前編
隆二
生ごみにしてやろうか?
そう思った。もしかすると声に出したのかもしれない。工事現場にあるような、鉄のバッカンに放り込んで、雨ざらしにして放置してやる。現場のガラクタに埋もれてだらしなく躯を雨にさらしている、そんな奴の姿を思い浮かべて、敢えて無理からにニヤリと笑った。そんなことでもしないと気が収まらない。隆二はそうしたエキセントリックな空想から現実に戻った。ゆっくりと体内からアドレナリンが撤退するのを感じる。近頃はこうしたことが多くなった。過剰にホルモンが放出されて、怒りが怒涛のように押し寄せる。以前は気の長い方だと、思っていたが、いや違うな、やはり気は短かったかも知れない。それよりも、忍耐力が優れていたのだ。だからこうした怒りも抑えつけてきた。しかし最近はどうも自分の感情をコントロールすることに難しさを感じることが多くなった。これも更年期というやつなのかもしれない。
隆二は特務1課の刑事である。若白髪の質だったが、50を過ぎるあたりから、染めた髪に作為の醜さを感じるようになり、染めるのをやめた。白髪を長い髪のままで放置していると、なんとなく惨めな感じになるので、短髪にした。したがって、今はクルーカットの白髪頭である。一時期は太ってしまったこともあったが、これもまた40過ぎに至って、老後を誰かの世話になるのは嫌だという理由から、毎朝一時間ほど走ることにしていて、今も二十代のころの体型を維持している。
ベテランの域に入るが、出世コースには縁がない。特務課というのは、その時々に応じて必要な箇所に配属される流動的なポジションであり、聞こえの良さに反して、実は窓際である。もう少しましな言い方では、便利屋と言ったところだ。だから、必要な箇所と言っても、重要な案件に携わることはほとんどない。制服組と一緒になって、単純な作業や、例えば荷物を運んだり、掃除をしたりと雑用で一日が終わることもあった。たまに現場が手一杯なら、通常の事件も回ってくるが、滅多にない事だった。こうした待遇は若ければ、屈辱的だろうが、もう年輪を重ねた人間にとっては、どうってことはない。負け惜しみなどではない。人をまとめて責任を持つことの大変さも、出世競争のじりじりするようなストレスも、部下を育てるといった面倒なことも、すべて経験してきた。その上で自分はそうした責任を持つことには向いていないと判断したのだ。それはやはり短気だからだろう。人に任せるよりも自分でした方が早いという、そうした思いが常にある。誰かを育てるために何かを任せて、その様子を悠長に眺めているなどという気長な行為は我慢が出来なかったことの方が多い。だから、隆二の下につくと、育った人材よりも、潰れてしまった人材のほうが遥かに多かった。いずれもまだ若く、これからという人材を何人も潰してきた。指導する人間が自分でなければ、あいつらは別の人生を進んでいたかもしれないという思いは、後年になって思われたに過ぎず、その時分はそれが正しいと思い込んでいた。彼等に対して吐き捨てた叱咤の言葉は、やはり言い過ぎだったとも、これもまた思ったのは後年になってからだ。入りたてで右も左もわからないような時分に、先輩から口汚くののしられて、叱られて、さぞ怖かったことだったろうと思う。若い彼らにしてみれば、自分は十分すぎるほどのベテランなのだ。見た目の印象だけでも、黙っているだけでも、その上機嫌が悪いともなると、そのことだけでも威圧するには十分だ。その状態からの叱責なのだ。しかも隆二は極端に口が悪かったし、上にも下にも、遠慮もしなかったから、その効果たるやと言ったところだろう。そのような自己認識も潰れてゆく連中を見ていくうちに悟ったことだった。あの若いスマートな連中。まるで子供のような連中と相対していると、自分の年齢をつい忘れてしまうものだ。彼らからどう見えるかなんて、気にしたこともなかった。いつまでも若いつもりでいたのだ。しかし鏡に映る自分は、スマートでも何でもなく、年老いてベテランの域に入った、重圧的な外見の持ち主なのだった。そうした経緯もあって、すっかりあきらめがついたというか、悟ったのだった。
仕事自体は嫌いではない。他人を巻き込んで、または他人に影響を与えて、人を動かしたりするのでなければ、あくまでも自分のペースで仕事が出来るのならば、敢えてこのままで行きたいものだと思っている。若い時には、野望のようなものも持ったこともあった。出世を望んで、未来に対する具体的な展望があったわけではない。ただがむしゃらに同僚には負けたくないという負けん気が人一倍強かっただけだ。自分が優れた人材であることを常に証明したかったのだ。同期の連中が飲み行くと必ず出る話に、どこそこの誰それは仕事が出来るというそのネタとして自分を扱って欲しかっただけの話だ。くだらない自尊心だった。そのくだらなさに気が付いたというのも一つだ。
一方で、そうした隆二が若い時分にも、周囲には自分とは違うスタンスで、マイペースを貫いてのんびりと仕事をしている連中が居たことは確かだ。その時はそうした連中を軽蔑していた隆二だったが、今となってはそうした連中が羨ましく感じる。無欲であるという事が頼りなく、無責任に見えた時期もあったのだ。しかしその静謐な姿勢は、今となってはよく理解できるのだった。連中が向き合っていたのは、仕事そのものだ。隆二が同僚や、上司を意識して、その影響を感じながら、焦りをもって何かに取り組んでいた時に、彼らはそうした余計なものから自由になって、好きなように仕事をしていたのだった。しかしそれはこの組織においてはかなりな異端であるようにも見える。誰もが、何かに追い立てられるように何かをしているのだ。いや、そう見えるだけなのかもしれない。それでもその流れの中で、どっしりと根を張ったようなそのやり方が、今までの仕事に対する疲労を癒してくれるように感じた。どのみち、あと数年しか仕事が出来ないのだ。折り返しは過ぎたのだし、たっぷりと奉仕はさせてもらったつもりだ。これから先は、だから自分の好きなように仕事をさせてもらおうと、そう思っての事なのだった。
ところで、マイペースというのは良い言い方をすれば、どっしりと根を張ったと、そのように表現できるものだが、悪いマイペースというのもある。これは自己本位とも、空気を読めないとも言えるだろう。或いは自己本位を貫くために、空気を読めないふりをしているのかもしれない。そのマイペースを貫くのが、先ほど隆二が生ごみにしたかった男である。この男、名を阿久根という。
阿久根
また俺の事をにらんでやがる。
自分が好かれるタイプの人間でないことはわかっているが、どうやらこの同僚の隆二という男からは特に嫌われているようだ。阿久根は隆二よりも五歳ほど年上である。目が悪いので眼鏡をかけている。体も虚弱な質で、色白で痩せている。昔の言葉で言うならば蒲柳の質と言ったところだろう。文学青年で、結核で死んでしまうようなタイプだが、そうした文学などという高尚なことには一切縁がない。自分の事を一言で言うならば、悪運のいいチンピラと言ったところなのだと思っている。そうしたことにはすでに幻想はない。小さなころは、しょっちゅうこの細い小さな体の事でいじめられたものだ。学生時代はだから、空手をやった。それもあって、警察の試験に合格したと言ってもいい。だが、染みついた世渡りの術は消えないものだ。強い者の匂いをかぎ分けて、口先の器用さで近づいてゆく。腹の底では、違う事を考えているが、調子を合わせることと、下出に出ることは忘れない。それが見破られない限りは、また見破らないふりをしてくれている間は、調子よくふるまって、可愛がられるように、或いは可愛がられるふりをしてくれるように、言い換えると、利用してもらえるように、ひいては自分が利用できるように、努めてきた。寄生虫と宿主のような関係だが、どの宿主につくかによって、人生の運は違ってくるのだ。それを外すときもあったが、大方はあたりだったと言えるだろう。こうして窓際に押しやられた分際ではあるが、本来はもっと下層の生活に甘んじていなければならないようなことをしてきたのだ。これが悪運というべきものだ。他人から見れば理解に苦しむところだろうが、自分はわかっている。大きな罪を犯したわけではない。それがチンピラたるゆえんだ。小さな、怠惰な、決して褒められるようなことではないが、重罪でもないようなことを積み重ねてきた。その一線は守ってきたのだ。自分の様に土台のない人間は、そうした超えてはならない線を、ことさら慎重に、敏感にかぎ分けて、臆病に、かつ計算高く生きてゆくものだと思っている。彼のこうした生き方は、進化論的に言えば、勝者の生き方である。優れたものが残るわけではない。ただ生きていくことが出来れば、それが勝者なのだ。
そんな彼が最も苦手なのが、隆二のようなタイプだ。隆二はどうやら洞察力というものに多少は優れていると見えて、阿久根の魂胆をすっかり見透かしている様だった。仮に見透かしたとしても、優しさを持つ人間なら、鷹揚で、人の良さというものを持ち合わせているような人間なら、または同じタイプの人間で、互いに利用価値があると認めた人間なら、合わせてもくれるのだが、隆二はとことん阿久根を嫌っていた。しかもそれを隠そうともしない。だが、それはどうでもいい事だった。隆二は所詮一匹狼だ。彼に取り入ったところで利用価値は薄いのだ。だから、荷物が運ばれてきて、それを隆二が運んでいても、手伝おうとはしなかった。知らんふりをしていたのだ。誰かがそれをしなければならないが、自分でやることはない。やってくれるものが居るならば、任せておけばいいと思っている。その結果としてのあの形相だ。それに対しては無視を決め込んだ。
「お先に失礼」机の上を形ばかりに片付ける。阿久根の身の周りは何もかもが乱雑におかれている。机の引き出しの中はゴミ箱のようだ。対する隆二は整理整頓を常に心がけている。このことが仕事の円滑さに貢献するという信念を持っている。それに、いかに効率的に資料を保存できるかどうかを考えること自体が好きで、時間が空くと、文房具屋を覗いて、何か使えそうなものは無いかと店の中で過ごすこともざらにあった。その隆二から腹立たし気に発せられる「ああ」という返事を聞き流し、消えるようにその場を後にする。部屋を出るなり、たばこを取り出して口に咥えた。が、火はまだ付けない。館内は禁煙だった。いつからこんな具合になったのか、机に向かいながら、咥えたばこで目に染みる煙に目を細めながら、書類を書いていた時代が懐かしく思われる。パチンコがしたくてたまらなかったが、もう今月の軍資金は使い果たしていた。もちろん飲みに行く金もない。また誰かにおごらせようか、誰にしようか?何を食おうか?などと考えながら、一階に出て、駐車場に行き着くまでに、安物のライターに火をつけ、たばこから煙を吸い込んだ。阿久根の身の回りのものは全て最低限の安物である。支給されるボールペンに、支給の手帳、吊るしのスーツは最近出始めたファストファッションのものだ。ウールではないが、ウールに見える。これで十分だ。上着は体にジャストフィットさせて、スラックスはクッションをつけている。もう何年もこのスタイルだ。上着をぶかぶかで着てみたり、靴下が見えるほど短いスラックスをはいてみたり、クッションがない、すとんと落ちるようなシルエットでスラックスをはくなどと、問題外だ。
そういえば、隆二の奴、いつもスーツは良いものを着ていたな、と阿久根はぼんやりとそう考える。ボールペンだって奴が支給品を持っているところを見たことがない。あいつは酒も飲まないし、ギャンブルだってしない。まあ、あれだけ身の回りに金を使っていれば、この安月給ではそれもできないだろう。あいつは何が楽しみなのだ。全く理解できない。
そんなことを考えながら、車に乗り込んだ。阿久根の車は中古の軽である。しかも相当にヤレている。付き合いのある中古車販売店に頼んで、最低限の車をさらに値切って安く手に入れた。しかもその車の調子が悪くて、クレームをつけ、追い金なしで少しいいヤツに変更させたのだ。店主は文句を言っていたが、押し切ってやった。どうせタダ同然に仕入れてくるのだ。損することはあるまいと思っている。車内はたばこの灰で真っ白だ。フロントガラスも内側が白くなっていて、夕方などは反射してまぶしいが、その時は拭かなくてはいけないと思いながらも、その時間帯を過ぎると忘れてしまう。その繰り返しで、かなりの汚れだが、見えないことはない。いつ飲んだかわからない缶コーヒーの空き缶に、空の芳香剤、退色した古い雑誌などが床にも座席の上にも散乱している。上司は嫌味たらしく注意してくるが、大きなお世話だ。汚れていようが、車は走ればいいのだし、運転するのは俺だけなのだ。この車には誰も乗らないし、誰にも迷惑は掛からないだろう。と言っても、阿久根には捜査車両を同様に灰だらけにしてひどく注意されたことがあった。ひどくというのはそれが度重なったからで、しかもそのせいで車内では禁煙にされてしまったことを、一度了解しておきながら、また灰だらけにしたからなのだった。隆二はたばこも吸わないから、その時は黙ってはいたものの冷めた目で見ていたものだった、それを思い出すと腹が立ったが、禁煙をごまかして、発覚してしまったものは仕方がない。俺にも落ち度はある。
それにしても、と阿久根は更に腹立ちの原因を思い出す羽目になった。時間を確かめようと、腕時計を覗いたからだった。阿久根の腕にはロレックスがはまっていた。仕事の都合上あまり派手なものは出来ないので、大人し目のデザインのものを選んであるが、もちろんこれは偽物である。あからさまな偽物ではなく、より精巧に作られた特別なモデルだが、言うまでもなく違法な商品である。これはある筋から融通させたものだ。それを愛用するのは、職業上の倫理違反もいい所だが、素人が見たって全くわからないし、まさか刑事がこんなものをしているとは誰も思わないので、同僚には中古を手に入れたという事にしている。これをしていると、していないとではスナックに飲みに行った時のホステスの受けが全く違うのだ。以前時計好きな友人と連れ立って飲みに行った時の事だ、彼は阿久根が全く知らないブランドの時計をしていた。確か、バセロンだったか、バシュロンだったかそんな名前だったと思う。忘れてしまったが、阿久根にはそんなことに興味がないので、その薄っぺらな金時計を見せられた時も上の空で聞き流したのだった。小さな文字盤には金でブランド銘が入っているようだったが、薄暗いスナックの中では当然見えもしない。一目でそれとわかるような時計ならともかく、そんなものをしていたところで、自己満足以外のなに物でもないだろうと思っていたのだが、ホステスの一人が友人に今何時と尋ねているのが聞こえた。飲みに来ているのにホステスが時間を気にするとは、とあきれたが、目的は違ったようだ。友人は時計をホステスに見せたが、ホステスは見えにくいと言いながら、時計のそばまで目をやって、おそらくその時に時計のブランドを確認したのだろう。その後は、それまでの態度とは打って変わった応対になった。そのあまりにあからさまな様変わりを目の当たりにして、がぜん時計に興味がわいたのだ。あとで友人に聞いたところではそのバセロンだか、バシュロンだかというのは機械式時計の三大ブランドの一つで、その小さな金時計は少なくとも百万円ほどするらしい。三大時計ブランドと言っても、どれも阿久根には初めて聞く名前だったし、そんなものをしてみる気にはとてもなれなかった、ましてやそんなものに百万もの大金をかけるなんて、信じられない行為だ。
そんなわけで、偽物のロレックスに落ち着いたのだった。幸いにもやはりホステスだって、まさか刑事が偽物ロレックスをしているとは思わない様で、バレたことはない。いや、表立ってという事だろうとは思う。彼女たちだって、何か話のきっかけがある方が助かるというものだ。時計を誉めるというのは、簡単なお世辞の使い方だし、聞く方だって、嘘とわかっていても、そのバリエーションの一つに変化があった方が、気分がいいというものだ。
その時計を隆二はどうやら偽物と見破ったところがある。中古で買ったと聞いて、彼は値段を尋ねてきたのだ。もちろん阿久根にはロレックスの相場があるなんて知る由もない。適当に答えておいたが、それがばれるもとだったようだとは、後で教えてもらった。値段を聞いた時の、あの隆二の意味深な態度、ほうと言いながら、首を何度か上下させていた。その時は、見抜けなかったが、後で同じやり取りを例のバセロンの友人とやり合って(もちろん彼は親切に教えてくれたし、その後でばれないための相場も教えてくれた)気が付いたのだ。本当にあいつは嫌なやつだ。
富士子
「あれ阿久根は?」部屋に入ってくるなり、富士子は隆二に聞いた。
「帰りましたよ」と、隆二。書類に目をやりながら、富士子の方は見ずに言う。
「爺の奴、会議が終わるまで待つように言ったのに」会議の資料を机にたたきつけて、富士子は毒づく。富士子は阿久根と同い年だが、阿久根のやせ細った弱弱しい体つきから、老けて見えるという理由で彼の事を爺と呼んでいる。
「呼び戻しましょうか?」楽しそうに隆二は言う。阿久根は怒るだろうが、それを見るのが楽しみなのだ。
「いや」と即答で、
「大した会議じゃなかったから明日の朝で良いわ」言うなり、机の引き出しを開けて、キャンディバーを取り出す。ガサガサと袋を盛大に破くなり、大口でぱくついた。富士子はこの特捜1課の課長である。よほど腹がすいたのか、一本目を食べ終わると、すぐに二本目に取り掛かった。大きな咀嚼音を響かせて、騒がしく食べながら、立ち上がって隆二の机に近づいてくる。富士子はいつもこうだ。何かを食べながら、歩き回る。しかも大きな音を響かせて食べるのだ。せんべいなら、バリバリ響かせて、まんじゅうなら大きな咀嚼音を立てつつ、その嚥下音もまた、離れていても聞こえるほどだった。最悪なのは飴の類で、これはもう驚いてしまうのだが、ぴちゃぴちゃと犬が水を飲むときのように、その分厚い唇からいやらしい音を立てるのだった。本人は気付いていないのか、何とも思わないのか、静かに食べられない質なのか、女の子として親が教育しなかったのか、不思議なのだが、こうした最低のマナーというやつを、こうも徹底して逸脱されると、異文化的なものをすら感じてしまうのだった。隆二はもちろんそうした食べ歩きや、騒がしい食べ方や、口に物を入れたまま話されるのが、ことさら嫌だった。その富士子が隆二の真後ろからのぞき込んでいる。耳元で咀嚼音が響く。隆二は昔、若い女性に耳をなめられた時の事を思い出す。あれでさえ、耳の中に唾液が入ってくる感覚が気持ち悪かったのだ。花粉の季節に鼻水が鼻を流れていく感じ。粘度が低く、重力のままに移動していく。それを感じながらも、鼻ならともかく、耳ではどうしようもない。しかも鼻なら出て行くのだが、耳なら奥へと流れてゆくのだ。これがたどり着く先はどうなるのだろうという、あまり心配はしていないが、漠然とそう思う感じ。しかしこれはそういった薄い不快と、快感の混ざり合う感ではない、強烈な不快感のみ。
しかし、そうした不快感に富士子は全く気付かない。
「何かあった?」
「いや、何も」視線は相変わらず書類にくぎ付けである。このまま視線を外したら、まともに近距離から、富士子の顔を見てしまう。それだけは避けたかった。こういう状況と言うのは人が変わると、コケティッシュでドキドキもするのだろうが、今となっては全くそうした絵柄ではなくなっていた。富士子だって、昔はそうして誰かをドキドキさせたのかもしれない。しかしその力はとうの昔に跡形もなく消え去っていた。
「そう」と言って、振り返った背中の上には、羽のように肉がついている。小太りと言うには、少しその域を過ぎた富士子にはすべての服がタイトフィットになってしまっていて、体の線があからさまに表れるのだった。はち切れそうなスーツのスカートは、なぜあれが破れてしまわないのだろうという疑問を見るものすべてに呼び起こすことが出来たし、椅子に座るとそれがまくれあがって、モビルスーツのような足があらわになってしまう事も、勘弁してほしいと誰しもに思わせるのだった。
「隆二」どうやら食べ終わったと見えて、自分の机に戻った富士子が声をかける。
「何ですか?」これだけ離れていて、しかも食べ終わった後では隆二も相対するのに抵抗はない。書類から目を離して、椅子を回転させ富士子と向き合う形となった。もとより、彼としては誰かと話をするのに、相対しないのは礼儀に反する行為だ。それをあえて相対しないのは、理由があるのだった。
「私ね、英語の勉強をしようと思っているのだけど、どう思う?」
富士子は不思議なほど、英語が出来なかった。義務教育で習ったはずだし、話せなくとも、聞いて理解できなくとも、普通の人が理解できる範囲と言うのは平均的に有るものだが、それをはるかに超えていたのだ。黒船後の江戸期ですら、富士子の英語力なら、それを上回る人材はいたかもしれない。頭が悪いわけではなかった。頭の回転は速い方なのだ。会話の中で、相手の言いたいことを、それが言外であってもくみ取る力はあったし、誰かを説得しなければいけないときに、言葉に詰まることもない。持っている常識も、食べ物に関して以外だが、非常識という事はなかった。あまり物事は知らなかったが、知る必要もない事ともいえるような事柄だった。つまり日常で必要な事は一通り身に着けているのだ。 ただ英語に関してだけは、きれいに抜け落ちたように、それこそ黒船前の日本人の様に、英語そのものに触れる機会が、まるでなかったのではないかと、そのように思わせるのだ。
ある時はこんなことがあった。富士子の使っている携帯はソフトバンクである。何かの入力項目で、メールアドレスを入力する必要があり、太い不器用な指でたどたどしく入力していたのだが、あれ、あれと言い出した。富士子があれ?と言う時には、いやな予感が周りを漂う。しばらくは自分で考えているものの、これは誰か私を助けてくれ!という合図なのだ。時間もかかるし、面倒だし、だいたいがパソコン関連で初期的な事柄が多かったので、そうした時は二人とも知らぬ顔をして、様子をうかがっているのだ。そのうちに呼ばれるだろう。またか!という空気である。またか!と言うのは大体が前にも同じミスをしているからで、その上何度教えても同じミスを繰り返すので、いつものことながら、呆れてしまうのだ。お互いにいい歳だから、パソコンなどは苦手であるのは重々承知だし、記憶力の衰えも理解できるのだが、それ以上なのだ。
「これ、おかしい!ちょっと阿久根!」と言い出したのが、あれ?が始まってから、しばらくたってからの事だった。どうせ人を呼ぶのだから、すぐに呼べばいいのだが、そのあたりは微妙な呼吸があるようだ。まあ、いつものパターンだ。阿久根と隆二はこういう場合に使い分けられている。簡単そうなときにお声がかかるのは、阿久根なのだ。
「どうしましたか?」阿久根はにやにや笑いたいのを我慢して、近づいていく。
「この携帯おかしいのよ。調子悪いわ。さっきから何度もアドレスを入力しているのにエラーになるのよ。」言いながら阿久根に携帯を渡す。
渡された阿久根は、唸りながら携帯を近づけたり遠ざけたりしている。老眼というやつだ。富士子は阿久根よりもまだ老眼が進んでいないらしい。富士子の文字の大きさ設定では、見えにくいと見えて、苦労しながら小さな文字を読んでいる。文字の設定をさっさと変更できるほど二人ともに詳しくはない。だから何とか読もうとして、今度は眼鏡をしきりに動かしている。それを隆二は黙ってみている。隆二はまだ老眼ではない。彼は読書が好きなのだ。近距離で小さな文字にピントを合わせるのには慣れている。その代り、近眼だが、これは別に支障がなかった。だから、助けに入ろうと思えば、入れるが、呼ばれるまでは、或いは問題が二人の能力を超えてしまって、大騒動になるまでは動かない。出来るだけこの二人には干渉したくないのだ。二人合わせても、一人前にもならないと、思いながら見ている。
「おかしなところはないですね」と阿久根が言う。信頼できないセリフだ。どこかがおかしいに決まっている。
「隆二!」と、富士子が呼ぶ。やはりなと思いながら、隆二はゆっくり進んで携帯を手に取った。
「アットマーク以降のソフトバンクの綴りが間違っていますね」隆二にしてみれば、とても違和感がある。無茶苦茶な綴りである。
「そんなことないわ」と富士子。
「いや」と、隆二。よく見ると、これはローマ字ではないか。
「これはローマ字でしょ?正しい社名は英語だから、英語で打たないと」と言いながら、入力を打ち直して、富士子に返す。
「英語って!だったら、これをいちいち憶えていないといけないわけ?」
意表を突く質問だった。考えてみたこともない。確かに言われてみれば、英語表記の社名は増えたし、覚えようとして覚えたわけではないが、正しい綴りは覚えるしかないのだ。
「そうですね。覚えるしかないですね」
「そんな馬鹿な!」
カルチャーショックだった。今まではどうして生きてきたのだろう?もう知り合ってから何十年も時がたつが、今更ながらに驚く発言だった。
しかしそのショックは本人にも相当、応えたように見える。
「そうなのか。覚えないといけないか・・・」
と、まあ、このような顛末だったのだ。しかし、隆二は困ってしまった。イタリア語やフランス語を習うに等しいではないか。彼が戸惑っていると、富士子がとんでもないことを言い出した。
「インターネットで個人指導してくれるらしいのよ。先方は外国人で、パソコンの画面越しに会話して覚えると、そうゆうわけなのよ」
いきなり会話だと。無理に決まっている。しかし顔には出さない隆二だ。さらに、その隆二を驚かせるようなことを言う。
「もう申し込んで、前金も払ったんだけど、テレビ電話の設定が分からないのよね。隆二これお願いできるかな?」
やれやれ。テレビ電話ではないと思うが、仕方がない。全く面倒なおばさんだ。そう思いながら、隆二は黙って富士子の机に向かい、パソコンを設定するために椅子に座った富士子の上からかがみこんだ。スイカのような丸い腹が目に入ると、いやなものを見てしまったと思うと同時にびっくりする。人間の腹が、妊娠以外で、これほどまでに丸くなるものなのだろうか?いつまでたってもこの腹には慣れる事はない。見るたびに大きくなっているのではないかとも思う。実際にそうなのだろう。富士子の苗字は大門である。ダイモンからのドラえもん、そしてやはり行きつくところはドラミちゃん、と言うわけで、富士子は隠れたところではドラミちゃんと呼ばれているのだった。
凛
お母さんが返ってこなくなってから、何日過ぎたのかわからない。有線チャンネルのアニメ番組も見ていても少しも楽しくない。保育園の友達は、特に一番仲のいい浩平君はどうしているのだろう。二人して作った積み木のお城は、今は、浩平君は誰と作っているのだろうか。凜は少し変わっているから、皆がそう言うから、嫌なにおいがするそうだから、仲良くしてくれたのは浩平君だけだった。確かに少し変わっているのかもしれない。時々気が付くと、叫んでいることもある。そんな時、お母さんはしっかりと凜を包んでくれる。そのあと泣き出すんだ。凜もその時は泣いているから、二人して泣くんだ。昔は一緒に泣いていたけれど、最近では二人は別々に、離れて泣くんだ。時々抱いてくれることもあったけど、離れて泣くことの方が多くなった。いつもは優しいお母さん。二人して、病院に行って、帰り道、電車を待ちながら、ベンチに腰掛けて、お母さんがいつも買ってくれるビスケットを手にしている。嬉しくて、食べるのが楽しみで、眺めていると、食べたくなって、食べてもいい?と聞くと、お母さんは、電車が来るまでならいいよ、と言ってくれる。凜は上手にビスケットの袋を開けることが出来ないから、お母さんに渡すんだ。そうしたら、お母さんはとても上手に開けてくれる。袋に描かれているクマさんも、ウサギさんも破れないで、きれいに封を開けてくれる。前に凜が開けた時は、はじけてしまって、ビスケットは全部地面に落ちてしまった。クマさんもウサギさんも、裂けてしまって、とてもとても悲しかったっけ。でも、お母さんなら、そんな事はしない。きれいに開けた袋を凜に渡してくれる。きれいに開けられた袋を持っているのは、とても気分がいい。ビスケットは美味しくて、少し惜しいけれど、お母さんにもあげようと思って、お母さんの方を見上げると、お母さんは前をぼんやりと見ているんだ。起きているんだけれど、寝ているよう。目が明いているのだけれど、何も見てないよう。こんな時、お母さんは怖い。いきなり叫ぶことがあるから。だから、凜はビスケットを自分だけで食べる。さっきは惜しいと思ったビスケットが、全然惜しくなくて、お母さんに美味しいねって、食べてもらいたい。食べてもらえるなら、全部あげたって良いのに。こんな時のビスケットはあまり美味しくない。凜はお母さんの笑顔が一番何よりも大好きだ。お母さんが笑ってくれるなら、どんなことでも我慢できる。だから、お母さんが居なくなっても、泣いたりはしなかった。凜が泣くと、お母さんが怒るようになったから。泣いている時に帰ってきたりしたら、泣いていないときの時間がもったいない。ずっと泣いていたわけじゃないんだよと言っても、お母さんは信じてくれないかも知れない。
だから、凜は泣かない。大人しくしている。
おなかが空いていたのはずいぶんと前の事だ。もうお腹が空いたときの感じはなくなってきている。頭がぼんやりして、眠い。体に力が入らなくて、動くのが嫌になってきた。お母さんは忙しいから、きっと凜のご飯を用意するのを忘れたのだ。冷蔵庫の中を勝手に見たりしたらきっと怒られるけれど、お母さんが返ってきたときに、凜が一人でご飯を用意したと知ったら、もしかしたらほめてくれるかもしれない。そう思いながら冷蔵庫を開けてみた。がらんとした空間にはマヨネーズとケチャップ。干からびたキャベツに人参。最後に食べたのは卵どんぶりだった。あんなに美味しいものは作れないけれど、これでお母さんと凜の二人分のご飯を作ろう。そう思った。
お母さんは最近疲れているから。お休みの日は夕方まで寝ているし、保育園から凜と一緒に帰ってくると、お母さんはまず横になってしばらく寝てしまう。途中で起きたりすると、怖い顔をしているし、黙って何も話してくれないから、元気になるまで寝ていて欲しかった。だから、独りでテレビを見て、本を読んで、おなかが空いても我慢して、静かにしているのには慣れている。平気なんだ。得意なんだ。時々お母さんの視線を感じて、お母さんのほうを見てみると、目が合う時もあるけれど、お母さんは寝返りを打って、大概向こうを向いてしまう。前は目が合うと笑ってくれたけれど、最近は凜と目を合わせようとしなくなってしまった。そのうちに真っ暗になって、お母さんはつらそうに起きてくる。ご飯を作り始める。お母さんの作るご飯は美味しい。最近の流行りはお店ごっこ。お店で売っているプラスチックのトレーのままおかずを並べて、まるでテーブルの上がお店みたいににぎやかになる。凜の好きなおかずは肉団子だ。お母さんはそれを知っていて、必ずそれを買って帰ってきてくれる。お母さんは自分の分も食べずに残しておいて、まだ食べられるかな?って聞いてきてくれる。その後、うん、って答えると、じゃあこれ食べなさいって、お母さんの肉団子を凜にくれるんだよ。じゃあこれ食べなさいって言う時に、ちょっと柔らかい顔になるんだ。その時の顔が凜は一番好きだ。その時の声が凜は一番好きだ。それを聞きたいから、少しくらいおなか一杯でも、大丈夫、まだ食べられるよって言うんだよ。でも、お母さん起きてきたときに、あのお母さんの体から暖かい空気が流れてくるときに、テーブルの上に凜の作ったご飯があれば、きっとお母さんびっくりして、久しぶりに声を出して笑ってくれるかも。それから、抱きしめてくれるかもしれない。だから、いい機会だよね。こんな時に練習しておこう。テーブルの上には、最後に食べた時の卵どんぶりのお茶碗がまだ乗ったままになっている。これも近頃では見慣れた風景。いつも食べた後はこういう風になっている。片付けるのは、次の食事の前だった。このお茶碗をそのまま使おう。少し汚れているけれど、上からキャベツとニンジンを載せてしまえば、隠れてしまうだろう。冷蔵庫からキャベツとニンジンを取り出して、お茶碗に入れた。ケチャップと、マヨネーズをかけた。あまり美味しそうには見えないけれど、やっぱりお母さんはご飯の名人だ、と思った。お母さんなら、この同じ材料でももっと美味しそうなものを作るだろう。凜は初めてだから仕方がない。そのうちにだんだんとお母さんみたいに出来るようになるかもしれないし、そうなりたいと思った。お母さんの代わりになるために。お母さんに少しでも楽にしていて欲しいために。
祥子
凜の泣いている声で目が覚めた。凜は滅多に泣かなかったが、泣くと祥子の気は滅入ってしまうのだった。特に近頃はその傾向が著しい。その泣き声は子供らしくなかった。大人が、耐えきれず泣くときのように、さめざめと悲しみを振り絞るように泣くのだ。弱弱しく、途切れそうで、途切れない。祥子もその声を聞いていると泣きたくなってくる。駆け寄って一緒に泣けたら、どれだけ良いか。しかし泣いている凜の顔は、汚れていて、醜く感じた。もともと、可愛い子供ではないのだ。視線が定まらず、目がそれぞれ別の方向を見ている。口元はいつも半開きで、涎が出ていることも多かった。いつのころからか、世話をするのが全く嫌になってしまって、風呂に入れない日が増えて、体臭が目立ち始めると、余計に嫌になった。わが子を可愛く思えない母親、醜く感じてしまう母親、子供の世話が嫌な母親、そうした母親に自分がなってしまったことに対するどうしようもない嫌悪感。
起きなくては、しかしそこに凜はいなかった。
周囲の景色に違和感をもよおして、そういえばここはネットカフェなのだと、そう思いだした。凜を部屋に残したまま、様々なところに泊まった。ネットカフェや、駅で眠ったり、カプセルホテルに泊まったりもした。カラオケボックスだって、泊まれるかもしれない。幸いにもこの街はそういった場所には事欠かなかった。今まで、気にもしていなかったが、こういう施設が多いことに驚いた。そしてそうした施設に泊まる人が多い事にも、同時に、何か胸がざわつくのだった。このようなところに泊まっている人が平凡な生活を送っている様にはとても思えず、いわば異常な状態の人々が、自分も含めてこれほど多いという事が、一種の連帯感と不安感をもたらすのだ。でも、わが子を放り出して、出てくるような母親はいないだろうと、それは確信に近く、自分がその集団において、最悪な人種であるという自覚が祥子を苛む一方で、肩の荷が下りた自分にほっとしてもいた。隣のブースで物音がしている。隣には若い男が、疲れ切ったような姿で、うなだれたままに入っていく姿を昨夜見ていた。その男が、どのような境遇であろうが、どれほど疲れ切っていようが、将来に対してどれほど絶望していようが、ただ生きているだけであったとしても、祥子には羨ましかった。ただ生きているだけで良いなんて、他に何も思い煩う事がないなんて、そんな幸せなことがあるだろうか。
最初は凜を殺して、自分も死のうと思った。しかしどう考えても、どの方法であっても、直接に手をかけるという事は、出来なかった。細い首に手をかけるところまではいったのだが、そのぬくもりや、頼りない弱弱しさを感じると、首の周りにとどめた手のひらが、どうしても動かないのだった。この子が目の前で、死んでいく所なんて、見ていられるわけがない。この子に罪があるわけではないのだ。それはもう、数千回も数万回も唱えた台詞だった。
「僕たちのどちらかに罪があるというわけではないよ」
夫は、そう言ったものだった。
「遺伝子はそもそも瑕疵があるモノなんだ」夫はまるで他人事のように話し始めた。祥子は気分が悪くなる。大声で彼のたわごとを黙らせてやりたいが、我慢した。彼を怒らせたくはない。怒った後は、機嫌を取るのに、ひたすら時間がかかって面倒くさい彼と、今、聞かされている堪え難い話を天秤にかけて、話を聞くことにした。これなら今だけの我慢で済むからだ。しかし、心に入り込んでくる外部入力のボリュームとでも言うべきものを、めいっぱい下げて聞くことにする。夫は得意げに続ける。
「子供と言うのは、両親のそれぞれから遺伝子を半分ずつ受け継ぐだろう。だから、どちらかの遺伝子に瑕疵が有っても、どちらかが正常であれば、それをカバーするんだ。そうすれば、何事も起こらない。しかし、その異常部分が両方ともに同じ場所であれば、その異常は子供の身体に現れてくることになる。両方ともに同じ個所で異常があるという事自体は珍しいんだそうだ。近しい親族間で、子供を作ったりすると、異常な子供が生まれることが多いが、そういったことが原因なのさ。」
どうでもいい話だった。祥子は爆発しそうになりながら、これも夫は私を、あるいは自分を慰めたいがために、話しているのだと、考えることにしていた。とても努力を必要としたが、そうしないと持たない気がした。話は終わりそうにない気配だったので、余計に気分が下がって、表情が曇ってきた。おそらく祥子の気分が晴れることが、その表情を夫が確認できることが、このくだらない責め苦からの解放を意味しているのだとは分かってはいるものの、どうしようもないことだってあるのだ。別の事を考えよう。と、祥子は気持ちを切り替えることにした。この同じセリフを誰かほかの人から聞かされていたら、どう感じただろう?例えば、担当の医者からだったら?それは納得できる話だと、思えた。では何故、この話が夫の口から出たとたんにこれほどまでに腹正しくなるのだろうか?それは夫が、祥子と同様に凜の親であるにもかかわらず、育児に関心がないからなのだと、いや、凜に関心がないからなのだと、愛情を持ってないからなのだと、最低限の責任すら果たそうとしないからなのだと、祥子に全てを押し付けて、それに対する気遣いすらなく、自分だけがこうして偉そうに口先だけで、何かを果たそうとしているからなのだと、そう思った。
彼はきちんと仕事をして、給料も、まずは全て祥子に手渡してくれる。彼の分は小遣いとして渡しているが、無駄使いをするタイプではない。賭け事もしないし、外でたまに飲んでくることは有っても、滅多にないことだし、浮気をしているわけでもないのだ。もちろん家庭内で暴力をふるうわけでもない。そんなことはこの人からは、最も遠い出来事のようにも思える。これを祥子の親の世代や、同級の友人に言うと、恵まれていると言われる。惚気ていると、とられることもある。でも何かが、違うのよ、と言うと贅沢だと言われるのだ。別に家事をしてほしいとか、そういうわけではない。子供は凜しかいないし、祥子は専業主婦だし、夫が下手に手伝ってくれたところで、同一の家庭内で、家事をする人間が複数いるというのは、それぞれのやり方が微妙に異なってくるがために、かえってストレスになるのだという事は、過去に義理の母親と一緒に過ごしたことから経験済みだった。
「だから、おしべとめしべだって離れているだろ?花ですら、同じ花のめしべとおしべでは受粉したくないんだ・・・」
さらにどうでもいい話だった。ただの雑音だ。これがラジオから流れてきたのなら、積極的に聞いてみたい話だったかもしれない。しかし、夫の声自体が、話の価値を変えていた。
「つまり、凜は、どういうか・・・運が悪かったのさ」
その言葉は、決定的だった。先程迄の腹立ちは、きれいさっぱりと何処かへ消え去っていた。腹立ちは熱量なのだ。身を焦がす熱気なのだ。その熱が、一瞬にして冷気に変わっていた。腹の底に冷たい何かが沈殿していた。燃えきれなかった残滓の成れの果てなのかもしれないと思った。先程迄のどうしようもない不安定さは、確信に変わっていた。私はもう、夫の言葉で心をかき乱されることはないだろうと、その思いが祥子の表情に余裕をもたらした。夫は勘違いをした。自分の言葉が祥子に通じたと思ったのだろう。祥子に笑いかけてきた。だから、祥子は笑い返した。心からの自然な笑みだった。夫にそう出来たのは、久しぶりだった。あまりに長い間、出来なかったので、最後にそうしたのがいつだったか、思い出せないほどだった。
その次の日に、家を出た。凜を連れて。夫には手紙を残した。とりあえず一度は実家に戻り、それからアパートを探し始めた。両親は当初驚いたものの、祥子と凜を見比べて、納得したようだった。この顛末は、本人のあずかり知らぬところでは、ある程度予想されたものだったのだと、その時気付いた。両親は祥子に援助すると言って新居用の家電製品などを買いそろえてくれた。有り難かったが、腫物を触るように凜に接する様子が見ていると辛くて、早くここを出ようと思った。
郊外に、祥子が生まれる前に建てられた公団の住宅が耐用年数を過ぎて、売りに出され、そこを専門で活用する管理会社が買い受けて、安く賃貸できるようになっていた。あまりに古くて、仲介業者ですら薦めなかったが、実際に見に行くと、きれいにリフォームされていて、しかも鉄筋コンクリートの躯体は頑丈そうで、部分としては鉄製の手すりなどが赤く変色しているものの、強度に変わりはなさそうで、住むには問題なさそうだった。住民は年寄りばかりで、若い人たちがあまりいないことも気に入った。凜をとやかく言われたくないし、ママ達の輪に入るのも嫌だった。
夫は一度電話してきて、訳を聞いたが、深くは問い詰めなかった。これは、おかしな話かもしれないが、ある程度予想したことだった。彼もまたある意味で、ほっとしているのかもしれない。合理的で、物事に執着しない、彼の性格がそれに輪をかけたのだろうか、また、彼の自尊心の強さが彼をしてそうさせているとも思った。きっと泣き言じみたことは言わないだろうし、懇願するなんて、絶対にしないだろうと、思った。祥子が貯金を持ち出したことすら、理解を示してくれたのは意外だったが、金に固執しないのも彼らしかった。彼は金銭面で苦労などしたことがないのだ。だから、気安く考えられるのかもしれない。
「僕は今仕事があるし、祥子は凜を連れて大変なのだから、出来ることは全部するよ」
そういう風にまで言ってくれた。
実家には来なかったが、きっと祥子の両親と顔を合わせるのが嫌だったのだろう。その代りに、引っ越しの日取りと住所を聞いてきたので、なんとなく安心して、それを教えると、引っ越しの日にアパートの前で彼は待っていた。何しに来たのだろう?と少しだけ不安になったが、夫の柔らかな表情を見ると、どうもよくわからなくなった。
彼は「引っ越し手伝うよ」と言って、荷物を運んでくれた。階段だけのエレベーターのない古い建物の最上階。この部屋が一番安かったのだ。引っ越し業者は勿体なくて、頼めなかった。親戚から軽トラを借りてきただけの引っ越しだったが、凛と二人といっても、それなりに荷物はあったし、それに、凜が居るので、結果としては随分助かった。
「離婚届けは、祥子に任せるよ。したいならすればいい。このまま距離を置いて、戻りたくなったら、そう言ってくれ。待っているから」そう言いながら、荷物を運ぶ彼を見ていると、少し心が痛んだ。
しばらくは落ち着いた日々だった。さすがに鉄筋コンクリートの建物は古かったが、木造の建物などと比べると、遮音性や断熱に優れていて、快適だった。凜を預かってくれる保育園はなかなか見つからないと思っていたが、町役場に相談に行くと、親切な女性がてきぱきと親身に相談に乗ってくれて、その日のうちに探し出してくれた。役場の窓口が親切なら、町の全体も親切だろうと、でも、そんなことはないだろうと、今までの経験からも思ったが、そう思いたいほどの幸先のよさに嬉しくなった。アパートの近くに小さなスーパーがあり、求人が出ていたので、買い物ついでに声掛けすると、出来れば明日から来て欲しいと言う。凜を保育園に連れて行って、帰りに寄れるし、ここから迎えに行くことだってできる。そのまま買い物だって、と思うと、そこのスーパーの優しそうな中年の店長の雰囲気とも相まって、ここの場所に巡り合ったのは、幸運だと感謝した。
「あのアパートはねぇ・・・水回りも悪いし、エレベーターだってないですよ・・」
仲介業者の初老の担当者はそう言ったものだった。ここが一番安いのだから、仕方ないじゃない、と思いながら言い出せなくて、愛想笑いで返した。確かにサッシも見たこともないような古い意匠だし、天井も低い、当然建具も低くてコンパクトだ。間取りも一風変わっていて、風呂場へは直接部屋から入るようになっている。配管や配線はむき出し。排水管は、これもまた見たことのないようなタイプだった。U字管ではない代わりに、おそらく害虫やにおいを遮断する蓋のようなものが配管の中に設置されているタイプだった。掃除をまめにしなければいけないが、苦にはならない。ここに住む周囲の老人達、彼らが若い時にはこのような生活が、最新のものだったに違いないと、時代の流れを感じさせる、初めて見るような部分ばかりのこの建物が逆に新鮮で、すっかり気に入ってしまった。この古い建物が現役で今も活躍している。そのことがここに住まわせるものを惨めに感じさせないことに、不思議な想いを抱いた。古くて、安く利用出来て、けれど元来が安普請ではない。大切に使って、必要な箇所には補修を施せば、いつまでも使える。税金対策で建てられた、張りぼてのような、見てくれだけのアパートでは得られない何かがあった。ああいう建物にも学生時代にお世話になったが、見栄えの良さに反して、筒抜けの音や、凍み込んでくる寒さには心底参ったものだ。一方でここは、元公営のアパートと言うだけあって、そのあたりはコストをかけて作られたのだ。あの窓口の親切な女性と、このアパートはなぜか重なるのだった。社会の弱者として、独立した、という不安感があって初めて、国と言う仕組みのありがたさを、その優しさを感じるのかもしれなかった。
しかし、自分一人だけだったら、その思いは感じなかったかもしれない。凜を連れているからこそ、それが身に染みるのだと、二人して、この分厚い頑丈な壁に囲まれている時、静かな部屋に繭のように包まれている時、その思いを一層強く感じるのだった。
この部屋は優しく、強い、たくましい老人なのだ。日に焼けたなめし皮のような肌、擦り切れたフィッシャーマンセーター,「老人と海」は読んだことはあるが、遠い昔で忘れてしまった。あの物語の老人が、そのようだったかどうかは覚えていない、しかし、ひとりでに祥子の中に醸成されたイメージは、たくましいそんな老人なのだった。そのイメージをこの部屋に当てはめた。部屋をお爺さんと呼び、凛と二人してお爺さんのもとへ帰っていくことを、世話と称して、部屋の掃除をすることを楽しんだ。
「お爺さんただいま!」と言いながら、二人して部屋に戻る時、二人は笑い転げるように、家の中に入っていった。
「お爺さん、綺麗にするよ!」と言いながら、掃除機を祥子がかけて、凜は雑巾で手の届く範囲を拭いたものだった。あの頃の凜は楽しそうだった。明るくて、よく笑う子供だった。万事が何事もなく進みそうな気がしていた。ほころびは夫の電話から始まった。
「別の人と結婚することになったよ。だから離婚しよう」
その言葉自体は、意味をなさなかった。単に情報の一つでしかない。ただ、別居時のあの夫の態度が納得できただけだ。なるほど、当時から彼は不倫していたのだと、確信も証拠も何もなかったが、そのように理解した。それで傷つくこともなかったし、これですっかり縁が切れるのだと思うと、かえってさっぱりした。今回の事は、彼にとっても渡りに船だったわけだ。ただ次の一言は不安を駆り立てた。
「もう経済的な支援は出来ない。祥子が勝手に出て行ったのだから、自業自得だろう。僕としては猶予を与えたのだから、決めたのは祥子だ」
彼からの養育費がなければ、ぎりぎりだった。養育費が有っても、切り詰めなければならないのだ。何か大きなことがあれば、それに対応することはできない。しかし、それはわかっていたのではないか。そのつもりで、家を出たのだ。彼と一緒に居て、耐えがたい日々を送るより、多少苦しくても、自由な日々を選んだのだ。シングルマザーは多い。実際に周囲にもたくさんいる。職場のスーパーにだって、居るのだ。皆どうにかやっているではないか。養育費の話などはしないが、統計が示す通りもらえない人だって多いだろう。事の本質を考えるに、そもそも、そういう養育費などの義務をきっちりと果す人となら、最初から離婚などしないということではないのか。大丈夫だ。なんとかなるだろう。なんとかしなければならないが、その選択は自分が行ったのだ。これで、夫とは完全に他人となった。夫は当然のように凜の話などはしなかった。そんな子供など初めからいなかったかのように、一切を忘れてしまいたいのかもしれない。
学生時代の講師の言葉が耳に思い出された。彼はこういったのだ、もし人間が絶滅して、その痕跡が化石だけになった時に、未来の学者たちは我々を分析して、こう表現するでしょう。この動物は一夫多妻の動物であると、骨からはそれしかわかりませんが、それで十分です。それは本来の私たちの姿です。600万年前にチンパンジーと別れて進化してきた間もずっとそうでした。一夫一妻は社会生活の必要性が求めた一つの試みにすぎません。だから、自然に反しています。離婚が多いのは無理がないともいえます。
そうだ、離婚なんて珍しい事ではない。シングルマザーはたくさんいるんだ。繰り返しそう考えて、不安で折れそうな心を、何とかしようとした。
翌日スーパーに出勤すると、いきなりシフトが半分に減らされていた。
「悪いね、隣の町に大型ショッピングセンターが出来ただろ?そこに売り上げを取られてさ、でも今はオープンセールであっちに流れているだけで、そのうちまたお客さんも戻ってくるよ」
この店長の即断力は採用時にはありがたかったものの、今となっては何も考えていないだけなのではないかと、思えるようになった。ショッピングセンターのオープンなんて、今決まったわけではない。もとより数か月も前からの情報としてあったのだ。シフトが少なくなるのは、予想できたはずだ、しかし採用された祥子のせいで、もともとここにいた人たちも余分にシフトを減らされることとなった。皆表立っては何も言わないが、重圧を感じてしまうのは、事実である。だからと言って、どうするわけにもいかない。ここでしのぎながら、同時に新しい職場を探すしかない。事実、店長はわかっていないことはなかった。予想できたことだったが、美人のシングルマザーには弱い。そういう事なのだ。なんとか力になりたかっただけだったのだ。
しかし、こういう時に田舎と言うのは、選択肢を限られてしまう。凜の保育園のことだってあるし、車は維持費の事を考えると、持てなかった。
「ここだけだとしんどいよね」
悦子は、同じ境遇のシングルマザーだった。ただし彼女は実家に住んでいる。大きな古い農家で、三世代がともに住んでいた。両親ともにいい歳だが健在で、畑に出る傍ら、悦子の子供の面倒も見てくれるのだ。子供が四人もいる悦子だが、一番下の子供がもう小学校の低学年で、一番上は高校生だった。子供に手もかからないし、家事や食事の世話なども、悦子の母親がやってくれるので、同じ境遇と言っても、天と地ほどの差を感じた。それでも、他の人たちと比べて、親身になってくれる。元々、この土地の人間だから、知りあいも多いし、情報だっていろいろ知っているかもしれない。
「悦子さん、どこかいい所知らないですか?」
「うーん。そうだねぇ・・・」と考えている。地元の情報通がここで働いているのだ。ここがまだ比較的条件のいい所なのは理解できる。問題は、ここ以外に所謂いい所があるかどうかなのだ。
「あまりお勧めできないけどね。祥子ちゃん所、お子さんまだ小さいでしょ?お子さん夜中に目が覚めるようなタイプの子?」
凜は一度寝てしまうと、途中で起きるようなタイプではなかった。朝だって、起こさないと起きてこない。まあ、大人と違ってだいたい子供なんてそのようなものだろうとも思うが、独りしか子供のいない祥子にはよく分からない。
「だったら、お子さんが寝付いてから働きに出るという方法があるよ」
「私お酒とか飲めないし・・・」
悦子は笑い出した、勘違いに気が付いたのだ。
「ああ、ごめんね。スナックとかじゃないよ。国道沿いに二十四時間の牛丼屋さんがあるでしょ?私ね、昔そこで働いてた。子供が寝付いたら、そっと出てくるの。で、明け方帰る。そのままお弁当作って、送り出したら。睡眠時間。で、時々、牛丼をもらってきてそのままお弁当として渡す。喜ぶのよね。ちょっと複雑だけど。そういう意味ではコンビニもいいかもしれないけど、コンビニは働いたことないからわからない。でもね、夜中の仕事って結構、身体きついんだよね。仕事の内容じゃなくて、起きてるだけで辛いのよ。時給は良いけど」
なるほど、と思った。そういう考えはなかった。後半の辛い云々は耳に入っていない。都合の良い事だけを聞いてしまうものなのだ。やはり先輩の話は参考になる。店長は、決断は早いが、シフトを出すのが遅かった。もう少し早ければ、互いに調整をして、昼の仕事をもう一軒増やすこともできるのだが、お互いにシフトがダブるようでは困る。シフトをこちらから限定して希望を出すことも考えたが、そうすると希望シフトの採用率が下がるという事は聞いていた。
「バランスとってまんべんなくシフトを採用するなんて、そんな器用な事、あの店長には無理無理。入れてほしかったら、お任せのフリーで出すのがいいよ。何も考えずに、入れやすいでしょ、フリーだったら」
そういったことを教えてくれたのも、悦子だった。何かと、気を利かせてくれるのだ。
「ありがとう。悦子さん。早速牛丼屋さんに行ってみるね」
そうしたやり取りがあって、祥子は昼と夜とに働くことになった。牛丼屋に行くと、既に悦子が話をつけてくれていた。牛丼屋の店長は若い男で、色白の、いかにも夜中の勤務です、と言った感じの男だったが、彼も親切だった。
「粗相が有ったら、悦子さんに怒られてしまいますから」と言っては、祥子を和ませてくれた。彼は名前を健太と言った。
「だから、フライドチキンの店に勤めることも考えたんですけど、絶対、ネタにされるでしょうし、それにいちいちリアクションするのって、めんどくさいでしょ?で、牛丼屋でアルバイトを始めたんですが、何せ劣悪な労働環境なので、あっという間に皆辞めてしまって、知らない間に一番の古株で、だからこうして店長任されて、なんとかやってますけど、気遣わないでくださいね。それよりも無理しないで、気長にのんびりと続けてください」
そう言った健太の言葉は、実際に働き始めるとよくわかった。牛丼屋もいろいろあるが、最近はメニューのバリエーションが多いのだ。ここもそうだった。競合対策で、商品の売値は限界近くまで落としてあるので、その分は人件費でカバーされている。どう見ても、少ない人数で、多くのメニューに対応しなければならない。牛丼だけなら、簡単に提供できるところを、手数の多い他のメニューが足を引っ張って、てんてこ舞いだった。客席が汚れていても、テーブルの上が散らかっていても、掃除にも行けない。夜中に来るような客層は、そのことを承知で来ている様で、いやな顔せずに当たり前のように、自分で汚れた皿などをわきによけて、黙って食事を掻き込んで、すごい早さで出て行くのだ。だからむしろ掃除などよりは、注文取りが遅れたり、提供や、会計で時間を取る方が、彼らをよりいらだたせるようだった。どんどん汚れていく客席を横目に見ながら、流れ作業のように食事を提供していると、ストレスがたまったが、そのうちに慣れてきた。健太だって、どれほど店の中がガタガタしていようが、そこだけが静穏であるかのように落ち着いて、マイペースで仕事をしている。まるで、修行僧のようだと、祥子は思ったが、なるほどこうした性格でないとこういう店は務まらないとも思った。スーパーでもレジに客が大勢並んだときはプレッシャーがあるが、その比ではないのだ。夜中の牛丼屋に来る彼らは皆、それ相応に飢えていて、しかも早く食事をすませて、またどこかに行きたいという人の集団なのだった。だが、そうした人に囲まれて、最前線にいるような職場でも、健太と一緒なら気分が落ち着くのだった。彼が店長でよかったと思ったし、悦子に感謝もした。体は楽ではなかった。牛丼屋のシフトが決まった後、スーパーのシフトが出ることがほとんどだったが、牛丼明けで、スーパーに入っていることがやはり数シフト有ったりして、そんな日は結構きつかった。だからと言って牛丼屋のシフトが出てからではスーパーの希望シフト提出の締め切りには間に合わず、これはもう運任せにするしかなかった。
「シフトしんどかったら、言ってね。代わるから。牛丼明けはきついよね」
悦子はそう言ってくれる。きっと体や髪に牛丼の匂いが染みついているのだろう。牛丼屋から帰るなり、凜を保育園に送って行って、そのままスーパーに出勤するのだ。そしてまた、凜を迎えに行って、家に帰ると、洗濯物を取り込んで、食事をして、後片付けをして、風呂に入れて、そのまま寝られればいいのだが、下手をするとまたそのまま牛丼屋に行かなければならないときもあった。最初のころは、家に帰ってきてもまだ余裕があった。凜とその日の出来事をお話して、凜のたどたどしい話を聞いてあげることもできた。だが、睡眠不足が続いて、頭が常にぼーっとした状態になってくると、凜の話を聞くことが辛くなってきた。一度寒い日に凜を乗せ、自転車で走って、風邪気味になり、微熱が出始めると、これがなかなか引かなかった。保育園から帰ってくると、そのまま眠り込んでしまい。気が付くと、既に夜中だった。その日はたまたま牛丼屋には入ってなかったが、これが入っていたらと思うと、ぞっとした。凜はずっとテレビを見ていたらしい。テレビの前に座って、画面を注視していた。いつもなら寝ている時間だが、ご飯を食べさせてない事に気が付いた。洗濯物だって干したままで、きっと夜風に当たってしまって湿っているだろう。
「お腹すいた?」凜にそう声をかけた。凜は黙って頷いた。
「ごめんね。お母さん寝ちゃって。凜の好きな色々おにぎり作ろうか?」
これは凜の大好物だった。小さなおにぎりを様々な味付けにして、たくさんの種類を作るのだ。振り返った凜の笑顔で、ちょっと癒された。立ち上がる時に、腰に鈍痛が走る。立ち仕事と、重い荷物の運搬で、慢性的に腰を痛めていた。こうして年齢を重ねてゆくのだろうか。ふとそう考えた。凜よりも私が先に死んでしまうのだ。私が居なくなったら、凜はどうすれば良いのか?きっと誰しもが、この境遇であれば考える事だろう。みんなはどうしているのだろうか。私だけではないはずだ。頼れるところはきっと存在している。役場のあの受付の女性が目に浮かんだ。なんとかなるだろう・・・か?どうしても、希望的な見方に、忍び込んでくる不安があった。目の前のことに集中しよう。凜にご飯を作って二人で食べるのだ。
スタインベックの“怒りの葡萄”に出てくる強い母親が思い出された。“やるべき時にやるべきことをやるだよ”そうだ。そう口の中で小さくつぶやいて、立ち上がった。
おにぎりは祥子も好きだった。第一日本人で、おにぎりの嫌いな人が居るだろうか。その例にもれず、祥子だって自分が好きだから、面倒ではあるが、作っていて楽しいのだ。しかし、今日はちょっと違った。胃の辺りがむかむかする。きっと自分はほとんど食べることが出来ないだろう。と、そう考えて、凜の分に少しだけ余分に作り、食卓に出した。おにぎりを握りながら、今日は手があまり良く動かないな、と感じた。寝不足で、体調が悪い。そのせいだろうと、思った。
次の日、ぎりぎりまで寝てしまった。どうやら、知らない間に目覚まし時計を止めてしまっていたらしい。こんなことは初めてだった。慌てて、時間を計算したが、凜を食べさせて、保育園に送ると、どう頑張っても、スーパーの勤務時間に間に合いそうにない。先にスーパーに遅れる旨、電話を入れる。電話に出たのは店長だった。
「わかった。わかった。大丈夫だから、ゆっくり気を付けておいでよ。自転車で飛ばしちゃだめだよ。安全運転でね」
ありがたかった。こんな電話をするのは初めてだし、どういう風に言われるのか、気まずい思いだったが、店長の優しさが身に染みた。次に保育園に電話を入れた。するべきことをしておいて、凜を起こした。
「ごめんね、凜ちゃん。お母さん寝坊しちゃったよ。保育園遅刻だけど、大丈夫かなあ」
祥子のそう言うのを聞いて、凜は布団の中でもぞもぞしながら、少し不安そうな顔になる。
「凜ちゃんには保育園、頑張って行ってもらわないといけないし、頑張る力のもとが必要だね。お母さん今日は朝ごはんにホットケーキ焼くから、凜ちゃんそれで頑張れるかな」
凜の顔は、ホットケーキで輝いた。やったーと叫んで、飛び起きると、たどたどしくはあるが、一生懸命に着替えを始めた。ホットケーキの力は偉大である。
凜を保育園に送り、ドキドキしてスーパーに入ると、皆は普通にしていてくれた。いつもは祥子の担当の棚出しなども終わっていて、この遅れをどこかで取り戻そうと、あたりを見回した。野菜コーナーに店長が居て、そちらにまずは詫びを入れなくては、と思い、足を踏み出して、意識が無くなった。
里美
娘の祥子が倒れたと電話が入ったのは、いつもの朝のお題目をあげた後だった。スーパーで働くとは聞いていて、緊急連絡先をここにするから良いかな?と聞かれた時は特に考えずにいいよと応えたのだった。緊急連絡先なんて、形だけの事だ。そうしたことは、今まで縁のないままに来た。わが娘に緊急事なんて、結び付かない。あの元気で、明るい祥子。出かける準備をしながら、ちらりとご本尊様のほうを見て、お題目を心の中で一つ唱えた、何かあったら、とりあえず凜を迎えに行ってよ、と祥子は言っていた、保育園の地図と住所をもらっていたはずだ。
「ここが一番確実だね」と言って、冷蔵庫にマグネットで張り付けていた祥子。
あった、確かにここなら確実だ。凜はかわいい孫だが、複雑な思いはある。一日も欠かさず、こうした目に合わないようにと、お題目をあげ続けてきた。
ちなみにお題目と言うのは、いわゆる念仏のようなものだ。厳密には違うが、人に説明するときは、この言い方をする。仏さまを思い浮かべる、そのために唱える念仏と違い、お題目と言うのは、仏教の数ある経典の中でも最高位にあるものの題名を唱えるという意味あいになる。
里美の実家も、その日課を欠かすことはなかったし、里美自身も信じて続けてきたのだ。だから、凜が生まれた時は、正直言ってがっかりしたし、何故だろうと思った。この思いを、座談会と呼ばれるこの宗派の会合で、発表したこともある。他の宗派なら、すべては神の思し召しとか、そう言って慰めてくれるのだろうが、ここは違う。信心が足りないという風に考えるのだ。会合でそのこと自体が、糾弾されることはない。そこまであからさまではないものの、宗派の考え方としてはそうなのだ。
神の思し召しなどと言うような考え方はここでは、邪宗による邪な考えという事になる。元来が攻撃的で、排他的な宗派なのだ。人は人、色々な人が居ても良い、と言うような多様性の考え方からは最も遠いこの宗派では、あらゆる人を同一宗派内に取り込もうとする。根気よく他人を説得し、宗派の中に誘い込むことを修行としてとらえ、折伏と呼んでいる。
もちろん簡単ではない。それ故の修行なのだ。
広報誌ではこの活動は流布の戦いなどと表現されることもある。まさしく戦いだと言えた。自分では素晴らしいと思っていることを他人に伝えるだけなのに、それは考える以上に難しいものだという事を里美も嫌と言うほど思い知らされた。どうして伝わらないのだろう、と落ち込んだこともある。最初は相手が悪いと思っていた。しかし、殆どの人に断られてしまうと、相手のせいにも出来なくなる。もしかしたら、この宗派自体が駄目なのかしら、と恐れ多くも思ったこともある。
だいたい、元々の仏教と言うのは自分が修行をして、仏になることが最終の目標なのだ。仏と言うのは、人間がたどり着くことのできる精神状態の最高位を言い、これはありとあらゆる欲望から逃れて、いわゆる悟りを開いたという状態になることであって、他者とは切り離されて、個人の内で完結するものだ。
つまり、他の宗教と違い、仏教と言うのは、あくまでも高次の他者が居て、その他者を通じて目的をかなえるというようなものではないのである。
しかもその他者と言うのは、例えば、神と人間は分類学上明らかに別の生き物だが、所詮仏は人間と同じホモサピエンスなのである。まあ、そのはずなのだ。
ところが実際は仏教と雖も、とても人間とは思えない他者の介入するところは多い。念仏と言う時の仏とは、自分の事ではなく、仏にたどり着いたほかの超人的な誰かの事だし、仏になり切っていない、その一個下の位の誰かを称える宗派だってある。
仏の一個下は菩薩と言い、欲望が少し残っているため、仏像にはアクセサリーが付いているのですぐわかる。これに対して悟りを開いた最高位の仏像にはアクセサリーが付いていないのだ。
里美の宗派には仏像はなく、これは中興の祖とも言うべき人間が、信仰の対象となっている。元々の仏教の創始者は、自分自身が飢えて死にかけた時には女性に救われたのにもかかわらず、女性は救われないと言ったが、この祖は女性であっても救われると言って、女性信者の支持を多く集めることに、それが現在に至るまで、成功している。
ここまでくると、ニッチ層に売り込むことの上手なマーケッターのようだが、鎌倉期の仏教と言うのは、いわば信者の囲い込み合戦であり、元々難解な経典を簡単にして、しかも本来の辛い修行をすっ飛ばして、うちはより簡単だというのが一つの競争原理だったのだが、そうした状況に敢えて、誰も手を付けなかった分野を開拓して、そこに打って出て参入したのが、この中興の祖なのだ。それは女性への勧誘であり、他の宗派が死後の平穏を解くのに対しての現世の利益の訴えなのだ。
このように考えると、その本家との逸脱具合が、都合が良すぎて、里美には最初どうもおかしいと思える話だったが、里美をはじめ、おおくの信者はとどのつまり、いわゆる信心が足りない状態に陥ることの恐怖のようなもので突き動かされている。もちろん本人は、そうはっきりと自覚しているわけではない。しかし、毎朝お題目をあげる勤行を何時間もして、わざわざ忙しい合間を縫って座談会に出かけ、そこで時間を費やすことに、また折伏という最も困難な課題に立ち向かうのは、この宗派の売りである現生での利益を得たいがための事もあるが、それは信者同士の、あの人信心が薄い、という一言が怖いからなのだ。
しかし、現生の利益と言うのも最大の魅力ではある。勤行を毎日続けて、病気が治った話や、念願がかなったというような話の、なんと多く聞かされてきたことか。それを聞くたびに頑張ろうとは思うのだ。本来目指すところの無欲の状態からは程遠いが、無欲の状態はほかの誰かに、もっと立派な人に任せておくのが一番なのだ。それがこの宗派の一大特徴だった。そこには、今となってはもう、矛盾は感じない。
とにかくもっと、頑張らないといけないな。と思いながら、里美は凜を迎えに行き、彼女を連れて病院に駆け付けた。しかしそのこと自体が、実際に信心の不足を感じさせる行為そのものだ。凜の手を握る時、この子が普通の子だったら、どれだけ良いかという事も感じずにはいられないし、その凛と二人で病院の待合室に入っていくときの周囲の視線に、責められているような気がするのだ。
あの人、信心が足りないね。全員ではない。でも誰か、事の本質を見抜いてしまう人が居て、里美の知らないところで、どこかでそう思っている。心の中で、里美は更にお題目を唱えた。それが支えであるとは言い難い。そうせずにはいられないのだ。
受付で名前を言う。事務員の女性が、少しお待ちくださいと言って、内線らしきものをかけた。担当医に連絡してくれているようだ。
「しばらくお待ちください」そう言われて、凜の様子を見る。凜は病院が珍しいと見えて、あたりをきょろきょろ見回している。
「凜ちゃん。何が見える?」そう聞かれても、黙ってもじもじしている。目が斜視なので視線の先を負うことが出来ないのだ。もしかしたら、このセリフは禁句だったかもしれないなと、今更のように気が付いた。保育園でも、他の子供たちにそう言われているのかもしれない。だが、そう言われて、本人にそこに含まれる悪意を感じる能力はあるのだろうか?何を考えているのか、わからない。孫は凜一人なのに。祥子にも兄弟はいない。離婚した祥子にもう一人願うのは無理かもしれない。このまま凜だけが、私たちの孫なのだわ。
そのたった一人の孫である凜と意思の疎通が出来ないという事が、業に思える。因果応報とは言うけれど、何の因果があるのかしら。そう考えていると、担当医らしき人がやってきた。優しそうな初老の男性だった。どうぞと手招きして、二人を丁度観葉植物の陰になっているベンチに誘導した。担当医は、脳外科の田島です、と自己紹介して一瞬だけ、凜のほうを見やった。この担当医には凜の事がお見通しに違いないと、里美は確信する。田島の優しそうな表情にそれとない微かな哀れみが見て取れたからだ。いや、これは里美の思い過ごしかもしれない。医者が患者に、患者の家族に、憐憫の意をくみ取られることなどあってはいけないような気がした。しかも、この人はベテラン中のベテランなのだ。
「お母さん。祥子さんですが、単刀直入に言いますと、軽い脳梗塞です。今のところ、快復することはほとんど問題ないと思われます。ただ、完全に元通りに生活が出来るかと言うと、多少の障害が残るかもしれません。ただ、これもごく軽度の障害と言える程度で、リハビリ次第で十分に生活を営める程度のものだと思われます」
「はあ・・・」
脳梗塞。その病名は当たり前のように聞いてはいたが、知識があまりなかった。身の回りにはいなかったはずだ、どうなるのだろう。ああ、そう言えば座談会の会合に来ている人の旦那さんが、それで倒れたって言っていた。そういえば、少し足を引きずっていたような気がする。けれど、それ以外は普通だし、ああいう感じなのかしら。
「今はまだ意識が戻っていませんが、連絡をいただいたのは勤め先のスーパーからだと聞いています。快復すれば、またその仕事に戻れるくらいだと考えていただいても結構です。ですから、安心してください」
担当医は、凜の肩に手のひらを置いて、凜の目線迄体を低くして、優しく凜にも語り掛ける。
「お母さん。大丈夫だからね。ちょっと疲れているみたいだから、休ませてあげようね」
そして、里美のほうに対して、
「スーパーの方から聞いたのですが、夜間にも働いて、寝ずに勤務に入っていたようです。睡眠不足と脳梗塞には関連がありまして、退院したら、そちらの方の生活改善をしていただいた方がいいかと・・」
知らなかった。そうだったのだ。かなり身体を酷使したのだろう。祥子は昔から、無理をしてしまうタイプの子供だった。子供時代の祥子の、歯を食いしばったような表情が、里美の脳裏にふと浮かんで消えていった。何かを無理に頑張る時の祥子はいつもそんな顔をしていたものだ。
子供なんて、いつまでたっても変わらないのだ。そのまま大きくなるのだ。大人の祥子も、きっと歯を食いしばったような表情をしていたのだろう。
担当医にお礼を言って、里美と凜は病室へと向かう。
そう。変わらない。ベッドに寝ている祥子は、子供の時のままだった。祥子が子供の時も、こうして時々寝顔を眺めた。この命は何処から来たのだろう、と不思議に思ったものだ。自分から生まれたことは間違いない。そういう意味ではなく。なんというか、うまく説明できないが、今、目の前にいて、息をしている一個の生命の不思議さとも、巡り合わせの妙とも言うべきものなのだ。
思えば、私たちには祥子と言う子供は、出来すぎた子供だった。明るくて、頑張り屋さんで、優しくて、成績も良かった。何も言わずとも、黙々と机に向かい。前のテストはクラスで一番だったけど、今度は二番だったよ、残念。とか、自然に笑顔で、さらりと言える子供だった。聞いているこちらもつられて、笑ってしまう。そんな気負いのない、自然体の、あっけらかんとした子供だった。
祥子なら、自分の子供でなくても、心から好きになれるだろう。それが、私たちのもとに、どういう巡り合わせなのか、来てくれたのだ。その喜びをかみしめるような、幸せに満ちた、寝顔の観察なのだ。
今も、その思いは変わらないように感じる。自分が味わった幸せを、凜と言う子供の親と言う形で、感じることは、この子にとってはどうなのだろうか、と不憫になってしまう時もあるが、少なくとも、凜と一緒にいる祥子は凜の障害を感じさせなかったし、本人も気にしている様子はなかったように見えた。
ふと、空気が動いてたばこの香りが漂ってきた。振り返ると、やはり雄一郎が立っていた。里美の夫である。雄一郎の香り、彼はヘビースモーカーなのだ。
「どう具合は?」心配そうに声をかけると同時に、「凜!」と言って凜を抱き上げた。凜はにっこりと笑う。雄一郎は凜に対して、普通に接することのできる数少ない人間の一人だった。
「あなた、仕事は?」驚いて里美がそう声をかける。少し、返答の仕方が間違っているような気がしたが、気になったことがつい先に声に出た。
「ああ、抜けてきたよ。僕が居たって、居なくたって、大丈夫さ」
この人は変わった。と、里美はそう思う。以前は考えられなかったことだ。元々仕事人間だった。凜が生まれたあたりからか、仕事に対する姿勢が反転したように変わってしまった。
世の中の流れさ、と雄一郎は言う。バブル期はそれなりの、今もそれなりの、社会のやり方と言うものがあって、それに従っているだけだよ、そういう彼は凜といる時間を出来るだけ取るようにしている様だった。
雄一郎は、合理的な人間だ。しかも、強い芯を持っている。そして何よりもおおらかだった。里美の宗教観には、賛成もしないが、反対もしない。黙ってみていてくれる。彼は、宗教を必要としないと見えて、僕は大丈夫だから、と言う彼の言葉に里美の彼に対する折伏は終わっていた。
里美が夜のご飯の準備をして、夜の会合に出かけ、雄一郎と祥子が二人で食事をとり、帰ってから里美が一人で食事をしている様な時にも、彼は何も言わずにいてくれた。休日に会合で、出かける時も、遠方にある本山に泊まり込みで宿泊するようなときも、機嫌よく送り出してくれた。
この辺りで、家族が不仲になる家庭は多いのだ。どちらかの選択をせざるを得ず、会合に出なくなってしまう人もいれば、家庭では口も利かず、その分会合では生き生きとして、その分を取り戻そうとしているような人もいた。
幸いにして、里美のような家庭は珍しい。共に夫婦が信者ならば、話は簡単なのだが、そうでない家庭も多いのだ。なかには信者同士で、教義感の違いから仲たがいする夫婦もいた。その中では、特別な家庭だった。それに対する感謝の念を伝えた時も、雄一郎はあっけらかんとこう言ったものだ。
「だって、僕らが出会う前から、里美は信者だったじゃないか。分かっていて結婚したのだし、まあ、留守番はさみしいけどね。我慢するよ」
この人は、と里美は思う。きっと祥子は雄一郎に似たのだ。私は何て恵まれたのだろう。
「私が来てすぐに担当のお医者様が説明してくれたけど、軽度の障害が残る以外は心配ないって、仕事もできるって・・」一気にそう説明した。大切なのは、この人に安心していて欲しいという事だった。この人が、安心していてくれたら、私だって心強い。
祥子はきれいな寝顔をしている。里美だって、昔はとてもモテた方だ。祥子の性格が雄一郎のいい所をもらったのだとすれば、外見は里美のいい所を得たのだ。そして、雄一郎はライバルがたくさんいたが、その中で里美を勝ち得たのだった。
雄一郎だって、だからといって不細工ではない。がっしりとした大きい体には、昔は贅肉がなくて、男らしかった。今だって、貫禄はあるものの、太っているわけではない。
そうなのだ、この家族において、凜だけが異質な存在だった。実際に、凜が生まれるまでは、里美の家庭は理想的家族の見本のようだった。一家で何処かへ出かける時、祥子の可愛さに、里美の上品さに、雄一郎の男らしさに、鼻高々だった。
どこへ行っても誰にも引けをとらない事への感謝の気持ちは、当然自身の信心に帰結していたのだ。
しかし、昔はよかったなどと悔やんでも仕方がない。そういう悔やみ方から一番遠いのは、雄一郎だと思われた。だから、雄一郎が安心してゆったりとしていてくれるというのは、そういう意味で里美の良い手本になってくれるという事なのだ。
「凜はドーナツ食べるか?」雄一郎が凜に話しかける。目の前で寝ている祥子の事はひとまず安心したらしい。寝息は安らかなものだったのだ。里美もつられてほっとする。
凜は目を大きく見開いて、うんうんと二回勢い良くうなずいた。これは、大いに賛成という意味なのだそうだ。
「そうかよしよし、じゃあ外にドーナツ屋さんがあったから、買いに行こう。おばあちゃんの分と、お母さんの分も買うから、凜が選んであげてくれるかな」
うんうんと二回うなずく凜。
「おじいちゃんは何にしようかな。チョコレートかな。それともクリームかな。凜は決められなかったら、両方買っていいぞ。おじいちゃんと半分ずつ食べよう」
そう言いながら、凜を抱き上げたまま、廊下に出て行った。廊下の方から微かに、二人のくすくす笑う声が聞こえる。里美はちょっと嫉妬する。
凜は、里美の前では声を出さないのだ。もう慣れたが、やはり寂しくもあった、自分があまり凜の事を気に入っていないのだ、仕方ないとも思えるが、凜が雄一郎にするように、なついてくれたなら、可愛がるのにと、どちらが孫でどちらが祖母なのかわからないようなことを考えたりした。
祥子
目覚めた時は、夜中だった。テーブルの上にドーナツが置いてある。これはお父さんの好きなドーナツ屋の箱だ。
お父さん、甘いものに目がないのに、太ってないのが不思議だった。ドーナツの箱の横には凜の描いた絵がある。ドーナツと祥子の顔が描いてあった。やはりお父さんが来たのだ、そして描かせたのだろう。お母さんでは、凜は絵を描いたりしないから。その下にお母さんの字が見える。いったん帰ります、とあった。皆して来てくれたのだ。
私は倒れたのだ、そこまでは覚えている。店長が、救急車と叫ぶ声が聞こえて、後はおぼろげだが、夢の中のような世界で、サイレンの音が響いていたから、やはりここは病院で、私たちのあの古いアパートではない。それは意外にしっかりと認識出来ていた。起きたとたんに、ここは何処?とはならないのだなとも思った。頭はしっかりしている様だ。
ただ、このようなことは初めてなのだ。恐る恐る体を起こしてみる、少し頭がぼんやりとしているが、何処も痛い所などはない。まあ、ぼんやりした頭の奥が、しびれるような感覚があり、頭を急に動かしてみたりはしないでおいた方がいいかな、というくらいの認識は有った。
何はともあれ、ただ倒れただけでよかった。皆だって心配しただろう。無理をしすぎたかな、と反省する。
安心して落ち着いてくると、おなかが空いた。ドーナツ、有り難い。箱に手を伸ばして、中身を確認する。やった。大好きなシナモンが入っている。時々シナモンが嫌いな人と言うのが居るが、あれは理解できない。もしもコショウが嫌いなら、肉に何をかけるというのだろう。
祥子はコーヒーも大好きで、シナモンを入れて飲むのが気に入っている。普通に売っている小さな小瓶ではすぐに無くなるので、ギャバンの大きな缶を買ってきて、コーヒーメーカーの隣に常に置いてある。それを一日に何杯も飲むのだ。
そして、ドーナツ屋さんに行くときは必ずシナモンを買う。ただ、店員さんには申し訳ないとも思う。シナモンを頼めば、これだけ別に包む必要があるからだ。丁寧に包んでくれるが、祥子はそれが他のものに移ったところで全然平気なのだ。むしろ歓迎すべき状況ともいえる。だから、なんとなく気まずくもある。シナモンと小声で頼むのはそのせいだ。
一度他のものにシナモンが移っても平気だから、包まなくていいですと言おうとしたことがあるが、ふと考えなおして、言えなかった。そう言われると、かえって店員さんは困ると思ったからだ。マニュアルに書いていないことを言う客と言うのは、やはり余計に店員さんを困らせることになるのではないかと、そう思った。
いつも頼むシナモン。コーヒー屋ではこれがシナモンロールに変わる。ところが、今日は何となく違和感がある。だいたいシナモンが入っていれば、部屋中に香りがするはずである。ところが、今日は箱を開けるまで、気が付かなかった。
このシナモン、香りが飛んでいるんだ。そう思って、かぶりついたがやはり香りが感じられなかった。
病院前のドーナツ屋は、よく行く店である。こんなことは珍しい。まあ、残念だが仕方がない。香りのないシナモンは砂を噛んでいる様で、なるほどこれなら嫌いになってしまうかもしれないな、と思いながら一つ食べた。
いつもは、ドーナツは一つと決めている。こんなに美味しいもの、決めておかないとえらいことになってしまう。際限なく食べてしまうだろう。だけど、今日は晩のご飯も食べてないし、もう一つくらいいいだろうと思った。
食欲があるのは良い事のように思えたし、シナモンの隣にチョコがけがあるのが目に入って、これが盛んに誘いをかけてくるのだった。お父さんの好きなクリームなら、まだ我慢が効くけれど、チョコレートはダメでしょ。
でも、これだけ食べるというのは勿体ない。コーヒーがないなんてもっとダメでしょ。そう言えば、病院の受付横に自販機があるはずだ。カップのドリップコーヒーなら記憶がある。機械の中で、豆を挽いて抽出するやつで、あれならエスプレッソもある。夜中に飲むものではないような気がしたが、この甘いミルクチョコに苦いコーヒーを合わせたくなって、そう考えただけで、期待ににやけてしまった。
これがイタリアなら、家長に怒鳴られているところだ。そんな話をどこかで読んだ。朝以外にエスプレッソを、しかも女性が飲むなんてとんでもないという話だったと思う。
それにチョコがけのドーナツだって、夜食べるのは犯罪行為だよね。
そっと個室を抜け出して、暗い廊下をしずしずと歩いてゆく。これもまた、初めての体験である。暗い夜中の病院。どこかで、赤ちゃんが泣いている。細くて、消えてゆきそうな小さな泣き声。生まれたての赤ちゃんってこんな感じ。声だって、弱弱しい。
凜もそうだった。そのうちに体がしっかりしてくると、泣き声だって、大きくなってくる。赤ちゃんの泣き声は自己主張だ。はじめは弱弱しかった自己主張が、だんだん大きく強くなっていく。それは赤ちゃんの身体の強さを象徴しているのだ。
凜だって、そこまでは普通だった。大きな声で泣いて、王様のように足を投げ出して、祥子はまるで王様にかしづく家来のようにおむつを替えたものだった。
しかし、そこからだんだん大きくなるにつれ凜はその弱さを表すようになった。泣き声は小さくなっていき、泣くことも少なくなった。自己主張はなりを潜めて、常におどおどと辺りを伺う子供になっていった。
祥子や、お父さんの前では比較的、自分を出すこともあったが、そうなってしまったのは保育園に行き出してからだ。やはり周囲の子供達との差が、凜に何かを感じさせたのかもしれない、と思ってきた。
一階の自販機にたどり着いた。思った通りに、ドリップコーヒーがある。ひんやりとして静寂な空間に、コーヒー豆を挽く音が響き渡る。深夜に一人だけでこっそりとコーヒーを入れる。なんだか理由はわからないが、おかしくなって、気持ちが昂った。
蓋をかけて、こぼさないようにもと来た道を戻り始める。先程はナースステーションに人が居なかったが、今度は一人いた。何かを書いている目をあげて、祥子を確認すると、にっこりと笑いかけてくれた。やはりあの反応からすると、自分は大したことなかったのだ、と思い気が楽になった。夜中のドーナツと合わせて、さらに気が楽になる。
部屋に戻り、ドーナツを一口食べる。どうもおかしい。ここのドーナツは結構チョコの香りが強いのだ。それが感じられない。そういえば、生地の小麦の香りも弱弱しい。もしやと思いコーヒーを嗅いでみる。お湯を嗅いでいる様だ。湯気のぬくもりは感じるが、コーヒーの香りがほとんどしない。いくら、自販機のコーヒーだと言っても、これはないだろうと思う。
この味覚の変化は思い当たる前例がある。風邪をひいて、高熱が出た時にこんな感じになった。そうか、と思いついたことがある。きっと、薬を処方されて、その影響でこうなっているんだ。仕方がない。一応病人なんだもの。それにこの病院の消毒液の匂い。これで、鼻がおかしくなっているのかもしれない。
だが少なくとも、カフェインが体にしみわたると、頭のしびれが収まっていく気がした。カフェインの中毒だわ、と思う。長い時間にわたってコーヒーを飲めないと、こうして頭が重くなるのだ。飲めば、解決するのだが。
だからと言って、デカフェを飲む気にはなれない。おそらくデカフェに変えたところで、何も変わらないかもしれないが、なんとなくカフェイン抜きのコーヒーなんて、不自然な気がするのだった。
祥子はカフェイン耐性になっていた。こうして、夜中に飲もうが、寝るのに支障はない。その代り、朝飲んでも目覚めるわけではない。ただ、この香りが気持ちを穏やかにしてくれる。それだけの事だ。だからデカフェでもいいんじゃない、とは思うが、本来あるべきものを抜いてあるというのは、気持ちが悪い。
とりあえず、熱いエスプレッソをその名の通りに急いで飲んで、再びベッドに入った。こうして時間を気にせずに寝られるなんて、貴重なことこの上ない。もう少し、この時間を味わおう。そして、退院したらまた、めいっぱい働くのだ。
凛
おじいちゃんは大好きだ。あの日から、おじいちゃんの家に泊まっている。
昼間はおばあちゃんだけで、おばあちゃんはちょっと苦手だ。理由はわからないけど、おじいちゃんだと言えることが、おばあちゃんには言いにくい。
夜になって、暗くなると、おじいちゃんは帰ってくる。おばあちゃんに言わせると、凜が居るから、早く帰ってくるのだそうだ。早いのかな。もっと早く帰ってきてくれたらもっと嬉しい。明るいうちに帰ってきてほしい。
でも今日は、おじいちゃんはお仕事に行かなかった。とても嬉しい。
その上、今日はお母さんが病院からおうちに帰ってくる日だ。おじいちゃんはおばあちゃんに海苔巻きといなりずしを作るようにお願いしてた。お母さんが大好きな、おばあちゃんの得意料理。
凜ももちろん好き。甘いお揚げの中に、ゴマの入ったご飯。海苔巻きはピンクのでんぶが美味しくて、可愛い。おじいちゃんが甘いもの好きで、お母さんもおじいちゃんと一緒で、だから、お寿司も甘いのよっておばあちゃんが言いながら作ってくれる。いつも、そう言いながら作る。
こんな時のおばあちゃんはすごい。お鍋をたくさん使って、お揚げを煮たり、卵を焼いたり、かんぴょうや、キュウリを切ったりして、一度にたくさんの事を次から次へとする。大きなお皿の上に緑のキュウリや、黄色の卵や、白いかんぴょうがだんだんに並んで、ピングのでんぶは順番待ち。海苔をあぶって、ご飯にお酢をかけて、混ぜている間に、凜はやっとお手伝い、つんとお酢の匂いのするご飯をうちわで扇ぐのが凜の仕事。
「ありがとう。これご褒美」おばあちゃんは甘い卵焼きを少し切り分けて、凜に食べさせてくれる。これもいつもの事。
でも、これが、いつもとても美味しい。ただ、おばあちゃんには言えないけれど、あの甘いお汁の中でぐつぐつ煮立っているお揚げを取り出して、あれだけをチューチューと吸ったら、どれだけ美味しいだろうかと、思ってしまう。
おばあちゃんにはきっと、その気持ちはわかってもらえないだろう。それだけが少し残念。おじいちゃんなら、わかってくれるかもしれない。でも、おじいちゃんは時々覗きに来ては、ニコニコするだけで、またすぐに何処かへ行ってしまうから、この話はなかなか出来ない。
それでも、凜がお手伝いをしている時に見に来てくれるのは、とてもとても嬉しい。
団扇で夢中で扇いでいる凜の耳に車の停まる音がした。おじいちゃんが大きな声で、「帰ってきたぞ」と言った。凜は団扇をすし桶の横に置くと、玄関に向かって走り出した。
「お母さん!」と大きな声で言いたかったが、心の中でそう何度も何度も言った。
「具合はどう?」と言うおじいちゃんの声に、何か不安を感じた。
その大きな背中越しにお母さんが見える。
お母さんの姿は、期待していたものではなかった。いつものお母さんではない。その直感が、凜の足を止めた。凜は立ちすくんだ。あれほど飛び込んで行きたかったお母さんの胸に、抱きしめられることに恐怖を感じて。
祥子
前の晩は、やはり少しおかしかった。気分が高揚して、確かにドーナツは嬉しかったけれど、それ以上にはしゃいだような気がする。その反動か、次の日はとても憂鬱だった。朝一で担当のお医者さんが来るまでは普通だったのに。
そして、明日退院しましょうか、と言われた時にはまだ普通に嬉しさと、仕事が始まる憂鬱さがない交ぜになったものだったが、ドーナツの箱の横にある凜の描いた絵を見たとたんに、気分が落ち込んだ。そして、落ち込んだ自分に驚いた。
しかし、あの凜の顔。今までは可愛いと思ってきたあの顔。今は可愛いとなんて、どうしても思えなくなってしまっている。悪い所ばかりが思い出されてしまう。どうも、おかしい。私どうしたのだろう。凜の事を考えただけで、イライラする。どうして、あんな子供が私の子供なのだろうとまで考えて、ハッとなった。
この言葉、夫がつい口にしたことがある。それを聞いた時、祥子は激怒したのだ。夫が平謝りに謝るまで、責め立てて、祥子自身も泣きながら、抗議した。
それを忘れたわけではない。今、冷静に考えると、夫がつい口走るのもわからなくもないとも思える自分がいることに驚く。子供が生まれて、その子が障害を持っている確率なんて、どれだけのものなのだろう。それがわざわざ自分の身に起こるという必然性はないのだ。
どうして、と言うのは夫の言う通り、凜を指した言葉ではない。それは運命の、いや単に確率の、それに対するどうして?なのだ。
あの時は全然理解できなかった、だが、今日は夫の言ったことが理解できる。それが理解できる自分になってしまったことにやりきれなさを感じながらも、その正直な気持ちはどうすることもできないのだ。
何かをそのように考えてしまう。或いはそのように思ってしまうというのは、残酷だ。他人に対しては、それをごまかして、隠すことはできる。しかし、自分ではわかっているのだ、頭で考える理想の自分ではない自分が、そう思っていることに。ごまかすこともできなければ、隠すこともできない。
頭で誘導して、そんな考え方ダメだと否定してみても、自分自身を否定してみても、そうしきれないのだ。こんな私は嫌だと思ってみても、しょせん人間は生き物だ。たとえそれが自分の娘だとしても、生理的な反応は自分自身を守る方に働く。こんな私は嫌だ、という思いは、凜なんて嫌だ、と言う形にじわじわ変わっていく。
母親の無償の愛。それを自分の中に感じた時に、自分の変化を感じて、驚いて、嬉しかった。あの思い。確かにあったのに、何処に行ってしまったのだろう。
そして次の日、退院の日になると、もう自己嫌悪は小さくなっている。それが顔を出す頻度は少なくなり、代わりに凜への憎悪が支配的になってゆく。もちろんそれは隠さなければならない、しかし、今こうして家に帰ってきて、立ちすくむ凜を見てしまうと、そうした思いは隠し切れないのかもしれないと、そう思った。
そうなの、凛、あなたにはわかるのね。もう良いわ、どうでも。あなたがその気なら、私への愛情を示してくれないのなら、わたしだって・・・
隆二
車を走らせていると、急に子供が飛び出してきた。轢きそうになるが、すんでのところで回避することが出来た。
やれやれ。危ないなあ。と、隆二は冷や汗をかく。仕事柄、交通事故の加害者も被害者も多く見てきた。その多くが、偶然の出来事にすぎないのだ。
それが起きて、二種類の人間が出来る。片方はたまたま被害者となり、片方は加害者となっている。いつ自分が、どちらかになるかもしれないのだ。
この仕事をしていると、偶然と言うものが一番恐ろしいと思う。周到に準備された犯罪だって、その犯罪を組み立てる脳の、いわゆる配線のようなものが、たまたまそのように仕上げられており、加害者はたまたまその脳を頭の中に持って生まれてきたにすぎないのだ。そう思っている。
さらには、その特別な犯罪脳、とも言うべきものを持って生まれたことが、不幸ではあれ、悪い事なのだとは、隆二には思えない。もちろん犯罪行為はいけない事だ。こういうのを、罪を憎んで、人を憎まずというんだよなと、そう思っている。その思いには、たまたまそうした犯罪脳を持たずに生まれてきたことに対する幸運に感謝する気持ち、いや安堵に近かったが、そうしたことが含まれていた。
種が生き残るための戦略と言うのは、多様化である。これは環境が多様だからだ。逆な言い方をすれば、多様化してきた生物が生き残っているのだ。これは進化してきた生物と言い換えてもいい。
進化は優れたものになるという意味ではない。たまたまその形がよかった。ただそれだけの事なのだ。優れたものが生き残るわけではない。
五度の大絶滅は、そのたびにその時代のもっともすぐれたものを滅ぼして、時代の端にいる弱者を生き延びさせてきた。環境の変化は、それまでの環境に胡坐をかく、または胡坐をかける能力の持ち主に対しては最も厳しい。甘やかされた彼らは、いやその環境に適応した彼らは真っ先に滅んでしまうのだ。
人間は森から追い出された弱者だった。森の周辺で、獣の襲来におびえながら、生きてきた。森の中には強者が居て、侵入を妨げている。森の中は快適で、食料も多いのだ。
ところが、気候変動が起こり、森が小さくなり、草原が発達すると、人間にはそれが有利になった。そうした弱者が常に変化でチャンスを得て、生き残ったのだ。
中には進化が止まって長い間その形態を変えずに生き残っているものもいる。しかしより多くの生物はこの進化と言うものにその生存をゆだねていると言っていい。多様化をするというのは、ありとあらゆる可能性を想定して、ルーレットで言うならば、すべての目に賭けるという事である。
人間の場合、比較的に強いものは森にあくまでも固執したものもいただろうし、妥協して、草原で暮らしていたものもいたことだろう。ある者は森に賭け、ある者は草原に賭けたと言いかえることが出来る。
ルーレットならば、どの目も公平だが、環境という事に対してはかなり違ってくる。ほとんど起こりえないようなことに対する対策も必要なのだともいえる。このような事は起こらないだろうと、油断していると、絶滅と言う憂き目にあうからだ。
目に配置するのに、どういった環境の変化に、どのようなタイプの人間が適正と言えるのかという事は、考える意味はない。すべては行き当たりばったりで、どうなるのかという予測すらない。
とにかくいろいろ作っておいて、その時たまたま適応できれば、生き残ると、そういう雑なやり方なのだ。いろいろ作っておくというやり方も、効率とか、優劣とか言ったものが考慮されるわけではない。それは単に順列組み合わせで、無作為に作られるというものだ。
もちろん種と言うのは、人間が作り出した、とるに足らない価値観、特に社会的な価値観などと言うようなものには全くと言っていいほど、関心がない。
そういうわけで、人間という生物には様々な種類の者が居て、お互いにその価値観が理解できなかったり、社会的に不適合であったり、生まれながらにして病気だったり、好みや嗜好が違っていたりする。
いわゆる広義な個性とも言うもので、その一つが、犯罪脳の持ち主という事なのだが、それは本人の責ではあるまい。誰かがその役を務めなければならないのだ。主の思し召しではない、種の思し召しだ。
その存在価値の低さなどと言うものは、単に社会的な価値観に過ぎない。先だっての通り、それは種にとっては取るに足りないものなのだ。
大切なのは、色々な種類の人間が、互いに理解できないほど広範に存在するという事なのだ。それが、第一の存在理由ならば、誰にその責を問うことが出来よう。つまり犯罪者と言う人種ですら、社会的に不適合であろうが、種にとっては戦略上の必要なパーツと言うわけだ。
そこで、誰かがこの外れくじを引くわけだ。隆二にとってみれば、犯罪者ではないにせよ、阿久根なんぞは外れくじもいい所だ。富士子だって、まあ、外れくじだろう。
しかし種の多様化という目的を達成するためには、この外れくじは誰かがひかなければならない。そういう意味では、隆二は自分に満足している。外れくじではなかったという自覚がある。
しかしながら、自分が外れくじに相当していなかったというのは単なる偶然に過ぎない。人間なんて、生まれた時からその一生は生まれ持った能力で縛られているのだ。これは、後天的な努力をあきらめるとかそういうたぐいの考えではない。後天的に努力する才能も生まれた時から持って生まれているという事なのだ。
たまたまあてがわれたこの体、もちろん脳も含めてだ。脳は性格や考え方の基本で、ここは神経の配線があって、電気が流れており、生化学反応があるに過ぎない。心などと言うものは、何処にもないわけで、その機械的な仕組みも含めて、しょせんこの体などと言うものは、借り物に過ぎないわけだ。
自分のもののようではあるが、自分の好きなようにはできないし、ならないのだ。自分の好きなようにしていると感じるのは、幻にすぎないが、その幻の中で生きていくのみである。ただ、借り物であるがゆえに感謝して大切に扱うと、そういう事なのだ。
犯罪者は可哀相だ。もちろん、被害者は余計に可哀相だ。しかし、隆二の気になるのは犯罪者と言う存在なのだ。または、犯罪の起こる流れの不可思議さなのである。
その名の通り、知恵があって、賢いはずの人間が、事犯罪となると、実に稚拙なのである。稚拙と言うのは、知能犯であっても、周到に計画された犯罪であっても、同じことだ。
それは、単に子供じみた欲望に、または子供じみた独善主義に、囚われたに過ぎないという意味だ。欲望は、瞬間的な時もあるし、長い時間をかけて育つものもある。独善主義はもっと恐ろしい。自分が正しいと思い込んでいる時に、それが本当に正しいかどうかは別にして、人間は最も残酷になれるからだ。
現に隆二だって、阿久根に対して、腹が立って、痛い目に合わせてやりたいという欲望を幾度持ったかどうかわからない。そう言う時の隆二は、大概自分が正しいと思っている。
多様性を考えてみれば、価値観などと言うものは、人が数人居れば、その数だけあると思ってもいいのにもかかわらずだ。しかし、そうした時はそこまで考えは広がらないものだ。
そして、そのコントロールを失えば、一人稚拙な犯罪者の出来上がりなのだ。その差は、紙一重に過ぎないと思う事もある。何かが、抑えてくれてはいるが、その抑えをうしなってしまえば、単に脳の配線に過ぎないその機能を失ってしまえば、またはその部分が故障でもすれば、身体は容易に脳の言いなりにならざるを得ないというのは、怖いと思う事もある。
そう、人間の身体は単に電気の配線に過ぎない脳の奴隷なのだ。
主の戦略であるところの多様性という方法は変わらないだろう。という事は、世の中に犯罪者が居ないという事が、かえっておかしいという事になる。そのような事は、多様性の観点からはあり得ないからだ。
仮にそうなるとして、それは人間と言う種の緩やかな絶滅を意味する。つまり、誰かがどのようにかして、犯罪者にならざるを得ないわけで、それが確立的にたまたま自分ではなかったというだけの事なのだ。その自分に与えられた僥倖に感謝して、同時に偶然の恐ろしさにぞっとして、それからほっとする。その上で犯罪者と言うものは可哀相だなと思う。彼らはある意味、種の戦略の被害者でもある。
そこまで達観したうえで、隆二はこの警察という仕事が気に入っている。人間は誰だって、自由を謳歌する権利がある。誰にも虐げられず、日々を味わいながら生きる権利だ。基本的人権というやつだ。
自由と言うのは、無秩序ではない。これはあるルールと制約を必要とするものだ。自由のための大前提と言っていい。警察とはこのルールと制約部分に相当する機関だ。自由のための機関と言っていい。無秩序はかえって、人の残虐を呼び起こす。人間の善性は信じるが、基本は性悪説なのである。
凛
あれから、お母さんは変わってしまった。別の人になってしまったようだ。私はお母さんが怖い。違う人が、お母さんの中に入り込んでしまって、お母さんを苦しめている。
里美
どうも、祥子の様子がおかしい。台所に入ってきたときから、おかしかった。凜を見る目が冷たいのだ。私たちの手前では、何かを我慢しているようにも見えた。いつ爆発するかわからない。急に凜を叱り飛ばしてしまいそうな、そんな危うさが見えた。雄一郎も何かおかしいことに気が付いている。病み上がりとはいえおかしい。
祥子は今まで凜にべったりだったのに、今は二人の間に見えない壁があるように思える。これまでは凜の目線で一緒にふざけたり、遊んだりしていたのだ。祥子のような母親が居て、凜は安心だと心強かったものだ。
雄一郎も祥子に気を使っているようだったが、この二人の関係も今までは羨ましいほどだった。それがどうだ、祥子の雄一郎に対する態度もすっかり変わってしまったように思える。鬱々とした雰囲気の中、気を遣う雄一郎が空回りしている、そんな昨日の夕食だった。
もうしばらく泊まっていくように祥子に言ったのだが、仕事があるからと、今朝早くから帰ってしまった。雄一郎が途中まで送っていくように言ったのだが、それすらも断った。そんなことは初めてだ。
仏教の教えに十界と呼ばれるものがある。人間の精神状態を上から十段階に分けたもので、最高位は当然仏である。仏界などと言う言い方をする。
仏教は、元々は個人として、この境地にたどり着くことが目的なのだ。この下に三つの状態があり、これを合わせて四聖と言う。悟界とも言い、ここは特別な状態である。
ここにはなかなか至る事が出来ないが、学びがそこへ連れて行ってくれるという。学びは仏教の事を学んでもいいし、他に何でもいい、料理や、歴史や、日曜大工や、そうしたことを素直に学ぶ心境は四聖に通ずるのだとは、さすがにうまく言ったものだと思う。向上心や、誰かの役に立ちたいという姿勢は確かに尊いように思う。
さらに、その下に迷界と呼ばれる六つの状態がある。通常人間はここにいて、あちらからこちらへと彷徨っている。それを指して、六道輪廻ともいう。欲望や、固執、喜びに、疑心、恐怖、暴力など、そう言った感情を様々に感じながら彷徨って生きているという教えなのだ。
これを基本として、別に十界互具と言う考え方がある。これは、仏の状態にもその他の九つの状態につながる道筋があり、仏と雖もその中に落ちてしまう事もあるという考え方だ。また、逆もしかり、最低の位である地獄界においてすら、仏に通じる道があるという事なのだ。
祥子の六道は、そのほとんどが喜びに満ちたものだったはずだ。それが、怒りや、暴力と言った世界に落ち込んでしまったように見える。もちろんそこからいつかは帰ってくるだろう。すべては繋がっているのだ。祥子と雖も、人間に過ぎない。そうしたことが今までなかったからと言って、その身に元から内在する良くない世界に祥子が落ち込んだとしても、不思議ではない。十分にありうることだ。
問題はそこに落ちてしまった原因だ。そのことを雄一郎に相談すると、初めて雄一郎は里美の信仰に対して批判的な言葉を発した。
「回りくどいな。単に体調が悪いんだよ。あれは鬱じゃないか?少し様子を見てそのうち診察に連れて行こう」
そうなのだ。その通りだ。知識が知恵とは限らない。それによって目が曇るという事もあるのだ。
「そうね。それがいいわ。ごめんなさい」
「いや、僕もきつい言い方をしたな。悪かった。祥子の様子があまりにおかしかったので、少し神経質になってしまったな」
そうなのだ。神経質。しかし、そうさせるだけの、漠然とはしているものの、動かしがたい不安がある。
祥子
凛と二人して、家に帰ってきた。明日からまた、凜を保育園に送って、仕事に行くのだ。
スーパーにはその旨連絡してあった。明日仕事に出たら、スケジュールを確認して、あまり入っていない様なら、牛丼屋にも連絡しよう。スーパーにある程度入っているなら、牛丼屋は暫く様子を見て、休んだ方がいいかもしれない。
あまり無責任なことはできないが、少しの間わがままも聞いてもらえるだろう。退院の件はまだ牛丼屋には知らせてないのだ。
昨日はどうも凜を見ていると、イライラしたが、今日はそんなことはない。二人でゆっくり過ごすことにしよう。まだ本調子ではないのだから、今日ゆっくりしたら、少しは回復するだろう。
「凜。こっちおいで。お腹空いてない?」
朝早く出たので、朝食はまだだった。もう昼近い。食べてない事に気が付くと、おなかが空いてくる感じがしてきた。
凜は、こっそりと黙って近づいてくる。さすがに、昨日のイライラした状態だと、怖かっただろうな。と、可哀そうになる。凜にしてみれば、怒られる理由がないのだから余計だろう。
また、凜にはやはり正直言って、普通の子供にはない引け目があるのだ。扱いをぞんざいにされると、途端にこういう感じで、自分を押し殺してしまう。
さすがに祥子や雄一郎はそのような扱いはしなかったが、里美などはつい凜を傷つけることがあった。悪気はないのだと、祥子は里美に関してはそう思っている。
期待に添いきれなかった、そんな子供を産んでしまった自分に非があるのだと、そう思っている。しかし、それはあくまでも里美の期待だ。祥子の期待ではないし、また雄一郎の期待でもない。雄一郎と同じ期待を共有できることが、慰めになって、あらゆることから自分を強く保つ力になっていた。
「何があるかな?何があるかな?」
歌いながら、冷蔵庫を覗き込む。食材にあふれた実家の冷蔵庫とは違い、ほとんど何も入ってないが、卵と牛乳なら入っている。
ここは、やはりホットケーキかな?そう言えば、倒れた日もホットケーキだった。ダメダメ、なんとなく目の前が暗くなる。トラウマらしい。
そうだ、食パンならあったはずだ。ここは、手抜きのフレンチトーストにしよう。これは、祥子の好きなメニューだ。本格的に作ろうと思えば長時間、卵液にトーストをしみこませなければならないが、あれはどうもパンが柔らかくなりすぎて、嫌いだった。
いや、きちんと上手な人が作れば、あんなふうにはならないのかもしれないが、ともかくさっと浸して、さっと焼く。
そんなものフレンチトーストじゃないよ、とフランス人なら言うかもしれない。いやいや、ケチャップのかかった寿司なんて寿司じゃないよ。と、言い返してやろう。
想像の中では、中国人が出てきて言う「キャベツで作った回鍋肉なんて、ありえないアル」ちょび髭をはやして、中華帽をかぶったコックに言い返す「葉にんにくより、キャベツのほうが美味しいアルよ。餃子だって焼いた方が美味しいアル。それよりもありえないアルは、あるないどっちアルか?」
そこまで頭の中で考えて、くすくす笑っていると、凜が横に立って安心した顔を見せてくれた。
「卵!」と歌いながら、凜の手に手渡した。
「卵!」と、繰り返して歌ってくれる。よしよしと、祥子は思う。
「牛乳!」
「牛乳!」
「バター!」
あれ、ケチャップの寿司はフランス人だっけ?イギリスかな?いやいや、イギリスなら、ウスターソース?フランス人なら、バターかもしれない。でも、やっぱり寿司じゃあない。バターを握りしめたまま、止まってしまった祥子のほうに両手の手のひらを広げたままの凜が催促する。
「バター!」
その瞬間に何かがこみあげてきて、涙腺が爆発した。
祥子は凜を抱きしめて泣いた。声をあげて泣いた。凜も泣いていたのかもしれない。自分の泣き声にかき消されて、それがわからないくらい泣いたのだ。
阿久根
隆二の奴まただ。また、あいつ加害者の事を憐れんでいる。明らかにそうだというわけではない。口に出して言うわけではない。
以前はそういう事をぽつりと言ったこともあった。しかし、そういうことはもう言わなくなって久しい。だが、長い付き合いだ。隆二の考えていることなんて、お見通しなのだ。
阿久根だってそのことに関して、何ごとか意見するわけではない。相手が心に思ったことを、ただ推測しているに過ぎないわけで、阿久根としてもどうも言いようがない。ただ無性に腹が立つのだ。憐れむのは被害者の方だろう。
以前、この思いを同僚にぶつけたことがある。彼はこういったのだ。
「イギリス人とフランス人は元々同じようなものだ。似た者同士だ。どちらも手づかみで肉を食っていたんだ。それが、フランスに嫁いだイタリア人の嫁さんが、フランスにナイフとフォークを持ち込んだ。」
彼はここで一拍置いた、阿久根の理解と効果を測っている。
「つまり、マナーや、美食もイタリア仕込みだよ。フランス人はそれを自分の手柄のように言いだして、美食に凝るようになった。気に食わないのはイギリス人だよ。食べ物に拘るのは、みっともない。貴族らしくないなんて、言いだして、彼らは美味しいものを、勤めて無視しだした。我慢しているのさ。肉体労働ではないので、一日は二食で良いなんて、言い出して、それでも腹が減るものだから、お茶は食事じゃないとか何とか言いながら、その時に砂糖をたっぷり入れた紅茶にスコーンやサンドイッチなんかを食べる。食事がまずいのは貴族らしいとか何とか言って、まあ、そこまで言ったかどうかはわからないが・・・」
「ちょっと待て、何の話だ?」
「ただ単に対抗意識に過ぎないと言いたいのさ。嫌いな、似た者同士の相手に反対したいだけなんだよ」
頓珍漢もいい所だ。対抗意識だと。思い出して、余計腹が立つ。似た者同士だと、やめてくれ、頼むからそれだけはやめてくれ。
「阿久根、聞いてる?」おっと、富士子だ。いけない、隆二に気を取られて、集中にかけていたらしい。
「ええ、聞いてますよ。現場の周囲の聞き込みね。了解しました」
珍しく傷害事件の担当が回ってきた。どうやら、他部署は忙しくてそれどころではないらしい。傷害事件と言うのは、物語だと毎週のように発生するが、滅多にないのである。だから、この特務課にそれが回ってくることは、最初で最後かもしれない。
被害者は、年配の男性だ。鋭利な刃物で滅多付き。今は生死の境をさまよっているらしい。重症もいい所だ。最初の傷が防がれていないことを考えると、不意を突かれたようだ。
しかし、その傷が比較的致命的なのにもかかわらず、必要以上に刺されている。感情的な事件なのだ。或いは、一度刺したが、死ななくて証拠隠滅のために殺そうとしたのかもしれない。
どちらにしても、加害者はよほど被害者を恨みに思っていたのだろう。そりゃ、被害者は、この加害者にとって、それほどに嫌な奴だったかもしれない。或いはひどいことをされたのかもしれない。
しかし、そこまですることはないだろう。それはやりすぎと言うものだ。人が人の命を終わらせようとするなんて、そこまで、身体を傷つけるなんて、恐ろしいことだ。死と言うのは、それを垣間見た人間にとっては、途轍もないものだ。
人はその最後に、今までの人生を走馬灯のように見るとは言うが、それは死にゆく人を見る立場の人間もそうなのだ。それが、その死に関わっているとなると、さらにそうなることになる。
阿久根は逃走中のひき逃げ犯を追いかけていて、そいつが事故って亡くなったことがあった。ぐしゃぐしゃにつぶれた車の中から、今にも死ぬ寸前の犯人が最後に目を合わせたのは、車外に駆け付けた阿久根だったのだ。
死を覚悟した犯人の目。その目から、阿久根の頭へと、怒涛のように犯人の一生が、その記憶が流れ込んだ。そのように感じた。すべてを把握したのだ。
それこそ走馬灯のようにすべてを見せられたのだ。彼の誕生、子供時代、学生時代、青年期、就職に転職に、恋愛に結婚、子供の誕生、そして離婚。すべてだった。不思議な体験だった。
それが、実際の犯人の生涯と合っているのかどうかなんてどうでもよかった。その映像は阿久根の想像のたまものでしかないと思っている。この犯人なら、きっとこういう風に生きてきたのだろうという、そういった類の事に過ぎない。
しかし、その映像を見せられた後、この映像に幕を下ろすのが自分であるという事に愕然としたのだ。劇場の緞帳を下ろす自分のイメージがその時は浮かんだ。主演俳優は犯人。観客は犯人に関係のあった人、親、子供、兄弟、友人、とにかくすべてだ。そうした人たちが、幕引きする阿久根の方を。何か言いたげに、しかもみんなが一斉にこっちを見ている。
人の命を終わらせるというのはそういう事だ。この話、阿久根は誰にもしたことがない。それは言い難い恐ろしさだった。だが、敢えて、それが出来る奴と言うのは、それ以上に恐ろしい奴なのだ。そうに決まっている。情状酌量の余地はない。人間的であるという事から最も遠い存在だ。
しかし、その一方で阿久根自身はこの理屈をとことん突き詰めてゆくと、矛盾やほころびが至る所にあるという事はわかっている。
人が人の命を終わらせる、その恐ろしい事以上の酷い事を、命を終わらせるとはまた別のやり方で、受けた人間が存在するという事だ。
だからと言って、私的に復讐しても、仕返ししても、いいのか?これに対する阿久根の答えは否である。物事はシンプルに考えなくてはならない。筋を通すというのは、そういう事だ。と、阿久根は思っている。
犯罪には被害者と加害者と言う二種類の人間しかいないのだ。加害者側にどのような理由があろうと関係ない。罪に応じて、然るべく決められた罰則を受けるのみで、その公的判断に私的な感情をさしはさむことは必要ない無駄な事なのだ。
私的感情から来る、矛盾やほころびなどは勤めて無視するに限る。そこに私見をさしはさむことこそおこがましいのではないか。そのおこがましさに気付かずに、隆二はいつもそのことで悩んでいる。それが見ていてイライラするのだ。
あいつは何様のつもりなのだ。自分がそれほど偉いのか。ああ言うのは、頭でっかちのバカと言うのだ。俺は筋を通すぞ。悩んだりしない。
「現場に行ってくる」そう言いおいて、部屋を出た。
里美
胃の辺りがおかしい。何かが詰まっているような。そこだけ異質な空間で満たされているような。自分の身体ではないような。祥子の見舞い以来、数日かけてやっと元の体調に戻ったのにこれではまた逆戻りだ。
病院からだという電話を受けた時、何故だかいやな予感がした。この病院は家族がいつもかかっている病院で、電話をくれたのは事務の女性だった。
この女性は顔見知りなのだ。だが、いつものような砕けた感じとは様子が違う。いやに型にはまった対応だった。
「石田さんのお宅ですね。奥さまですか?雄一郎さんは奥さまの旦那様ですね。雄一郎さんが、倒れて救急搬送になりました。こちらに運ばれてきておりますので,来ていただけますか?」倒れて?何があったのだろう。
「どのような具合ですか?大丈夫なのですか?」
「こちらにおいでいただいて、それからご説明します。病院の場所はご存じですね?」
先月、祥子の見舞いに行ったばかりだ。いつも行っているじゃないと思いつつ、はいと応えて、電話を切った。
祥子に連絡すべきだろうか?いや、先に私が事情を聞いてからにしよう。そう、思った。
タクシー会社に電話するのに、何度か数字を押し間違えた。やっと繋がると、今度は声が震えて、うまく話せなくなった。
タクシー会社の受付の女性は、変な人だと思った事だろう。その通りだ。今、私は変だし、もっともっと変になりそうだ。
気が付くと、またお題目を唱えていたが、声に出していることに暫く気が付かなかった。タクシーのドライバーのクラクションの合図で、我に返ると自分の声のお題目が、耳に響いた。
その後、タクシーに乗ると、お題目は心の中で唱えられたが、これは知らない間に、助けてくださいに変わっていた。
隆二
彼は、病院のロビーで待っていた。被害者である石田雄一郎は刃物で滅多付きにされて、倒れた状態で、公園内で発見された。
発見者が先に救急に連絡したので、先に救急隊が到着したが、同時に警察にも連絡が入っていた。通常なら、本来の担当課が動くが、別件で一部手が離せない状態だったので、特務課のほうにも、手伝うようにと指示がきたのだ。
当初の情報は血だらけの男性が公園で倒れているというものだったが、それがどうやら刃物による傷が原因で、凶器が現場には見当たらないとなってくると、事件性が大きくなった。
ここに運び込まれた時はまだ意識があったようだが、隆二が着いて暫くすると、意識が無くなってしまい、どうなるかわからないとのことだった。
隆二は今、被害者の意識の回復を待っているのだ。加害者の事を少しでも聞くことが出来ればいいのだが、しかしながら、不謹慎ではあるが殺人事件になってしまう可能性が大きくなってきた。
雄一郎の上着のポケットには財布が残されており、その財布には免許証が入っていたので、身元は簡単に割れた。カルテが病院に有って、家族でこの病院を使っていたらしい。
妻の里美には、隆二が着く前に、病院の事務の方から連絡してくれたという事で、こちらに向かっているという。もしかしたら、里美から何か聞けるかもしれない。
本来なら、直接迎えに行って、同行して連れてきたいところだが、雄一郎の意識の回復に伴う事情聴取のほうが、優先順位が高かった。
一方で夫が被害にあう場合、妻が加害者と言う場合は多い。刃物での滅多付きしかり、財布が残っていたことしかり、怨恨の線が濃かったため余計にそう感じた。しかし手続きとしては、救急搬送時に身元がはっきりしたら、病院から家族へ連絡がいくのだ。迎えに行っても、一足遅かったろう。
情報を集めるために、阿久根は現場周辺の聞き込みに出た。隆二は被害者への、もしくは家族への事情聴取と言うわけで、こうして病院で、次の動きを待っているのだ。待つのはつらいが、この仕事はこんなことばっかりなのだ。
時間だけが刻一刻と過ぎていくのには慣れていたが、それにしても里美の到着が遅かった。タクシーに乗ると病院の事務からは聞いていたので、その分を差し引いて、余計に待ってみたが、まだ来ないというのはおかしかった。何しろ、病院からの電話は今から二時間も前の事なのだ。
石田家の電話履歴を調べて、そこからタクシー会社を割り出してもらい、担当のドライバーにつないでもらうと、もうとっくにその客は降ろしたという。場所は、娘の祥子の勤めるスーパーの前だった。そこで、スーパーに連絡を取り、祥子を呼び出してもらった。
「石田雄一郎さんのお嬢さんの祥子さんですね。そちらへお母様の里美さんが向かったようですが、会われましたか?」自己紹介の後そう切り出した。
「警察の方?いいえ」と、祥子。対応は普通だ、いぶかっている節はあるが、何かを隠しているというような感じは受け取れない。
「母に何かあったのですか?」
「いいえ今のところは何もありません。お約束の時間に、遅れていらっしゃるようなので、確認しただけです。もう少し待ってみます。ご迷惑をおかけしました。ご心配でしょうから、わかり次第また連絡致します」そう言って、電話を切る。いやな予感がした。だが、引っかかっているのは里美の電話の第一声だ。
「どのような具合ですか?大丈夫なのですか?」そう言ったのだ。
この病院では患者や外部との電話をすべて録音していた。病院も大変なのだと思う。しかしこういう時は役に立つものだ。それを聞かせてもらったからだ。
都会の大病院なら、許可や手続きなどで、ここのようにすぐに聞かせてもらうのは無理だったろうが、田舎は何かにつけておおらかなのだ。
そして大切なのはその内容でなく、言い方だ。その後の病院の確認や、タクシーに乗る件の話では、声が震えていた。
どっちなのだろう。あれは雄一郎への心配だったのか、それとも自分自身の突発的犯罪行為が露呈することに対する心配だったのか?しばらく考えてみて、いや、後者ではないな。と、隆二は思った。どちらにしても問題には違いない、富士子に連絡を入れる。
「被害者の妻、里美が連絡後二時間で行方不明です。同、娘祥子の勤めるスーパー前にて、タクシーを降りた後、足跡不明。祥子には確認済。」
「了解。私は祥子のスーパーに向かうわ。そこでもう少し待機願います」
「了解」
最悪の場合だが、夫婦そろって恨みを買い、両者ともに被害者という線もありうるな、とも思った。だとしたら、娘の祥子も危ないのではないか。まあ、そちらには富士子が向かっているから、ひとまず大丈夫だろうと思った。
それから情報では、祥子には一人娘がいたはずだと思いなおした。こちらは手配しておいた方がいいかもしれない。孫の前に、もしかしたら里美が現れるかもしれない。保育園に問い合わせると、当該の娘には特に何も変わったことはないという。誰も面会には来ていないそうだ。
それでも一応管轄のパトカーをそちらに向かわせ、監視するようにしてもらい、その旨を富士子に連絡した。しかし、仮にそうだとして、そこまでの恨みと言うのは一体どういうものなのだろう。