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永遠の湖

作者: しょこら

 気がつくと水の中を漂っていた。

 蒼く澄んだ温かな水。

 柔らかな風にそっと体を包まれているような、不思議な優しさに満たされていた。

 小さな光がキラキラと輝きながら沈んでいく。

 どこまでも深く、その先を見ることもかなわない水の底へ。

 髪から、手から、体から、いくつものきらめきが生まれている。

 それが水底へと降り注いでいるのだ。

 ゆらゆらと波に揺られながら、心地よさにまた瞳を閉じる。

 小さく体を丸めながらまどろむ。その体を柔らかな波が優しく包み込む。

 まるでゆりかごのようだ。

 何もかもが穏やかに流れていく。

 このままずっと眠り続けることができたら、どんなに幸せだろうか。

 そんなことを考えていると、辺りが急に明るくなった。と、同時に高くか細く、何かが響いた。

 音だったのか、それとも光の瞬きがそう聞こえたのか。

 それは覚醒を促す声。

 ほんの一瞬、けれど抗えない力を持った呼びかけにゆっくりと顔を上げると、天から一条の光が射し込み、こちらを照らしていた。

 まばゆいばかりの光が揺らめいている。

 力強く射し込んだ一条の光は、美しい水の世界を優しく静かに映し出していた。


 


「ここは……?」

 深い水底から浮かび上がってくると、湖のど真ん中に出た。

 それほど大きくはない湖だ。すぐそばに白く浜が見える。

 ときおり吹き過ぎる風が気まぐれに水面を揺らしていく。体の周りに生まれた幾つもの波紋も、いつしかその静寂に飲み込まれるように消えていった。

 見覚えのない場所だ。

 緑の木々が湖を取り囲むようにして高く伸びている。その向こうには白く霞む山々が連なって見えた。

 人の気配はまるで感じられない。風だけが吹き過ぎていく。

 見知らぬ場所にたったひとりで、どうしてわたしはここにいるのだろう?

 さっきまではもっと違う場所に、暖かくて優しかった場所にいたような気がしたのに……。

 だがその景色を思い浮かべることはできず、頭の中はぽっかりと穴が開いてしまったように空白だった。

「どうして……?」

 ゾクリと背中に悪寒が走った。

 思い出そうとすればするほど、頭の中のイメージはあいまいになり、焦燥感だけが募ってくる。激しい吐き気と体の震えに襲われて涙が出た。大声で叫びだしそうになり、慌てて目を閉ざし、耳をふさいで、思いっきり水を蹴った。

 素足にあたる砂利を蹴るようにして岸へと上がると、砂浜に手をついて、その場に座り込んだ。

 温かい砂の感触はやわらかくてさらとしていた。

 そっと握ってみる。手を広げると微かな音を立てて砂は零れ落ちていく。そんなことを繰り返していくうちに、ようやく落ち着いた。

 さっきは何をそれほど恐れたのか、自分でも分からなくて滑稽に思えてきた。

 ここは静かで穏やかだ。

 自分を害するものなど誰もいない。静寂を乱しても、静かに、ただ静かに、湖はそこにある。

「ここはいったいどこなのかしら?」

 湖面を覗き込むと一人の少女の姿が映っていた。

 大きな緑の瞳が不安げに揺れてこちらを見ている。そっと手を伸ばすと、水面に移った少女の姿は波紋とともに揺らいだ。

「わたし……?」

 なんとも不思議な気分だ。水面に映った姿が自分のものであると確信ができない。

 こんな顔をしていたのだろうか。

 瞳の色はこんな色だったのだろうか。

 そして髪の色も。

 誰か、自分ではない別の人を見ているようだ。

 腰まで伸びた淡い金色の髪が少女の華奢な体の線に沿って張り付いている。水を含んで重くなった髪の毛を煩げに払いのけた。

 かすかな違和感が居心地悪く感じさせているのか。どうにももどかしい。頭の中に靄がかかってしまったかのようではっきりしない。

 ここが何処なのか。

 何故こんなところにいるのか。

 そして、自分が誰なのかも分からなかった。


 


「名前……」

 大きくため息をついて、空を仰ぐ。

 綺麗に澄んだ青空が広がっていた。

「名前」

 もう一度繰り返してみる。

 自分のことが分からないのが一番堪えているように思う。

「なんでこんなところにいるのかも分からないし。そもそも、どうして誰もいないの?」

 その問いかけに答えてくれる存在は見当たらない。考えれば考えるほど不安になっていく。これでは一歩も動けなくなってしまう。

「どうしよう」

 美しい景色。

 良く晴れた青空と緑の木々、凪いだ湖の蒼が調和して、どこまでも静かに佇んでいる。

 すこし歩けば、なにか思い出せる景色があるだろうか。もしかしたら、誰かに出会えるだろうか。

 不思議なことに、湖から一歩離れると、体を濡らしていた湖水は流れ落ちる間に乾いていった。白いドレスには泥さえ付いていなかった。

「あらあら、まぁ」

 なんとも不可思議な湖水だ。

 水から上がった後の気だるさもなく、逆に体中の荷を降ろしたような軽さを感じる。

 ふわふわと浮いてしまいそうな、おぼつかない足取りで、それでも歩き出す。

 とりあえずは足の向くまま、気の向くままに歩いてみることにした。

「こんな綺麗な場所だもの、きっと誰かいるはずだわ」

 けれども、どこまで行っても人の気配はなく、静かな世界が広がっているだけだった。

 しばらくすると、なにか涼やかな音のようなものが聞こえてきた。鼓膜ではなく、意識に直接響いてくるようだった。

「何かしら、呼ばれているみたいだわ」

 どうしてここにいるのかも分からないし、何も覚えていないのだから、行き先も何もない。行かなければならない理由はないが、ここに留まる理由もない。迷うことなく、音のする方向に歩き始める。

 ゆらゆらと何かが揺れている。

 目を細めて前を注視する。

 そこには何もないはずなのに、なぜか眩しさを感じた。

 森の向こう側には美しい山脈が見えている。その光は遠く山脈から放たれているわけではなさそうだ。距離感もつかめない。だが確かにそこに、その場所にあるのだと感じることができる。そして、なぜかとても懐かしいとさえ思えるのだった。

 何も覚えていないのに、なぜそんな風に思えるのだろう。

 誘うように揺れる温かな光は、水の中で見たあの天から射し込んでいた光とよく似ていた。

 だからだろうか。

 あの光が自分を目覚めさせ、そして呼んでいるのだろうか。

 その光を見つめているだけで、恐怖も心細さも寂しさも、すべてが消え去っていくようだった。


 


「待て、シェーン」

 ふいに静かな怒りに満ちた低い男の声がして、強い力で腕を引かれた。

 振り返った先に立っていたのは、まだ若い長身の男だった。

「誰?」

 クセの強い黒髪、ともすれば青白く見える陶器のような白い肌、背筋の伸びた長身をゆったりとした青の長衣で包んでいる。湖と同じ深い蒼の瞳がまっすぐ自分へ向けられ、その視線の鋭さにたじろいだ。紛れもない怒りの感情に彩られていたからだ。

「どういうつもりだ? 光に呼ばれでもしたか」

「なにを言っているのか、わからないわ」

 青年はひどく怒っているようだった。

 彼の言う光とは、今、目の前に見えているあの光のことなのだろうか。

「あなたは誰?」

 睨み返すようにして尋ねると、青年は眉をひそめ、探るようにこちらを見た。信じられないことを聞いたとでも言いたげな視線で見つめてくる。何故かひどく居心地が悪かった。

 しばらくして、青年は苛立たしげに、激しく舌打ちした。

「やはり、湖に入ったな」

「そうだけど……」

「なぜだ」

 二の腕を掴む手にさらに力がかかる。痛みに目を細めながらも負けじと睨み返した。

「そんなことを聞かれてもわからないわ。ここがどこなのかも知らないし、自分のことだって……!」

「だろうな」

 呆れ返ったような物言いが癪に障る。初対面なのに、どうしてこんな言われ方をされなくてはいけないのだろうか。

「……あなた、いったいなんなの? さっきからわけのわからないことばかり!」

 青年は憮然とした顔で無言のままにらみつけて来る。不思議なことに、この青年は自分のことを知っているような物言いをする。それが気になった。

「さっきあなた、わたしのことを……」

 確か、シェーンと呼んだ。

「シェーンって私の名前なの? あなたは私のことを知っているの?」

 振りほどこうとして身をよじると、あっけないほど簡単に手は離れた。青年は冷ややかなまなざしを向けたまま、目を逸らそうとはしなかった。

「知る必要があるのか? 望んで忘れたのだろう?」

「どういうこと?」

「お前は湖に入った。それが答えだ」

「それじゃあ、分からないってば!」

 背を向けて立ち去ろうとする青年に、慌ててしがみついた。

「私のことを知っているっていうなら、ちゃんと教えてくれてもいいでしょう?」

 どうしてこんな意地悪するのだろう。右も左も分からず、自分のことも分からない。誰もいないかもしれないと心細かった。考えないようにしていたけれど、こうして出会った人にすげなくされたらどうしていいのかわからなくなる。泣くつもりなんてさらさらなかったのに、いつの間にか涙があふれていた。

 青年の冷ややかに強張ったまなざしがわずかに揺らぐ。注意してみなければわからないようなほんのわずかな変化。なんとも表情の読み取りにくい人物だと思った。一瞬の変化は気のせいだったかもしれないと不安に思い始めたとき、青年は小さく息を吐いた。

「ここは”()()()()”。”()()”を目指す旅人たちの想いや記憶が眠っている場所だ」

「記憶が眠る場所……」

「この湖の水には浄化作用があり、禊の場所でもある」

「じゃあ、わたしの記憶もここに?」

 青年は問いかけには答えず、湖に向けてしばらく目を凝らしていた。

「今もまたひとり、旅人が訪れた」

 静かに目を伏せると腕を湖に掲げ、なにか呪文のようなものをつぶやいた。どこか異国の響きに似て、何を言っているのか全くわからなかった。

「ねぇ、あなたは誰なの?」

「私は……管理人だ」

 そっけない答えにふと考え込む。聞きたかったのはそんな答えではなかったような気もするが、どう聞けばいいのか考えてしまう。

「ねぇ、もしかして……管理人さんはわたしが勝手に湖に入ったから怒っているの? あ、でもわたし何も壊してないし、湖を汚したわけでもないわよ? ……って、覚えてないけど」

 じろりと睨まれた。仕事の邪魔をしてしまったらしい。首をすくめて、青年が何をしようとしているのか、じっと見つめた。

 湖からいくつもの光が浮かんでくる。小さな光はくるくると踊りながら青年の掲げる手のひらにと集まってくる。

 実際、それは光なのか、雫なのか、分からない。だがそれと同じものをついさっき見たような気がした。

「ここには”花園”への扉がある」

「……花園?」

「訪れし者すべてに門戸が開かれているわけではない。選ばれし者、選びし者の前にのみ開かれる……永遠の楽園への扉だ」

 知っているような気がするが、やはり何も覚えてない。その言葉の響きがとても懐かしいとさえ思えるのに、それすらも錯覚かもしれないと不安になる。

 確信が持てないのだ。

 どこまでも曖昧で、頼りない。

 だから頼れるのは彼の言葉だけ。

「永遠の楽園、”花園”」

「シェーン、お前がここに来る前に暮らしていた世界だ」

「わたしの?」

「だから、お前の前にはいつも扉は開かれている」

「扉なんてどこに……?」

 辺りを見渡しても、どこにも扉のようなものは見えない。

「見えているはずだ。光が」

 あの光が花園への扉?

 だからわたしを呼んでいたの?

 あんなにも優しく懐かしく思えたのはそのせいだったのかと思った。

 青年の手の内に集まってくる光の粒がひとつに凝縮されていく。

 その業に、輝きに、魅入られる。

 いつしか光は収まり、青年の手の中には小さな水晶玉が現れていた。


 聞こえてきたのは、旅人の声だった。


『まだたどり着けない』

『病もなく、苦しみもない世界……人と精霊とが共に暮らす世界……美しい、永遠の国。永遠の楽園、花園』

『花園への扉は本当にあるのか』

『疲れた……ひどく疲れてしまったよ』

 いくつもの声、思い。希望に満ちた声もあれば、絶望に打ちひしがれた声もある。

『ただの夢物語だったのか』

『この湖はすべてを洗い流してくれる。もう、忘れよう』

『すべて忘れて、元の世界に……帰、ろう……』


 ふいに何かがひどく軋んだ音がした。

 脳裏に浮かび上がっていた旅人の映像が大きく歪んでかき消された。

 シェーンは我に返り、息を呑む。

 青年がひどく険しい表情で、手の中の水晶玉を握りつぶそうとしていたからだ。

「なにをするの!?」

 ギリギリと音を立てて水晶玉が軋む。まるで悲鳴を上げているようだ。

「やめて!」

 シェーンの制止の声もむなしく、水晶玉は音を立てて弾けとんだ。砕けたかけらは光にもどり、地につく前にその輝きを失って消えていった。

「あ……」

「なんとも自分勝手なことだな。そう思わないか」

 青年は皮肉を込めて、唇の端を吊り上げて見せる。

「なんてことを! あれは、あの旅人の想いの結晶でしょう? それをあんな風にこわしてしまうなんて!!」

「かまうものか、捨てられた想いだ」

「そんな……」

 人はときに抱えきれないほどの思いを抱いて、身動きできなくなるときがある。すべてを捨て去ってしまいたいと思うときがある。やり直したいと、しがらみから解放されたいと、願う。

 それならば、この湖は人々にとって救いなのではないだろうか。

 想いも、記憶すらも洗い流してくれるというのなら。

 だがそれは過去を捨てるということと同じ。

 それは本当に救いになるのだろうか? 

 青年を見ていると、ふとそんな疑問が浮かび上がってきた。

「お前もおなじなのだろう?」

 シェーンの思考を遮るようにして青年は言い放つ。青年がなぜか深く傷ついているように見えた。

 彼はいつもあんな風にして、湖に託されたたくさんの想いを受け止めているのだろうか。人々が抱えきれないほどの想いをひとつひとつ見つめて、受け止めて、そうして悲しんでいる。

 同じなのだろうか、わたしも。

 抱えていたはずの想いも記憶も、彼の言うとおり、すべて捨ててしまったのだろうか。すべて無くして、なにをやり直そうとしたのだろう。もしくは何から逃げ出してしまったのだろう。

「分からないわ」

 青年は外套の内側から二連のネックレスを取り出して掲げて見せた。

「それは……」

 小さな水晶玉がいくつも連なり、さらに二連になっている。

 きらきらと光をはじくそのネックレスに目を奪われた。

 強烈な懐かしさが襲ってきた。

「それはわたしの……」

 問う前に何故か、そのネックレスは自分のものだと分かった。

 青年が眉根を寄せてシェーンを一瞥する。

 連なる小さな水晶玉の内のひとつを青年が取り上げると、光が生まれ大きく広がった。

 そこにうっすらと景色が見えてくる。

 色とりどりの美しい花たち。緑に包まれた至上の楽園。笑いさざめく乙女たちの軽やかな歌声。彼女たちはみな、どこかシェーンに似ていた。

「ここが”花園”……?」

 これはわたしの記憶?

 鮮明な映像が映し出されているのに、まるで実感がわかない。幸せそうな彼女たちの笑顔が遠くに感じる。そしてそう思うことが寂しくもあった。

 あの中に、わたしはいたの?

 永遠の楽園と呼ばれる場所で、幸せに暮らしていた?

 本当に?

 確信ができない。

 光は懐かしいとさえ思えるのに。

「光と風と花々に満たされた国だ」

「とても美しいところね」

 他人事のような答えだと自分でも思った。

「お前は『花園の乙女』として、神殿にいた。歌を歌い、舞を奉納する巫女だった」

 美しく着飾った乙女たちが清らかな光をまとって舞っていた。何の憂いもなく、幸せに満ちた笑顔を振りまいて。その笑顔がまぶしいほどだった。

 だからこそ、分からなくなる。

「わたしはどうして記憶をなくしたのかしら?」

 青年は答えなかった。

「だっておかしいじゃない。わたしってばそんな美しい場所で暮らしていて、どうして忘れなきゃいけないことがあるのよ。優しい人に囲まれて、笑っていたわ。それなのに? おかしいわ、そんなの。もっと他に、別の理由があるはずよ」

「知ってどうする? お前は湖に入り記憶を捨てた。この水晶がその証拠だ。いまさら何の理由が要る」

「だって……」

 シェーンはぎゅっと自らの手を握り締めた。

 反論できない。確かに自分は記憶を失ってここにいるのだから。

「お前はいい。忘れることができるのだからな」

 静かな声だ。悲しみに満ちた声には絶望すら感じられた。深すぎるほどの。

「あなたには出来ないの?」

「私は、……管理人は、ここを離れることはできない。どんなことがあっても。どんな苦しみも悲しみも、湖は消してはくれない」

「じゃあ、あなたの救いはどこにあるの?」

「……救いなど」

 くしゃりと青年の顔がゆがんだように見えた。どうしてだろう。涙が出る。とてもひどいことをしてしまったのだと、心の奥で納得している自分がいた。

「あなたはどうしてわたしを引き止めたの? あなたはわたしの、なに?」

 そうだ、さっき本当に聞きたかったのはこのことだったのだ。

 青年ははっと息を吐き出して、額に手をやった。笑ったのか、呆れたのか分からなかった。

「ねぇ、それはわたしの記憶なのでしょう? その水晶があればなにか思い出せるかも知れないわ」

「思い出してどうする? こんなものを勝手に押し付けていったお前が、いまさら何を思い出そうというのだ!?」

「だって、違うもの! きっと違うもの!」

「何が違う?」

「じゃあ、どうしてあなたは泣いているの?」

「誰が、泣いてなど……」

 確かに涙を流して、声を上げて泣いているわけではない。けれど、全身で嘆き悲しんでいる。それに気付いていないのか、それとも知らないふりをしているのか。

「帰りたければ帰ればいい。私は……構いはしない」

「嘘よ。じゃあ、どうして引き止めたの? 最初は怒っているのかと思った。でも違う。あなた、さっきからずっと泣いているじゃない!」

 シェーンは青年の手にある水晶のネックレスに手を伸ばす。だが青年は反射的に身をかわし、掴むことはできなかった。

「ねえ、返して!」

 思い出したかった。

 自分のことを。そして、彼のことを。

 どうしても思い出したかった。

 もみあっているうちに、指先がかすかに水晶玉に触れた。

 その瞬間、水晶が光を放つ。はじけるように激しく、光が体を貫いた。光の紡ぐ響きがシェーンの体を震わせる。倒れこみそうになるところを、必死に青年にしがみついた。青年の腕がシェーンを支える。

「あ……」

 大きく目を見開いて、目の前の青年を見つめるとまっすぐな蒼い瞳がすぐそばにあった。

 静かな湖水を思わせる美しい蒼。

「……フェルン」

 口をついて出た言葉。

 何も考えることなく、当然のように出た言葉だった。

 青年が微笑む。

 ほんのかすかに唇の端を上げただけ。だがその目には冷たく凍てつくような鋭さはなく、とても優しい光を湛えていた。そう、あの湖の水のように。

 知っている。

 この笑みを知っている。

 そして。

「フェルン」

 これが彼の名前。

 フェルンが頷き、水晶をシェーンに差し出した。陽の光を反射して、水晶がきらきらと輝いている。

 もっと知りたい。

 彼の名前だけでなく、もっと。

 彼はわたしの何?

 知りたい。

 思い出したい。

 この水晶にわたしの記憶がある。

 失くしてしまった想いがここにある。

「わたしの……」

 まぶしさに目を細めながらも、シェーンはその手に水晶を受け取った。

 そして首にかけると、すべての水晶玉が一斉に光を放った。

 フラッシュバックするいくつもの景色。

 眩いばかりの光と芳しい花々の中で、空を飛ぶ鳥のように歌っていた少女。

 歌声に惹かれて振り返る黒髪の美しい青年。

 そう、わたしたちは花園で出会ったのだ。


 


「フェルン」


 


 覚えている。

 芳しい花々に彩られた常春の国。

 人と精霊とが共に暮らす永遠の楽園。

 病も苦もなく、朗らかな歌声と笑い声が、絶えることなく世界を満たしている。

 私はそこで生まれ、優しい人たちに囲まれ、なんの憂いもなく暮らしていたのだ。彼に出会うまでは。

 

 覚えている。

 初めて訪れた深い緑の森の奥。

 静かに穏やかに流れていく時の中で、凍てついた氷のように頑なだった青年がいた。

 蒼い湖面を渡る涼やかな風はとても優しくて、でも寂しげだった。高く連なる山脈の峻烈なまでの静けさと同化するように、ただひとり佇み、湖を見つめ続ける愛しい人。

 青年はずっとひとりでこの湖を見つめてきたのだ。

 悲しみと孤独を抱えて。


 そばにいたいと願った。

 そばにいるだけでいいと思っていた。

 無理を言って押しかけて、そうしてそばにいるけれど、彼はなにも言わない。


 だから、不安だけが募ってくる。


 そばにいるのに。

 それだけで幸せだったはずなのに。


 欲張りになってしまったから。


 だから……

 その不安を、

 忘れてしまいたかったの。


 



 軽く押されて、再び水の中へ突き落とされたのが分かった。優しい水がシェーンの体を包み込む。

「莫迦だな」

 遠くからフェルンの呆れたような声が届く。目を閉じているから、彼がどんな顔をしているのかは見えない。

 波にたゆたいながら、深く水底へと誘われるように沈んでいく。

 戻っていくのだ。元の世界に。元の、わたしに。

「早く帰って来い」

 薄れていく意識の中で、フェルンの言葉を聞いたような気がした。



 さざなみが耳を打つ。

 風が頬を撫でて吹き過ぎてゆく。

 シェーンははっとして起き上がった。

 陽はまだ高い。

 だが湖の中の時間は、地上の時間の流れとは違う。湖の中の時間はとてもゆっくりと流れていて、それがたとえほんの一瞬でも、地上では一日や一年の月日は瞬く間に過ぎ去ってしまう。

 あれから、どのくらいの時間が過ぎているのだろう。

 白いロングスカートをたくしあげて、シェーンは走り出した。

 森を抜けると見えてくる大きな屋敷。それがわたしの家。わたしたち二人の家。”永遠の湖”を二人で見守るための家。その玄関先に人影が見て取れた。

 青い外套に身を包んだ長身の青年。

「フェルン!」

 相変わらずの仏頂面で、腕を組んで立っている。こちらを見つけているはずなのに、表情一つ変えない。

 駆け寄って、目の前のところで、足が裾に引っかかってつんのめった。

「うきゃっ」

 必死でしがみついて顔を上げると、やはり呆れたようなフェルンの顔があった。

「えっと……どのくらい?」

「一週間だ」

 短くフェルンが即答する。

「ああ、良かったぁ。一週間ならまだ早いほうよね」

 じろりとにらまれて、シェーンは首をすくめる。

「ごめんなさい……」

 フェルンはふいっと横を向き、静かな声で言った。

「自分から押しかけてきておいて、いまさら悩むな。嫌なら最初に追い出している」

「うん、あのね……」

 そっと腕に縋って、その蒼い瞳を覗き込んだ。

「えっと……ただいま」

「お帰り」

 フェルンが微かな笑みを浮かべてそう答えた。本当によく見ていなければ分からないような笑顔だったけれども、シェーンはその笑顔がやはり大好きだと思った。


 


                  終


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