
前世の記憶を思い出して……
難しく考えずに想像して……
「さぁ、行きましょう」
そう言って目を開けた私の体は空へと上がっていきました。
滝のように降る雨は小さな雨粒が連なるように降り注ぎます。それを魔力で捕まえて、あたかもロープを伝うように上に上に上がって行くのです。
原理はエレベーターです。が、見た目は鯉の滝登りの方が近いかもしれません……
足元は氷の板。伝うのは雨粒。
今日のような大雨の日にしかできない芸当です。この雨に感謝しかありません。
私は一気に上空まで上がると街を見渡せる山の頂上へと向かいました。
体全体を囲うように魔法を展開している所為か飛行による体への負荷は全くありません。それでも地面に足を下ろすと途端に強烈な安心感が湧き上がってきて少し笑いました。
山の頂から住んでいた街を見下ろすと不思議と懐かしさが沸き起こりました。良い思い出など一つも無く、親しい人など一人も居なかった街ですが、それでも自分の育った場所だからでしょうか……
心地よい雨音のBGMに私は暫し目を閉じます。
心はとても穏やかで、晴れやかです。
私は今から生まれ変わります。
身分を捨て、名も捨てて、新しい『私』になります。
「……さようなら皆さん……」
今までの事を思い出しながら、私は閉じていた目を開けて街を見下ろしました。
そして…………
「“無能”って馬鹿にした奴らザマァ!!
水魔法万歳!!!!」
そう言って街全体に向けて『全ての人の尿が強制排泄する魔法』を放ちました。
前世の記憶を思い出して初めてやらかしたあの魔法です。
きっとみんな今“お漏らし”している事でしょう。
もう夜中でみんな寝ているのでこの場合は“おねしょ”ですかね? 明日起きて子供にどう言い訳するのか気になります。
「さぁスッキリした!
雨が降ってる間に行けるところまで行くぞー!!」
私は一仕事終えた気持ちで生まれた街に背を向けました。
こんなに気持ちが晴れやかなのは人生で初めてです。今なら何でもできる気がします!
私はまたエレベーター魔法(勝手に命名)を発動して空に舞い上がりました。
この世界にも飛行魔法はありますが、こんな雨の中を飛ぶ人は居ません。
私は誰に見られることもなくこの国から出て行きます。心は期待に満ちています。
さぁ、大きな湖がある国に行きましょうか?
それとも海の近くにしましょうか?
水の魔力しかないと馬鹿にされて生きてきた私ですが、この魔力のお陰で、“水さえあれば”どこででも自由に生きていける気がします!
確か魔法に依存しない国があった筈です。
そこで私は自由に生きて、必ず幸せになってみせます!!
[完]
※最後に【ロンナの知らない後日談】(三人称視点)があります。