10年不倫
「ね、今日が何の日かわかる?」
ベッドの上、私が訊くと、隣で俊介は首をひねった。
「……有紀の誕生日はまだ先だよな」
「私たちが付き合いはじめて十年目の記念日よ」
「そうだっけ?」
「そうよ」
出会ったとき、俊介は35歳で直属の上司だったが今は45歳。歳を感じさせることも増えた。
(昔は朝まで何度も抱いてくれたのに……今は一度だけ……)
とはいえ歳をとったのは私も同じだ。会ったときは27歳だが今は37歳。お局様とは言わないが、社内ではベテランの域に入る。
別れるでも、昔のように激しく求め合うでもなく、熟年夫婦のような関係になっていた。それだけ長く関係が続いたのは身体の相性が良かったせいもあるだろう。
「妻はただの同居人で、娘も自分にはなついてくれない。心が安らぐのは有紀と一緒にいるときだけだよ」
そう言って週末の午後は私のマンションにやって来る(妻にはゴルフの練習とか、適当な嘘を言ってるらしい。夕食は家で家族ととるので帰っていく)。ちなみに子供ができて以来、妻とはレスだという。
「娘が手を離れたら、妻と別れて有紀と一緒になりたいよ」
口癖のようにそう言った。だが、その日はついぞ訪れず、十年という歳月が流れてしまった。学生時代の友達は次々に結婚し、子供の顔写真入りの年賀状が届くことも増えた。
(私はこの十年間、この世に何も残さなかった……ただ会社の歯車として働き続け、お給料をもらってきただけ……)
人の人生に影響を与えるような仕事をしたわけでも、後世に子孫を残したわけでもない。一抹のむなしさを覚えないかと言えば嘘になる。
「じゃあ、どこかに飯でも食べに行くか」
俊介は気を遣うように提案をしてきた。
「私、お祝いを用意してあるの」
布団を抜け出し、ルームウェアを着てキッチンに行った。冷蔵庫から白い箱を取り出す。中にはホールのショートケーキが入っていた。
チョコ文字で「10th Anniversary Shunsuke&Yuki」と書かれている。ロウソクを刺し、ライターで火を付けると、両手で受け皿を持ち、運んでいく。
「じゃーん、イチゴ大きいでしょ」
脚の短い丸テーブルにケーキを置き、私と俊介はベッドの縁に腰を落とした。
「一緒に消しましょうよ」
ふぅーっと息を吹きかけてロウソクの炎を消すと、私は天井のライトをつけた。ベッド下の引き出しを開け、中に入れてあった小箱を取り出し、俊介に「はい」と手渡した。
「これ、プレゼント」
長細い小箱は赤い紙で包装され、金リボンが結ばれていた。俊介が包装紙を破き、箱を開ける。中にはアンティーク調のペーパーナイフが入っていた。
「今度、部長に昇進したんでしょ。受け取る郵便物も多くなると思って」
俊介は右手でペーパーナイフの柄を握り、左手を刃に当てた。
「あ、気をつけてね。海外のやつで刃付けがされてるし、先端もけっこう尖ってるから」
ヨーロッパから輸入したビンテージ風のレターオープナー、柄と刀身部分を合わせた長さは15センチもあり、重量感のある見た目は普通のナイフにしか見えない。
「あなた、こういうの好きでしょ?」
文具とか、時計とか、俊介は普段使いするものにこだわるタイプだった。特にアンティークな雰囲気のものを好んだ。
「ありがとう……うれしいよ」
「そのペーパーナイフ、錫が使われているの。知ってる? 結婚十年目のお祝いを〝錫婚式〟って言うらしいの。錫のように柔らかさと美しさを兼ね備えたカップルなんだって。ヤカンとかタンブラーとか、錫の使われた品物を贈るらしいわ」
ペアのタンブラーを俊介にプレゼントしても、彼と奥さんが使うだけだ。自分が贈った品をこの家に置くのも味気ない。悩んだ末、普段使ってもらえるペーパーナイフにした。
「なんか悪いな。言ってくれたら、俺も何か用意したのに」
「いいのよ。15年目は水晶婚式って言うんだって。そのときには水晶のアクセサリーでもプレゼントしてよ――なーんて」
「ああ、覚えておくよ」
十五年目、自分は俊介の妻になれているのだろうか。付き合っていたとしても不倫相手のままのような気がする。
(そのときには私はもう42歳……子供は難しい……)
私は一度、俊介の子供を堕ろしている。付き合って五年目の頃だ。俊介に泣きつかれ、しかたなく堕胎した。医者が男の子だったと教えてくれた。もし産んでいえれば今頃は五歳、幼稚園に入っているだろう。
「実は……今度、新規事業の立ち上げを任されそうなんだ。忙しくなるから、少し会える回数が減るかもしれない……」
「例の有機ELパネル事業でしょ。それだけ会社から期待されてるってことじゃない。がんばってね」
私はぼんやりと窓の外に目を向けた。
レースのカーテン越しに小さな庭が見える。庭からそのまま外の駐車場に直接出ることもできた。女性の一人暮らしには危険かもしれないが、庭にはローズマリーやセージといった好きなハーブを植えて楽しんでいた。
「有紀、誰かいい人はいないのか? もしおまえに好きな人ができたら、俺はいさぎよく身を引くよ」
ふっと私は鼻先で笑った。
「今さらなに言ってるのよ」
子供を堕ろした後、別れを告げたことがあった。すると彼は夜中に電話をしてきて、「有紀と別れたくない」と泣きわめいた。身を引くと言いながら、いざ別れようとすると、別れたくないと泣きつく――その繰り返しだった。
「……実はね、昨日、あなたの奥さんから私の携帯に電話があったの」
「え?……」
「私たちのこと、バレたみたい」
重苦しい沈黙が1LDKの部屋に落ちた。
「それで妻はなんて?……」
俊介の声はかすれていた。
「ぜんぶわかってるからって。証拠もあるって」
私の脳裏に電話での会話がよみがえる。突然、携帯に知らない番号から電話がかかってきた。出てみたら女は彼の名字を名乗った。
『あんた、うちの夫と付き合ってるでしょ。人の夫を盗んでおいて、どう始末をつけるつもり? 自分が何をしたかわかってる? 10年も不倫して……盗っ人猛々しいとはこのことよ』
ショックで頭が痺れ、何も言い返せなかった。
『あんたの家を教えなさい。慰謝料の話をしにいくから。教えなきゃ会社に押し掛けるわよ』
スマホを耳に押し当てたまま、私はぼう然としていた。その後、彼の妻が何を言ったかよく覚えていない。
目の前の現実が戻ってきた。俊介が青ざめた顔をしている。
「それで……家の住所を教えたのか?」
「ええ、これから奥さんが来るわ。あなたも一緒にいてくれるでしょ?」
「俺も?――」
俊介は絶句した。
「奥さんと別れるって言ってくれるわよね? 私と一緒になるって」
俊介が押し黙り、私の脳裏に再び彼の妻の声がよみがえる。
『あなたもバカな女ね。ウチの夫はあんたの他にも女が二人いるのよ。あんたは三人の愛人のうちの一人ってわけ』
私の十年間はなんだったんだろう。二十代から三十代にかけての若さと可能性にあふれる歳月を私は無駄にしてしまった。
部屋の壁掛け時計を見た。そろそろ約束の時間だった。
ピンポーン――玄関の呼び鈴が鳴った。
その瞬間、俊介がベッドから飛び降り、床に置いていたデイバッグを抱え、リビングの窓に向かった。思い出したように玄関に取って返し、靴を手に戻ってくる。窓を開け、ベランダに出た。
「ごめん……また連絡する」
そう言って庭から外の駐車場に消えていった。一瞬の出来事で、私はあっけにとられ、何も言えなかった。
(逃げたよ……はは……)
私の視線がぼんやりとベッドの上に向けられた。そこにはプレゼントしたヴィンテージのペーパーナイフがあった。
以前、車上荒らしがあったので、マンションの駐車場には監視カメラが設置されていた。荷物を抱え、あわてて飛び出していった俊介の姿がしっかり映っているだろう。
ピンポーンという呼び鈴の音が鳴りつづける。なかなか応対に出てこないのでいらだっているのか、最初より荒々しい押し方だ。
私はキッチンに行き、手荒れ防止に使っているゴム手袋をはめると、リビングに戻ってきた。壁のハンガーにかかっていた俊介のジャケット(これは忘れていった)をスウェットの上から重ね着する。
それからベッドの上のペーパーナイフを手にとった。
俊介の指紋がついたナイフ、返り血を浴びるであろう俊介の上着、そして監視カメラが捉えた、逃げるように去っていく男の姿――証拠としては十分だろう。
「今、出まーす」
ナイフを背中に隠したまま、私は玄関に向かった。
(完)